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11 想いは、きっと……

 西沢邸のインターホンが鳴らされる。

 西沢はあれから涙した後、さきほどようやく泣き止んだ。それからしばらくテーブルに突っ伏していたが、音に反応すると、よろよろと起き上がった。

 インターホンのモニターで二、三言を交わすと、慌てたように「ちょっと待ってて」と言って、リビングから出て行く。

 水道水の音がすぐ後に続いたところを見ると、どうやら顔でも洗っているのだろう。泣き腫らした目を隠しきれる物ではないだろうが、まあ、隠すためにメイクをするのもどうかと思うし、時間もなかったしな。


「ししゃも君、柊、来たよ」


 うん、でも……良いのか、西沢。俺が帰ったら、お前はまた一人きりでこの広い家に残されることになるんだぞ。

 くそ、高校生のガキ共の青春とか、悩みとか知ったこっちゃねぇよ。

 だけどな、なんだか胸がすっきりしねぇんだ。


 このままで良いのか、と。

 このままで全然俺はかまわないはずなのに、そう自分に問いかけざるを得ない。


 俺はリビングに戻ってきた西沢を見上げる。

 その目蓋は、まだ赤く腫れていて。到底顔を軽く洗ったくらいでは誤魔化しようもないものだった。


「え……へへ……柊に、泣いてたこと気づかれたらなんて言い訳すれば良いのかな」


 懸念を西沢はひとつ笑顔を浮かべてふきとばす。


「なるようになれ、だ。美玲、笑顔を忘れずにね」


 自分を鼓舞して、俺の方に手を差し出す。

 俺はされるがままに西沢の胸に抱き寄せられ、その柔っこいたわわを背中に感じる。

 どうも慣れねぇよな、これ。なんか良い匂いするし。匂いが! 胸が!


 玄関のドアを開けると、少しうつむき加減の柊が立ち尽くしていた。


「あ、美玲……ひさしぶり……でも、ないけど……」

「うん……」

「あ、あの……!」


 柊は顔を上げ、西沢と視線を交わす。

 と、柊の眉根に形の良いしわが寄った。どうやら、西沢が泣いていたことに気づいたらしい。まあ、そりゃ、きづくわな。


「あ……ありがとう、ししゃもの怪我の手当まで……」

「うん……でも、動物病院にも行くんでしょ? いった方が良いよ」

「……うん」

「……」

「……あのさ、みれ――」

「それじゃあ、ししゃも君、確かに返すよ」


 そういって、俺をの前足の脇に手を当て、柊の胸に押しつける。

 むう、同じ胸とはいえ、マシュマロと壁のくらい、感触が違う……って、何言ってんの俺?


「ありがとう……。あのさ……」

「うん、それじゃあ……」


 笑顔を取り繕いながらドアを閉めようとする西沢を、柊は慌てて制止する。


「ま、待って! どうしたの美玲? もしかして泣いてたの……?」

「あ、そ、そう……? いや、夕ご飯の支度でタマネギ切ってたから。それで……」

「そう……あ、お母さんにもお礼言わせてくれないかな? 手当とか、お礼言わなきゃ……」

「……あ、お、お母さんね、お母さん……今、ちょっと夕御飯の買い物に行ってて……」

「こんな時間に?」

「あ、うん、ちょっと買い足しってやつ? それより、動物病院の時間あるんじゃない?」

「あ、うん……」


 柊は訝しげに美玲を見たが、口にしたのは別のことだった。


「ね、美玲――なんか最近色々あったけど、また一緒にご飯とか……食べたりできないかな……?」

「え……? あー、そうだね、また一緒に食べられると良いよねー」


 柊の外面がクールな物であるように、西沢の外面は八方美人ともとれるコミュ力の高さだ。だから、柊の言葉を頭ごなしには否定しようとしない。


「それなら、こんど……」

「うん、今度……ね」


 柊はそう言うと、じっと西沢の瞳を見つめる。


「ん、あー、なに……? 今度、でいいよね?」


 たはは、と西沢は視線をそらす。それだけで西沢は、今言っている言葉が社交辞令であることを言外に伝えている。ずば抜けた非言語コミュニケーション能力だ。

 そしてそんな西沢を見て、柊は軽く唇をかんだ。


「美玲……ねえ、なにかあった? いま、泣いてたんでしょ? 誤魔化さないと……いけないこと?」

「え? やだなー、いつも通りだよ」


 柊はカラカラ笑う西沢を真剣に見つめる。


「美玲、私ね、私を助けてくれた人には、絶対に力になってあげたいと思ってる」

「……そ……う」

「そして美玲、あなたは、私をどん底の状態から救い上げてくれた、大切な友達だと、私は思ってる」

「あ、あはは……そっか、そうだよねー、ちゃんと恩は返してもらわなきゃと言いたいところだけど……大丈夫だか……」

「私、力になりたい。美玲が、私をそう思うようにまでしてくれたんだよ。辛いこととか、話してくれれ……」

「大丈夫だから!」


 西沢は下を向き、肩をいからせながら大声で柊の言葉を遮る。


「無理だよ、柊。……どうして察してくれないの? 普通わかるでしょ? 今はクラス内で浮いた立場にいるけどさ。それって、ほとんどあなたたちのせいなんだよ? もう、仲良しごっこは終わりにするの。私は、『みんなの西沢美玲』じゃなくちゃいけないの。そうじゃなきゃ、私が私でいることができないんだよ」


 柊は口を開きかけて、失敗した。


「だから、柊。私にはもう、関わらないで」

「……仲良しごっこ、だったのかな……? クラスの奴らと、巧くやっていくことよりも、ずっと?」

「――そうだよ。なれ合いのごっこ遊びはおしまい」


 愕然として、柊の瞳が見開かれる。それから、柊は悲しそうにかぶりを振った。

 違う。西沢はきっと、今の孤立した状況を、柊に押しつけたくないんだ。

 自分の重荷を、柊に背負わせたくないんだ。

 だって、それが『良い子』だから。『西沢美玲』だから。


「そう……。ごめん、美玲」


 柊は踵を返し、小さく呟く。


「――でもさ、私は……私たちは、いつでも、待ってるから、ね」


 そのまま、背を向けると、真っ暗な道を歩いてこうとする。


 だめだ、まだだ、まだ引くな、柊。

 西沢はな、きっと、まだ――。

 俺は身をよじって上半身をひねると、柊の肩越しに西沢の顔をはっきりと見つめる。


「ちょ、ちょっと? ししゃも?」


 突然の俺の行為に柊が動転するが、知ったことではない。

 俺は、目を丸くしている西沢の顔をじっと見て、一声鳴いた。


「にゃあ!」


 それで、良いのか、と。

 西沢に、そう問いかけた。


 西沢は少し驚いた顔で俺を凝視したが、すぐに斜め下に視線を外した。

 柊も釣られて西沢の姿を視界に収めるが、ややあって軽く息をつくと、再び踵を返した。

 街灯に所々を照らされた道を、俺を抱えながら、柊は悲しそうに歩く。


 ――人の苦しみというのは、弱さだ。

 そして弱さをさらけ出すことは、必ずしも懸命なことではない。

 たとえそれが友人であっても。打ち明けることで、鎧で固めていた自分が壊れてしまう。

 そういうこともあるのだ。俺は西沢の気持ちがわからないでもない。

 そして、それはこの柊もそうなのだろう。

 

 柊は西沢を『待つ』と言った。

 それが俺にはじれったくて仕方ない。

 そういう権利? あるね。

 こちとら、柊達の問題が解決するまで、もう時間が残されていないんだ。

 お前らのためじゃないんだよ。知ったことか。俺が俺自身を救うために、お前らには幸せになって欲しいんだ!

 

 しかし、俺は今、猫に身をやつしている、無為無力な元社畜だ。

 そんな俺に、何ができる?

 俺は何をすべきなんだ?


 ふと、俺たちの背中の方から、慌てた足取りが目に浮かぶような足音が聞こえた。

 振り返ると、走ってきたのだろう、サンダルを突っかけて、息を整えている西沢の姿があった。


「柊……」


 西沢は、何か大切なことを絞りだそうと、胸に拳を当てる仕草をする。

 だが、真剣に柊を見つめるそのまなざしは、すぐに浮かべられた淡い笑いに上書きされた。


「夜道……色々物騒だから、気をつけて帰ってね」

「……うん」


「にゃあ!!」


 ふざけんな! 俺は叫んだ。

 お前ら、お互いを思いやりすぎてるだろ? 確かに西沢は、今は不安定だよ。

 だけどな、俺は猫畜生に身をやつしてまで、お前らが築き上げてきた、大切な物を見ているんだよ! それを、こんなくだらないすれ違いでぶっ壊しちまうのか?

 『待つ』とか、なんだよ!?

 ぶつかり合うのが青春だろ? 傷つけ合うのが青春だろ?

 西沢は、あんな寂しすぎる家に一人帰るのか?

 柊は大切な友達を失って、悲しい高校生活を送らなきゃいけないのか?

 ふざけんな!


「にゃあ! にゃあ! にゃあああ!」


「ちょ、し、ししゃも? 何怒ってるの?」


 ひとしきり騒いだ後、俺は、柊の顔と西沢の顔を交互に見やる。


 西沢は、俺の瞳を直視すると、全身を震わすように、両の拳を下げて俯いた。

 それから、心から絞り出すように、途切れ途切れの声を上げた。


「ひ、柊――!」

「……ん」

「わ、私ね」

「……うん」

「私も……柊のこと……大切な友達だと……思ってるから……!」

「うん」

「だから……あなたとはもう仲良くできない」

「――!」


 なんでだよ!? どうアクロバットかましたの、その結論。

 驚愕しつつ心の中で突っ込みを入れる俺にはかまわず、西沢は続ける。


「私の汚いとこ、嫌なとこ、一杯見せちゃうから! そんなの、西沢美玲じゃない! だから……」


 ぎゅ。


 俺を抱きしめる感覚で、柊の表情は見なくともわかる。


「――見せれば良いじゃん。見せてよ。美玲のこと、嫌いになれるわけないじゃん」


 西沢は大きくかぶりを振った。その声は、どんな激情に揺さぶられているのか、酷く震えていた。


「そうじゃないんだよ! それは私じゃないから! ちがうんだよ! ――だから!」

「…………美玲?」


 西沢は、涙でぐちゃぐちゃの顔に、精一杯強がった笑顔を貼り付けた。


「もう、私はあなたたちと関わらないから。お願いだから、私を西沢美玲でいさせて」


 ……そう泣き笑いする西沢に、柊も――そして俺も、かけられる言葉は、ついに見つけられなかった。



 ――自分自身でいるがために、自分自身を騙り、自分自身を殺す。


 馬鹿なこと? そうかもしれない。

 だが、それは、俺が社畜として生きていた人生と、どう違うって言うんだ?

 自分を殺すことでなけなしの対価を得て、偽って、死んだ自分で生きていく。


 それが、『社畜』だ。


 柊よりもむしろ、その比喩を痛烈に訴えてくる西沢の言葉に、一番答えなければいけなかったのは、むしろ、俺の方だったのかも知れない。



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