10 誰もいない、賑やかな……
西沢は四角いフライパンで焼いた卵の厚焼きと、鼻歌交じりに調理した肉じゃが、ワカメとしらすの和え物などをテキパキとテーブルに並べた。
肉じゃがを作るときに取り寄せておいた豚肉とジャガイモ、それにご飯を混ぜた皿を俺の前に置く。
「さあ、ししゃも君、私の料理の腕をご堪能あれ!」
と、家に戻ったときのような明るさを取り戻して(柊よりたわわな)胸を張る。
俺は遠慮無く皿にがっつき――
「みゅっ!?」
そのジャガイモの熱さに跳び上がった。猫舌なのは人間の頃からだったが、やはり料理は冷ましながら食べるのが良いと再確認した。
西沢はそんな俺を見て、あはは、と笑いをこぼし、食事の添えられたテーブルに、一人腰掛けた。
「いただきまーす。今日のご飯も美味しく出来たと思うよ!」
うん、なかなか、この肉じゃが美味しい。薄味だけど。
やるな西沢。料理の腕も優等生だ。
「みゅう」
絶賛を声で伝えると、西沢は笑顔で応える。
「ううん、お母さんにはまだかなわないから! ……今日は柊がねー」
ん? 俺に話かけてるのかな?
俺は小首をかしげる。
「にゃあ」
「うん、この猫くん。柊の猫なんだよ」
「にゅう?(ん……?)」
「……それでね、私、どうやら今学期もトップ成績はかたいと見込んでいるのです。うぬぼれかな? 油断しちゃダメだよね」
「みゅ?」
……ん? ちょっと会話が噛み合わない?
「みゃ……」
おい、どうした? 西ざ……。
「……やだ、お母さん。私、お母さんの娘だよ? ちゃんとした行動を責任持って果たしています」
西沢はそう言って、コロコロと笑いながら、箸を動かす。
「遺伝ってやつですかね。お父さんもそんな可笑しそうに笑わないで」
「――――?」
俺の背中を氷塊が滑り落ちた。
西沢は、『食卓に一人座り、存在しない父親と母親と楽しげな食卓を共有』していた。
誰もいない空間に笑顔を送りながら、西沢は楽しそうに話す。
「学校は楽しいよ。私、いい子にしてるもの。友達も沢山いるんだよ」
なんだ? なにがおこっている?
イマジナリー・フレンドという奴か? 要するに想像上の人物を、本物と錯覚している?
西沢……おい、西沢……!
混乱する俺を放っておいて、西沢は何事もないように続ける。
「もちろん、勉強も、スポーツも、一番なんだよ。えへん、自慢の娘って奴?」
「……みゅ」
「大丈夫だよ、私、みんなに必要とされてるもん。みんなに好かれなくちゃ、私じゃないもんね。そんな私は私じゃないし……いらない……」
不意に、一人劇のトーンが下がる。
西沢は、視線を左手に持った茶碗に落とした。
「それでね、私……私……みんなに嫌われちゃったあ……」
「あはは」、と自虐的に微笑んで、そのまま顔を伏せる。
そして、地を這うような声が、空気を震わせた。
「私……いい子にしてるのに……いい子にしてるのに……なんで……」
そう言って、今度はあごを突き出すように顔を上げると、俺に向き直って、にこりと微笑んだ。
「ええとね、お父さんが外に女の人を作って帰ってこなくなって、お母さんまで、いろいろな男の人の所に通うようになったんだ。最近じゃ、家にいるのは私だけのことが多いの。……ししゃもくん、これが私のうちの、『幸せな食卓』だよ」
「…………」
俺は驚きに声を失っていた。
……西沢の対人交渉スキルは、空気を読むスキルは、時折過剰と感じることもあった。
弱者に手を差し伸べる姿勢、それもまた「優等生」としてだけでは計りかねるところもあったといえる。むしろそれは強迫観念のように思えることすらあった。
そして、そんな強迫観念を持たざるを得ない事情が、続く西沢の自嘲で、つまびらかにされた。
「お父さんとお母さんがいつも言っていたの。『良い子にしてなさい』って。『みんなと仲良くしなさい』っていう言い付けを、私はちゃんと守ってる。守っているのに……守っていたのに……どうして……」
軽く頭を振った西沢の頬には一筋の涙が伝っていた。
「私が良い子でいる間はね、お父さんとお母さんは喧嘩しないでいられたの。だから、私、必死で良い子になったんだ。でも……」
「…………」
「滑稽でしょ。ピエロなんだよ、私」
俺は沈痛な思いで下を向いた。
ありもしない家族の絆を守るために、かたくなに演じ続けること。
柊のトラウマだけではない。西沢もまた、尋常ではない闇を抱えていたのだ。
今にして、思う。一番はじめに柊に手を貸したとき、西沢はすでに「みんな仲良く」という強迫観念にとらわれていたのではないのだろうか、とも。
何で気づかなかった?
気づいてやらなかった?
あのとき、西沢は確かに言っていたではないか?
――必要とされない私になんて存在意義なんてない、と。
西沢には、必要とされることが必要だった。
だが、今の西沢は――必要とされていたとしても、それを素直に見ることができない。『みんな仲良く』『良い子で、優等生で』――それらが一気に崩され、家庭の闇をえぐられた西沢の精神は、何でも無いように見えてその実、まさに荒れ狂う海に投げ出された一艘の小舟のように翻弄され、沈む寸前で必死に体勢を保っていたに過ぎなかった。
西沢は、やがて静かな嗚咽をこぼし始めた。
声を押し殺して。
小さな、ちっぽけな肩を揺らして。
俺に何ができる?
猫のままで、俺に何ができるって言うんだ、ちくしょう。
必要とされない人間には存在意義なんかない?
そんなガキみたいな考えを、俺は声高に否定したかった。
だが、猫のままの俺には、そんなことができるはずもなく。
そして、同時に……。
――気づいてしまった。
――それなら俺は、どうなんだ? と。
猫にされたとき、『人間に戻りたい』と、俺自身が言ったとき、考えていたのは。
職場のこと、同僚のこと、上司のこと、生活のこと。
俺を待っている職場のことばかりしか考えられなかったのではないか?
ガキの考え? そうかもしれない。ガキの考えだが、あのとき追い詰められた俺が、心底思っていたことは、まさにそれだった。
あのとき思っていたのは、ただ『人間』に戻りたかったからだけではない。
『人間』という文脈に復帰して、人間に必要とされるために――人に必要とされる自分の立場に戻りたかったんだ。
そう自分を省みたとき、俺は戦慄で心臓に冷や汗をかいた。
西沢の嗚咽する声が、ただ静かに、キッチンの空気を揺らす。
だめだ、弱気になるな。否定しろ。
お前は必要枠なんだと。たとえ必要とされて無くても、自分を否定するな、と。
俺は、自分を偽っているのかも知れない。
それは、単なる虚言だ。
しかし、だからこそ、西沢にその虚言を届けたかった。そんなことはない、お前には価値がある、といってやらなければならなかった。
だが、猫の姿でできることは、なんだ?
今、俺にできることは?
俺は、ぐぐっと身を沈ませると、一気に跳躍し、テーブルの上に跳び乗ろうとした。
流石に高さが足りず、下半身はかろうじて爪がテーブルにかかっただけだったが、身を前のめりに乗り出し、後ろ『爪』でテーブルを何度も蹴り上げた結果、果たしてテーブルの上に上がることができた。
はあはあ……、あ、危ねー、ずり落ちるところだった。でも、何とか登ってみせたぜ。やるな俺。
俺のできること。
わからない。
そんなこと、わかるかよ。
だから、俺は……。
「ししゃも……くん?」
西沢が、困惑気味に俺の姿を視界に収める。
俺はテーブルの上に座り、前足をちょんと西沢の腕に乗せ、じっと彼女の瞳を覗き込んだ。
西沢の目が、きょとん、としたものに変わる。
しかし、それも束の間だった。
「ししゃも……く……」
最後まで、西沢は言い切れなかった。
口を覆い、止めどなくあふれてくる涙を手のひらの付け根で拭う。
いいのだ。
悲しんで。泣いて良いんだ。
虚勢だったかも知れない。虚構だったかも知れない。
だが、お前は……西沢は、誰より頑張ってきた。
お前がいなければ、柊はいくつもの試練を乗り越えられなかった。俺はずっと猫のままにされるところだった。お前が、俺を救ってくれたんだ。俺にとっても、そうなんだ。
だから、許す。お前がここにいることを、ここにいるって涙を、声を上げることを、俺が許してやる。
「にゃあ」
俺は、小さく、労るように、西沢にそう語りかけた。
「し……しゃ……うあ……ああ……」
――顔をグシャグシャに歪めた西沢は、自分の腕に乗っけられた俺の小さな灰色の前足を、反対の手で軽く握り、ダダをこねる子供のように、大きな声で泣きじゃくった。




