9 西沢邸
「ししゃもくん、ここが我が家だよー」
プレゼントを開ける時のような弾んだ西沢の声と共に案内されたのは、蔦の這った二階建ての瀟洒な建物。
なるほど、なかなか良いところに住んでいる。西沢は優等生らしいが、そのイメージがぴったりの作りではある。いや、なんとなく、ハイソっぽい感じ? とか?
手負いの俺を抱き上げたままの西沢は玄関のドアを開け、元気よく通る声を出した。
「ただいまー! 今日も頑張ったー」
空元気という奴だろうか? 学校での微妙な立場を感じさせない、ハキハキとした声。
そんな妙な西沢の態度に、どことなく居心地の悪さを感じながらも、俺は西沢邸の内部を観察した。
ふさふさマットが敷かれた玄関口の右側に、二階へと上る階段。その脇に奥行きのある廊下が覗いている。左手にはすぐガラス扉がある。間取り的に、リビングに続く感じだろうか? 照明は落とされ、廊下の先は薄暗い。奥に当たる白い壁がかろうじて見れるくらいだ。
誰もいない? 少なくとも物音ひとつしないし、西沢の声に応えるものもいなかった。
な、なんか、「今日、うち……だれもいないから……」って部屋に通される多感な時期の男というのは、今の俺のような甘酸っぱい気持ちになったりするのだろうか? って、なってねぇから。数々の黒歴史を繰り返してきた俺には、甘酸っぱい思い出とかは、すでに辛酸のそれに成り代わっているから。
「ししゃもくん、とりあえず私の部屋で、傷の手当てをしてあげるね。君は良い子だから、暴れたりしないと思うけど……」
肯定の意を示すために一声鳴くと、西沢は満足そうに頷き、二階へ続く階段をとんとんと上っていった。ふむ、西沢の部屋は二階か。良いな、こういうの。
玄関を開けてすぐに二階へ上る階段。子供の頃、青い色の猫型ロボットのアニメを見て育った世代には、そんな作りの家にはなんとなく憧れがあった。
「ここだよー」
西沢の部屋はさっぱりとした柊の部屋と違い、ピンクっぽい色に寄せて、どことなくフリフリしたものが多い、まさに女の子女の子した装いだった。
なんとはなしに、女の子特有のいい香りがする。柊の部屋でも、「女の子の匂い」というのはしたけど、女の子は独特の匂いを発するものなのだろうか?
もっとも実際には、そんな匂いの半分は、男の願望成分でできているに過ぎないとも思うわけだが。
カバンを机のフックに掛け、西沢は部屋を出て、ととと、っと階段を降りていく。
そして制服のまま薬箱を持ってくると、消毒液と脱脂綿、ガーゼ、包帯をもれなく用意した。
「ちょっとしみるよー」
消毒液を染みこませた脱脂綿でちょんちょん、と俺の足の傷を消毒する。
微かだが、刺すような痛みに、俺はきゅっと目をつぶった。
いっつ、いつつつ……。
「うん、強い子。男の子だ」
年下の女性にそう言われるのは幾分心外であったものの、やはり女の子の優しさというのに男性は弱い。猫じゃなかったら、うっかり惚れているレベル。
そんな俺の内心的葛藤はともあれ、西沢はガーゼを右後ろ足の傷口に当てると、手際よくくるくると包帯を回す。
「はい、おわり」
女の子座りのまま満足げに腰に両手を当てる西沢に、俺はお礼の鳴き声をあげた。
「みゃう」
「あはは、どうしまして」
西沢は柔らかく微笑んで、次いで、少し困ったような顔になる。
「ししゃも君、このまま一人で家に帰れるかな……?」
「……みゅう(無理です助けてください)」
神妙な面持ちで俯くと、西沢は「そうだよね……」とため息を吐く。
「……とりあえず、柊に連絡だね……緊急事態だし……しょうがないよね」
そう言って、スマホを取り出す。
西沢のスマホをフリックする手が、数瞬、緊張に震えた。
スマホから手を離し、数回握ったり開いたりを繰り返す。
それから深呼吸をひとつすると、目的の電話番号をタップした。
――コール音はそう重ならないで。
しかし、ためらいがちな、「美玲……?」という聞き慣れた声がわずかにスマホから漏れ出した。もっとも聞こえたのはそれだけで、西沢はやや決まり悪そうな声をしながら、電話に応対する。
「……あ、うん。柊……? えと……ししゃもくん、うちにいるよ。犬に……? そっかあ……うん、うん、偶然ばったりとね。怪我してたから、お母さんといっしょに手当してたの……うん? あ、ああ……ご両親と探し回ってたの? そうなんだ……」
柊と話し込みながら肩口の髪をくるくる指で回す。
「うん、怪我は大丈夫……。動物病院……そっか、それがいいかもね。え? わざわざうちに? いいよ? うち知らないでしょ? 私が柊の家まで送るから……だから……スマホのナビで? 住所知らないじゃん。……槻谷に聴く? やめてよ! あ、うん、いいよ、悪いよ……え、あ、うん……」
どうやら柊は、こちらの家に来ると言って聴かないらしい。もしかしたら、これを機会に、西沢と仲直りすることを考えているのかも知れない。
少し煩わしそうな音律も西沢の口調には混ざったが、ため息と共に、譲歩することに決めたようだった。
「……わかった。なら、二時間後に。住所は……」
美玲は大きくため息をつくと、こちらを見て淡く微笑む。
「……あなたのご主人様、一度言い出すと頑固だもんね。どうする、柊が来るまで?」
「……みゅう(お任せで)」
「あ、そうだ……ご飯一緒に食べてく? もうこんな時間だもんね」
そういえば全力ダッシュで小腹がすいた。ご相伴にあずかれるとすれば僥倖だ。
「にゃあ」
「そっか、じゃ、着替えて食事の用意するね」
そう言って、ベッドの脇に立ち、制服を脱ぎ始める。
当然のマナーとして俺はそっぽを向く。いや、柊と比べてたわわな膨らみをチラ見したくないわけでもないけどね!? 相手はまだ子供だから! 柊と同い年だから!
アラサーとJK。やっぱり、犯罪だよなあ……うん、犯罪だ。
青少年健全育成条例、尊いですちくしょう。
それにしても、西沢は自分で食事を作っているか。
帰りの挨拶とかしていたけど、母親とかはいないのだろうか?
耳をぴくつかせて、気配を探るが、やはり結論は家に足を踏み入れたときと同じ。
「今日……家、誰もいないから……」だった。
青少年健全育成条……ちくしょう!
どっちにしろ猫のままじゃ何もできねえから心配すんな!




