4 庇う
二つ目の「試練」以来、俺は柊の学校をぶらつくことが多くなった。
まあ、家にいてもやることないしな。お日様の光浴びるの、大事。
社畜の頃は「せっかくの休みなんだから、寝る以外したくない! 家から一歩たりとも出てやるものか!」と布団をかぶっていたものだが、猫になり、会社に距離を置いてみて初めて理解した。
あの異常と言っても良いくらい仕事に忙殺されていた人生は、俺の人間性を、尊厳を引きずり回し、足蹴にしていたという事実に。
少々の無理をしてでも生活するための糧を得る。仕事なんて辛くて当たり前なんだ。
そう思っていた。信じていた。
だが、その「仕事」と切り離され、客観的に自分を見れるようになって、そんな自分自身が、果たして今、猫の「ししゃも」として生きる以上に「人間」として生きられていたかと言われると、疑問符をつけざるを得ない。
俺は人間に、「社畜」に戻りたいのだろうか?
いや、人間には戻りたいけどね。再び「社畜」としての生活が待っているかと思うと、当惑すら感じるようになった。
と、構内の敷地をあてどなく歩いていると、後ろの方からきゃいきゃいとした声が聞こえてきた。
猫という存在には人間は限りなく甘くなる。特に女生徒には姿を見られる度にきゃーきゃーいわれる。まあ、アニマルセラピーとかってあるくらいだし? 日常の疲れた心を癒やすために愛でていたい対象になっているくらいの自覚はある。
しかし、普段は遠目で見られてわいわい言われるくらいだが、今日は少し違う行動に出られた。
不意に脇の下に手を通されたかと思うと、重力に逆らって身体が上方に持ち上げられる。
ふわりとしたその感覚に、俺は戸惑った。
わいわい言っていた女生徒の一人が、俺を抱き上げたのだ。
「かーわいー」
「やーん、毛がふさふさー」
「肉球! 肉球がぷにぷに!」
そんなことを口々に言いながら、数人の女生徒が俺の前足をつかんだり、ほおをスリスリと寄せてくる。
やめろ、こんな風に扱われるハーレムなどいらない。アラサー的には、愛でられるより愛でる方にこそ、快楽を覚えるものなのだ。
「これって、立花さんといつも一緒にいる猫だよね」
「えー、あの立花さんと? あの娘、いつもツンケンしてるし似合わない」
「この子に癒やし成分を分けてもらって、冷血を暖めてるんじゃない?」
言いたい放題だ。クラスで柊がどう見られているか、扱われているかが嫌でもわかる。
流石に腹が立ち、思わず抗議の声を上げる。
「にゃあ」
「わ! 鳴き声もかわいー」
「この子はこんなに可愛いのに、立花さんはあんななのかねー?」
「別にいじめているわけでもないのにね、あの娘もこれだけ愛嬌があればいいのに」
『ねー?』
女生徒たちは思い思いに囃し立てる。
悲しいかな猫畜生の身、俺が挙げた抗議の声は余計になぶられるだけのきっかけに過ぎなかった。
しかし――。
「ねえ、ちょっと、みんなさ……」
突然現れた第三者が、声をかける。聞き覚えのある声だ。
首を巡らせると、果たしてそこにはセミロングの髪の楚々とした容姿。西沢美玲が立っていた。
「あ、美玲じゃん?」
「どしたの? なんか怒ってるみたいだけど?」
西沢の表情は、確かに渋いもので、少し肩をいからせていた。
それに敏感に気づいた女生徒が、不思議そうな顔で西沢を見やる。
「あ、あー、別に怒ってないよ。そう見えちゃった? 心外だなー」
美玲はへにゃりと笑って、俺の頭をなでる。
「ししゃもくん、今日も来てたんだね。柊は教室にいるよ。お留守番、できる?」
「にゃあ」
俺がタイミング良く鳴くと、女生徒たちが「きゃー」と騒ぐ。
「何、この子言葉が分かるみたい。忠猫ハチ公みたい」
「忠猫ハチ公って何ー? ウケるー」
美玲が苦笑する。
「ししゃもくんだよ。賢い猫だよ」
「にゃあ」
『やーん! かわいいー』
そんな女生徒質の様子を見ながら、西沢はスカートをきゅっと握りしめた。
「ね、ねえ! その、さ……」
「ん? なにー?」
美玲は少しうつむいた後、決心したかのように顔を上げる。
「ちょっと聞こえちゃったんだけど、柊のこと、皆誤解してると思う」
「えー?」
「でも、ねえ……」
「そういえば、美玲と最近仲いいよね。調子乗ってるとは言わないけど、気をつけた方がいいよ、美玲」
「依存するからね、ああいうタイプ」
『ねー?』
西沢の顔が、今度ははっきりとゆがんだ。
「えっとね……確かにししゃもくんは可愛いし、賢い猫だよ。ペットは飼い主に似るっていうのかな……それっては本当だよね」
「えー、そうなんだー……」
「でも立花さんってねぇ、なんだか……」
「そういう話ってさ」
西沢は少し不機嫌そうな視線で女生徒質を一瞥したが、すぐにニッコリ笑いかける。
「……ちょっと耳に入っちゃったんだけど、あんまり気持ちいいもんじゃないかな。……憶測だけで柊を貶めるの、やめてくれると嬉しいかなって……」
「……」
女生徒たちは顔を見合わせる。
「だって、柊、私の友達だもん」
そして、ひまわりのような暖かさで、はにかむように微笑んだ。
空気を読むことが巧い西沢にとっては、それが無邪気な悪意に対する精一杯の抗議と侮蔑であることであることは、女性の友人関係のなんたるかを知らない俺ですらわかる。
――そして。
聞こえてるよな、柊?
お前がそこの校舎の曲がり角の隅に隠れていることなんてお見通しだよ。
なんたって、今の俺は猫なんだからな。猫の気配察知能力を舐めるなよ?
今のお前には、こんなに素敵な、「友達」がいる。
それは、お前自身が築き上げてきた、大切な資産なんだ。
その意味、大事な意味は、わかるよな。
「それじゃ、放課後までお留守番お願いね」
西沢は女生徒の胸の中に収まっている俺の頭をポンポン、と叩いて去って行く。
「みゃあ」
俺が返事を返すのと同時に、校舎の影にあった柊の気配も消えた。
西沢の気持ち、伝わったかな? 伝わっているといいな、と思う。
だが……。
「なんか……美玲ってさ。変わったよね」
「もともとじゃない? クラス委員なんてやっちゃってるくらいだし……」
「なんていうかなー……アレな感じだよね」
「微妙……?」
「それだよ!」
「ねー?」
ガキの青春のあれこれになんて関わらないつもりだったのに。
今は人間に戻るために、ただ目の前にある『試練』を乗り越えればいいだけなのに。
それなのに。
なんか、イライラが治まらない。
「ぶみゃあ」
不機嫌に上げた声は、また女生徒たちに「かーわいー!」と弄ばれるだけで、雨が降り出しそうな、湿気を含んだ冬の空気をわずかに振動を与えるくらいの力しか及ばなかった。




