1 賑やかな食卓
猫になってみて困ることナンバー3は、下から爪とぎ、お風呂、そして、栄えある一位はトイレである。
爪は爪とぎが用意されているにもかかわらず、本能的にそこかしこでガリガリやってしまうし、毎日風呂に入っていたほどの風呂好きの俺にとっては、シャンプーしてもらう間隔が5日にいっぺんなど――猫としては多い方なのだろうが――、とにかく長すぎる。
湯船にもゆっくりつかれないし、だいたいが風呂に入るなると、総毛立つような恐怖に襲われる。これが神が言っていた「猫の本能だけは残しておいた」ことと繋がるのだろうか?
ともあれ家では柊の部屋に堂々とそのトイレは鎮座しているし、事を済ますにも柊にガン見されていることもままあるので、姿は猫畜生といえ、プライドが傷つくことこの上ないのだ。
そんなわけで日中、柊の家にいるときは、小はともかく、大は柊の家の人間用トイレをばれないように使っている。テレビでよく見るし、芸としては別段珍しいことではないのだが、やはり目立ちたくはないところではある。
そして今、学校に来ているときも、なるべく生徒の目のつかないようなところを選んでする。校内の土の部分で、草葉に隠れて。
そんな風なトイレタイムには、いろいろな生徒の内緒話というものが自然と耳に入ってくるものだ。
特に最近では、あまりよろしからぬ噂話も拾うことが多くなった。
例えば、こんな感じだ。
「なんか最近あの子、微妙だよねー」
「あー、なんかあのバスケ部の正宗君にも粉かけたって言うじゃない。真面目そうな顔しながら……ね?」
「それで今は佐々木君でしょ? ああいうの、清純派ビッチっていうのかねー。クラス委員なのになー」
「それは言い過ぎじゃない? でも、付き合い悪くなったって言うか。何か変わってきてるよね。あんまりいいとはいえない奴らとつるむようになったし」
「ポイント稼ぎなのかねー?」
「あの子は悪くないんじゃない? 最近仲良くなった奴らがあまりにも酷すぎるわけで」
その噂話の対象者は、一瞬柊のことかとも思ったものの、よく聞いてみると明らかに西沢である。事実とは違うところもある流言飛語が飛び交う様は、柊達への悪口も相まって、聴いているとなにか胸がモヤモヤしてしまう。
そもそもが、西沢の本命は正宗でも、最近柊達を含めて付き合うようになった佐々木でもない。槻谷の存在を忘れないでほしい。
槻谷! 影は薄いが、実は西沢の幼なじみポジションにいる槻谷を宜しく! 忘れないでね!
まあ、ガキの陰口なんて猫も食わない。反吐が出そうではあるが、聞かなかったことにして、俺は昼食をともにしているであろう柊たち四人のもとへ向かった。
柊一人だった昼食風景には、今や西沢美玲、槻谷、佐々木が加わり、一種の賑やかな雰囲気までも醸し出すようになっていた。もっとも、今は冬真っ盛り。校庭でご飯というのもどうかいうことで、学食に併設されているカフェテラスを使っている。猫がいるべき場所ではないのだが、文句を言われたことはない。そこにはなにか、吹きだまりのような暖かさがあった。
「そういえば、そろそろ二学期も終わりだね。クリスマス、柊はなにか予定あるの?」
「ないよ。美玲こそ、槻谷君と過ごすんじゃないの?」
何気なく切り出した会話に突然のカウンターを入れられ、西沢と槻谷が同時にむせかえる。
「ばっ……! こいつとは、そんなんじゃ……」
「立花、僕にだって、選ぶ権利が……」
「選ぶ権利って何よ。槻谷にそんな権利があるわけ無いじゃない」
ピントのずれた反論を西沢がすると、佐々木が頭を掻いた。
「もうお前ら、つきあっちまえよ」
「……な! 佐々木君はどうなの? 柊とデートとか、以前良い雰囲気になってたんでしょ?」
「あれは一時の気の迷いだし、俺はとうに振られてるよ。な? 立花?」
佐々木は肩をすくめる。そこに、柊の鈴を転がすような声が被さった。
「まあ、振ったとそういうんじゃなくて、今は男と付き合うとかそういうの無いから。私は、今年もししゃもと過ごすよ」
そういって、柊の椅子の傍らに座る俺の頭をなでる。俺は思わず目を細めた。
柊は言葉を続ける。
「まあ、美玲は槻谷く……男がいなくても、女子会とかあるんでしょ? 家に呼んだり、呼ばれたり?」
ふっと、間が開いた感じがしたが、西沢はすぐに笑顔になった。
「そうだねー。女子会もいいけど……家族と過ごすよ。本来のキリスト教的クリスマスってやつ? お母さんが毎年、張り切ってケーキ作るんだ!」
嬉々として話す西沢を、複雑な表情をした槻谷が横目で一瞥したような気がした。あるいは、気のせいだったかも知れないが。
「柊と佐々木君こそ、イブは二人で出かけてみれば? こうして佐々木君が食事を一緒にしてくれるようになったのも、結局柊が原因でしょ? 老婆心ながら、美玲ばばあは忠告します」
「馬鹿言ってるんじゃねぇよ」
佐々木の彫りの深い顔が目に見えて紅潮するが、柊は首を振って否定した。
「んー、佐々木君と二人でもいいけど、この四人でパーティというのもいいんじゃないかなって思う」
「お、おう、そうだよな。みんなでパーティとか、いいよな」
佐々木は少し残念そうに、だが、助かったかのような安堵感を込めて同調する。
「うん、それもいいかもね」
美玲は明るく笑う。
「そっか、もうクリスマスか・・・・・」
ふと、柊が感慨深げに呟き、それから表情に影を浮かべた。
西沢がそれ視界に収め、「あ」というような顔を見せ、軽く下を向いて呟く。
「そういえば……もう一年なんだね。あのことがあってから……」
「……そうだね」
「あのこと?」
佐々木がぶっきらぼうに聞く。
「立花と西沢さんのクラスでは、去年ちょっと、あったんだよ。僕から後で教えるから、今は追求しないであげて」
「なんかお前、初めて会ったときよりどんどん偉そうになっていくな。もっとおどおどしてる感じだったのに」
「そ、そんなことないよ。佐々木君の方こそ、立花に紹介されたときから、どんどん温和になっていっているじゃないか」
佐々木の突っ込みに、槻谷はつっかえつっかえ返す。
確かに、この二人も、もちろん西沢も柊も、どんどんと変わっていっている。お互いが気の置けない友人として、全員が成長している。
西沢は仕切り直すように顔を上げ、憂鬱な感じを吹き払うように、少し不自然な笑みを浮かべる。
「ごめんね、暗い話題になったね。今は目前に迫ったクリスマス! ハッピーなこと考えましょう」
柊も頷いて、すこし作ったような笑顔で微笑んだ。
「そうだね。考えるなら、いい事を考えよう。なんてったって、私たちは青春まっただ中なじょしこーせーなわけですし」
「何なのそれ? 柊、おっさんくさいなあ」
「おっさんJKも需要があるかもね」
「そんなフェチと付き合うの嫌よー」
「あはは」
盛り上がる二人のJKを前に、佐々木が苦虫をかみつぶす。
「おい槻谷。こいつら、俺らの存在をカウントすらしてねぇぞ?」
「あ、そうだね。ゆゆしき問題だね」
「やべぇな」
「うん、やばい」
「何こそこそ言ってるのよ、男連中」
西沢がすかさず突っ込みを入れ、その場に、冬の冷気をほっと暖めるような、笑いの花が咲いた。
◆◇◆
授業が終わり、柊と二人、帰り道を並んで歩く。
柊が白い息を吐きながらひとりごちた。
「もう、一年経つんだ……」
「みゅ?」
不意の言葉に、俺が柊の顔を見上げる。
「私って何だったんだろうね? 結局、あのとき送られてきたはがき一枚のつながりしか、私はもてなかった」
不審そうに俺は柊を見上げ、もう一声「にゃあ」と鳴く。
「ごめんね、ししゃも。何でもないよ」
柊は、そういって俺に微笑んだ。
浮かべたその笑顔は、ひどく儚くて。
胸になにか刺さるものを感じ、俺はその不快さを胸騒ぎとともに弄ぶ。
もしかして、柊のトラウマ、『ゆかり』とやらのことだろうか?
なんとなく、元気づけたいような気持ちもする。
まあいいか、サービスだ。もう一度心配そうな瞳で鳴いてみよう。
「にゃあ」
柊は俺を見下ろすと、ふふ、と笑みを漏らした。
「だいじょうぶだよ。ねぇ、ししゃも……でもあたしさ、最近、勘違いしてたかもしれないなって」
「にゅ?」
「美玲、槻谷君、佐々木君、今は沢山の人が、私が無理に自分を作っていないというのに、集まってくれている。少し前の私なら、大人になるって、もっと周囲の空気を読んで、人の傷には触れないように、壁を作って、当たり障りなく、無難にすり抜けることだと思ってた」
「にゅう?」
――いや、その通りだと思うけど。むしろそれが『大人』ってものじゃない?
「でも、違うんだね。みんなとぶつかり合って、今がある。時々は……本当に時々だけど、真正面から本音を言って、傷つけあって……その上で人の傷をいたわってあげることが大事なんだね」
うーん、と俺は心の中で唸った。
――とんだ勘違いだ。そういわざるを得ない。
人という生き物は、生きるために周囲と巧くやることを覚えることで大人になり、大人になって、そんなことをやり続けてゆっくり自分を殺していく。
それが常識で、それが大人になるということなのだと思う。
だが、一方で、こいつら高校生の青春に当てられていた俺は、首をひねるところもあるのだ。
でも、と。それなら、大人になる意味って、何なんだろうか?
柊の悟りはいわば、俺のいままでの人生を全否定していた。
……と、柊の帰宅する方向とは別方向、つまり学校に向けて――部活動か何かだろうか? 学校へ向かう女子生徒数人とすれ違った。
女子生徒達は柊を見るとふと視線をそらし、すれ違った柊の背後でごしょごしょと言葉を交わす。
「……ほら、あの子。クラス委員が……」
「美玲も……つるんでるのが……」
「それがさー」
猫耳のパラボラアンテナでも拾いきれない声だが、悪意だけはまざまざと感じ取れる。
それは主に柊というより、柊達に関わる西沢に向けられているもののようにも感じ取れるのだが……。
「行こう、ししゃも」
不快な雰囲気を感じ取ってか、柊の足取りが速くなる。
俺も置いてけぼりを喰らわないように、歩調を速めて、それに続いた。