9 社畜とシンデレラ・タイム
ここ……どこだ?
暖かく肌寒い、矛盾を孕んだナトリウム灯に照らされる公園のベンチ。
その端っこに座り込んで、俺は大きな息を吐きながら背もたれに体重をもたれかからせる。
俺は、どこで間違った?
そもそも、俺の人生自体が間違っていたのかもしれない。
しかし、間違った人生でも愛おしかった。これから猫として生きていくなんて、考えたくもなかった。
やり残したこと? 沢山ある。ありすぎて数えることなんて、到底できるものか。
たとえば、だ。
一日中寝たい。次の日の仕事を考えずに、死んだように眠っていたい。
食事の用意をせずとも、ご飯が用意されているような環境を満喫したい。
女と一緒にいたい。色々話すのは苦手だから、空気のように、同じ空間を共有したい。
それから……それから……。
……おや?
何も湧いてこない。やりたいこと。普通に生きる以上の欲求が、全く考えられない。
なんで? もっと、夢を叶えるとかなんかあるじゃないか、青春臭い、青っぽい願いでもいい。なのに何も思いつかない。
社畜生活に慣れすぎた俺は、いつの間にか夢とか望みとか、人間らしい当たり前のことさえ考えつかなくなっていたのか?
……そもそもが。
今さっき挙げた『やり残したこと』って、俺が猫になって、すべて達成していることじゃん! いいのか俺の人生? 猫畜生の生活にも劣る人生で、本当に俺は幸せといえるのか?
「なんだよ……俺の人生、いいことなんかなかったじゃんよ」
「深刻だね。今日くらい、そんなこと思わずに済めばいいのに」
「ああん? しょうがないだろ? 『今日くらい』じゃなくて、俺の人生なんて、『今日限り』、なんだよ」
「何それ、よくわからない」
「分かられてたまるか。だいたい……へ……?」
「にゃあ」
ふと、足元に灰白色の塊が擦り寄って、こちらを見上げて愉しそうな声を上げていた。
「は? ……は?」
なんだこいつ? ……俺?
……いや、『ししゃも』か?
そして、声をかけてきた女の声は……?
「やっぱり来た。この前ぶりだね、おじさん」
「なんで!? なんでお前こんな時間に、ここにいるわけ!?」
「いたらわるい?」
「いや、意外すぎたから」
俺は寝耳に水どころか、バケツいっぱいの水をぶっかけられた様相で、ひどく驚いて身をよじってみせた。
それを見て、面白そうに柊が笑う。
「ししゃもがね……この猫なんだけど……今日はやけに外に誘ってきて。一緒に散歩に出てたの。後をつけてきたら、おじさんがいた」
「お、おう……」
「なんてね。流石に今の今までじゃないけど、今日はずっとここにいたんだよ」
「そう……か……って? なんで? お前、今日はデートしなかったの?」
「あ〜、デートねぇ……まあ、あいつはもう大丈夫だと思うよ。そう感じたの」
「……結局二人はどうしたんだ? 既読スルーみたいなシカト決めたのか?」
「おじさんが私のことどう見てるかがよくわかるね。ちゃんと断ったよ。今日は、もっと大切なことがあったから」
柊は淡い笑みを浮かべると、ベンチに座る俺の隣に腰掛けた。
ししゃもも心得たもので、その足元の地べたにちょこんと座り込む。
なんかこいつ、俺が憑依してなくても、忠猫を貫いているっぽい。
「……確か今日、誕生日休暇だよね」
「は?」
「まあ、仕事自体が療養休暇中だったっけ? 特別な日なのに忘れちゃってるんだもんね、重症だわ、これは。こっちは本当に待ちぼうけで、すごく疲れちゃったんですけど」
闇夜の公園の街灯に照らされた柊は、訝しげに首をかしげる俺に、いたずらっぽい笑みを見せる。
「……は? それで、今日は俺を待っていた……? お前……ばっかじゃねぇの? なんで俺が来ると思ってんの? なんなの? アラサーおっさんに何の用なの? 宗教勧誘?」
「なんとなく、あなたに会いたいと思ったんだよ」
そう言って、自分の胸をとんとん、と叩く。
「おじさんに言われたとおり、ここに聞いてみた。今会いたいのは誰かって」
俺は、ぽかんと間抜け面で口を開ける。
「誕生日、おめでとう。これ、プレゼント」
「お、おう……」
そう言うと、綺麗に包装された袋を、俺の胸のあたりに押し付ける。
ちょっと待て、理解が追いつかない。あれだけ入れ込んでいた佐々木はどうなったの?
もう大丈夫って? 確かに、傷心の男をずっと支えるなんていうのは、彼女とかになったやつの仕事だろうけど。
でもさ、同級生のイケメンより俺を待つなんて……俺にそんな価値があるわけ無いじゃん?
俺は何も持ってない、アラサーのおっさんだぜ?
「開けてみて」
「あ、ああ……」
困惑しつつ、袋の中に手を入れて、四角く硬い箱らしきものを探り当てる。
それを取り出し、俺は眉にしわを寄せた。
「『ストレスが胃に来たら 大日漢方胃腸薬 神経性胃炎に効く』……」
「おじさんにぴったりのプレゼント、探すのに苦労したよ」
「……なめとんのか小娘。どこの世界に誕生日プレゼントに胃腸薬送られて喜ぶ奴がいるんだよ」
「んー、でも、それ、もうひとつのプレゼントとセットだよ?」
「は?」
「それじゃ、私の用はそれだけだから」
「お、あ、お? ああ……」
「じゃね」
柊は、身を翻し、帰途につこうとする。
沈黙を保っていたししゃもも、そのあとにトコトコと付いていく。
ふと、俺は小首をかしげた。袋の中に胃薬以外の何か重いものが入っているのに気づき、もう一度手を入れてガサゴソする。
「あ……」
俺の口から、そう一言漏れ、続く言葉が霧散する。
小さく小分けされ、ラッピングされたマドレーヌが数個、袋から引き抜いた手の平に載っていた。
多分、これ、手作りだ。
セットで胃腸薬と? どんだけ自分に自信がないんだ? これは劇薬か?
「ちょっとまて、そこのJK!」
気づいたときにはそう大声を上げて柊を引き止めていた。
「ん?」
柊はいつもそうするように、後ろ手に手を組みながら、振り返って上半身をかがめてみせる。
俺は思わず、声を上げてクスクス笑ってしまっていた。
「いや……さ。お前、こんなにセンスがある贈り物するとか……どんな感性だよ、全く」
「……ん」
柊も、嬉しそうな笑みを見せた。いたずらが成功した悪ガキのような笑顔だ。
ひとしきり笑いあったあと、俺は大きく息をついた。
「あの、さ……」
「うん」
俺は自分の鼻の頭を指先でコリコリする。
「あー……、俺さ、大人になってからずっと、誕生日祝ってもらったことなんてなかったから。っていうか、誕生日自体『なくなって』たから……、さ。時間が止まったまま進んでてさ」
「うん」
柊は多くの応えを返す代わりに、優しげな眼差しを俺に向けた。
全くこいつは。
ガキのくせに、大人みたいな仕草しやがって。
悔しさ紛れに、俺は顔を真っ赤にして口を開いた。
「だから、さ。……ありがとう。俺、また一つ年をとれたよ」
ああ、ちくしょう、そうだよ。
また一つ年を取って俺は糞ジジイに近づくんだ。
……畜生、めちゃくちゃ嬉しいよ。
「なにか、お礼が……したい。……でもさ」
俺が人間でいられるのは、今日で最後なんだ。
柊にやってやれることなんて、もう何もないんだよ。
俺はもう、なにもできない。
「ごめんな、お返しになるようなものを、何もあげられないと思う」
「……ん、いいよ」
柊は小首をかしげて微笑んでみせ、それから、上半身を折ってこちらをしたから覗き込んできた。
「じゃあ、物じゃなくて、何かして貰うよ」
「……は?」
「おじさんにプレゼントをもう一つ。そのプレゼントは、私にとってもだけどね」
「何言ってんの、お前?」
「……これから公園デートしない? おじさんの誕生日が終わるまで、あと一時間あるよ」
「公園デート……?」
「持ちつ持たれつだよ。現役JKとお散歩デートだぜ? イエーってならない?」
「な、ばっ……」
柊は小悪魔的な笑みを浮かべると、そっと手を持ち上げた。
「エスコート、してくれない?」
「……馬鹿野郎」
俺は耳まで真っ赤になって、そっぽを向いた。
ただ、持ち上げた柊の手に、引っ込め引っ込め、恐る恐る手のひらを上にして柊の手を取る。
「うん、お姫様の気分」
「俺の誕生日なのに、なんでお前がお姫様扱い?」
そんな軽口を叩きながらも、俺の心臓は早鐘のようになっていた。
なんだよ、これ……。
めっちゃハズいわ! いい年して、何やっちゃってんの俺?
こんな小娘に翻弄されて。アラサーのおっさんが、変な夢見ちゃうじゃん。
……あれ? 夢? なんの? 何を期待してる夢なの、それ?
ふと湧いてきた疑問に俺は頭を振る。
「にゃあ」
ししゃもが何処かしてやったりというような声で鳴いた。恐らく気のせいだろうが。
……なんにせよ、この状況はいかんともしがたいほど恥ずかしい。
何やってんだよ、俺……。
俺は顔に右掌を当て、羞恥に悶え苦しみながら、柊とししゃもと並んで歩を進めだした。
◇◇◇
それから公園デートを終えて柊に別れを告げた俺は、自宅に戻り、布団の上に倒れこんだ。
つかれたあああ……。ほんま疲れたわあ……。
そんな俺に容赦なく軽い調子の声が降ってくる。予想はしていたがな。
「明智よ。どうやら、首尾よくいったみたいだな」
「……まあ、なんとかな」
「今回ばかりは、本当に間一髪だったね! もう、ハラハラドキドキだったよ!」
「いや、そのペナルティを作った元凶が言っていい言葉じゃないからね? そもそもどんなキャラになってんの、あんた?」
「まあ、このまま目覚めたら、どうせ貴様はししゃもになっているのだが」
「『どうせ』って言った! なんでそんな投げやりなの? それ言って許されるのはむしろ俺のほうだからね?」
「今は眠るが良い。明日起きれば、貴様はししゃもに戻っている。そうしたら今度は猫の眠りを満喫するが良い」
「あ〜、そう来ると思ったよ、はいはい」
「時に明智、今、お前は幸せか?」
「は? そんな訳無いだろ? 早く人間の生活に戻りてぇよ」
「お前が『やり残した』ことは全て猫の体になったことで、獲得できている」
「……」
「貴様は自分が『こんな社畜生活を送るくらいなら、同じ畜生の猫になりたい』とぼやいていたことを覚えているか?」
「……それは……単なるボヤキであって……」
「まだ、時間が必要のようだな。まあ、もう残された時間は少ないが」
「……? 何を言って……? く、なんだこの眠気は……」
「眠るが良い。これからが、最後の試練になる……」
突然訪れた深い眠気によって、神の言葉は最後まで聞き取ることができず、俺の意識はブラックアウトする。
意識を完全に手放す前に、俺が思い浮かべていたのは、柊の作ったやや塩味きつめのマドレーヌが、それでも合格点の美味しさだったこと、そしてその感想を口にしたとき、ほんのり頬を赤らめた柊の表情だった。
3章完結です。