8 ミッション、失敗
目覚めているような、夢を見続けているような、そんな感覚。
母胎の中に回帰したような、そんなまどろみのような意識のまま、俺はもう慣れ親しんだ声を聞く。
「明智……明智よ……」
目を静かに開け、ぼうっとした頭を振る。
上半身を起こし、自分の体を見下ろしたら、『人間の手のひら』が目に入り込んできた。
何度かそれを閉じたり開いたりして、その感触を確かめる。
「ん? んん? また人間に戻れた?」
「そうだ、貴様は人間に戻ったのだ」
「そうか……」
「今までよく頑張ったな、明智よ」
「なん……だと? やったのか? 俺は……人間に……戻った?」
だんだん意識がクリアになっていく。
開け放たれたカーテンから覗ける外の風景は、のっぺりした黒一色で、ふと時計を見てみると夜九時を回っていることが確認できた。
……終わった?
猫と人間の入れ替えも、このバカバカしい茶番劇も、全て……?
「やっ……」
「やった!」と、続けて良いはずだった。今までの苦労を考えたら、ここは小躍りして喜ぶべきことなのだろう。
だが、あいつはどうした?
柊は?
あの後、結局どうなったんだ?
そして、これから、あいつはどのように生きていくんだ……?
ぼんやりと考え込む俺に、神の声が続く。
「明智よ」
「ん? なんだよ」
「残念だったな」
「は?」
「誠に残念だった。今までよく頑張ったな」
「……は? は? ……どういう意味だ?」
「貴様は試練を果たせなかった」
「え? 柊は佐々木とデートしたんじゃないのか? だから、こうして俺は人間に……」
「してない」
「は?」
「柊は、誰ともデートをしてない」
「ちょ、待て……!」
「そして、今日は期限の一週間だ。貴様を人間に戻したのは、お前への最後の手向けだ」
「なんだとおおおおお!?」
「最後の一日、存分に楽しむんだな」
「チョッちょっと待って! まだ、チャンスは?」
「無理じゃん? もう夜の九時回ってるし」
「待てええええ! 嫌だ! 猫として生きるなんて嫌だああああ!」
「だが、悪い知らせばかりではない」
「な、なんだと、それは……?」
「先程、貴様は柊の行先を、柊の将来について、考えたな。神を侮るな、心を読むくらい造作無い」
「それが……なんだっていうんだ?」
「昔の貴様なら、人間として意識が戻ったあと、一番初めに一介の女子高生の人生を考えていたか?」
「……それは、『試練』と関わっていることだし、それは自分のことだし」
「そうじゃない。そもそも社畜として生きることに慣れきった貴様が、真っ先に人の人生を心配することなどあったのか、と言っている」
「……それは」
「貴様がししゃもになって学んだこともあるようだな」
「それで? いい知らせってなんだよ」
「だから、それだ」
「は?」
「貴様は人間的に成長している。そしてこれからは、立派な猫として、人間として成長を重ねて行ってくれ。実に猫生が豊かになるとは思わんか? 良いことだな」
「いや、それなんか理屈おかしいからね? 『猫生』が良いとか言っちゃてるからね? 俺は人間に戻りたいの!」
「では、人生の最後を存分に楽しんでくれ。そして始まるキャット・ライフ」
「だから、ちょっとまてえええええ!」
神の声は始まった時のように、突然プツンと途切れた。
期限の一週間。夜九時。
今日が終わるまで、残り三時間。
無理だ。ここから巻き返しなんて、どう考えてもできっこない。
俺はしばらく生ける屍のように布団の上にあぐらをかいていたが、気が付くと厚手のテーラージャケットに袖を通し、外出の支度をしていた。
この先、どこに行ったらいいのなんか、全く考えられなかった。