1 第一の試練
まだ築年数の浅い小奇麗なマンション、14階の3LDKの一室。
立花柊の朝はお昼頃から始まる。
矛盾しているのだが、意味はこの一言だけでわかっていただけると思う。
のっそり起き出すと、部屋着に着替えて、ベッドに横になる。
そしてひたすらスマホをフリックフリック。
たまに俺にちょっかいを出してきて、もふもふとした毛皮を気持ちよさそうに撫でる。
まあ、それは良いのだが、いや、良くはないのだが、特に「猫吸い」だけはやめてほしい。猫吸いとは、頭頂部やお腹辺りに顔を押し付け、スーハーと猫成分を取り込むことだ。まだガキだとはいえ、やはり異性にそんなことをされるのは、心中穏やかであろうはずがない。
柊の親は共働きだから、食事は用意されているのが常だ。
レンジで温めてスマホをいじりながら食べるのに合わせて、俺もご相伴に預かる。
カリカリのような餌だけならならちょっと毎日はきついが、猫缶と一緒に混ぜてくれるので、慣れれば結構イケるものだ。カリカリと猫缶との組み合わせは侮れないことを教訓として得た。
いわゆるひきこもりである柊は、毎日外にも出ず、こうして一日をだらだらと過ごす。
そのことを非難したり、悪いことだとは、今の俺は思っていない。
学生の本分は学校。社畜の本分は低賃金超過勤務と決まっているから、毎日こうやってだらだらする生活に、俺自身憧れていなかったワケではなかったのだ。
無気力な社会の歯車になっているという諦めを抱いていた社畜時代。夢や若者の時考えていた夢のある人生は幻想に過ぎないと悟っていて。ブラック企業の常識、『大人としての有り様』に慣れきって、心は乾いたまま。
そういう人生が、俺の当たり前だった。
だが、そういった生活をすべて手放し、だらだらと毎日過ごすことが楽な生活だと思っている諸君は、実際に一日中何もすることもなく、ただ部屋に閉じこもっている生活を、三日でいいから続けてみてほしい。
これは本当に飽きる。何もしないというのは、本当に地獄並みの苦行だといっていい。
まして社畜だった俺としては、働いていないというのは心からしんどくて、『ししゃも』に人格転移した数日間は、泣いて過ごしたものだ。
結局、そういうこと。人間とは社会の一員として暮らすことができなければ、不幸になる。社会的動物なのだ。まして俺は、歳の割に良識のある大人だし、まさにそこに誇りを持っている。社会に必要とされ、日々をつつがなく過ごす。
人として一番大切なことだ。
そう考えるのが、大人の考えってものだろう?
幸い、外の通路に続く窓の鍵はいつも開けてあるので、前足でちょちょいとやって、一人ぶらり旅に出られたのは九死に一生だったといえる。
*****
さて、この引き籠もりの柊なのだが、よくよく観察してみた結果、毎日ある一定の時間になると、そわそわし始めるのがわかった。
このような不審な行動には、俺自身覚えがある。
ネット通販でエッチな物を買って、郵便物が届くのをまだかまだかと待つ気持ち。
おそらく、柊もその時の俺と同じように……って、絶対ねぇな、それ。多分違うわ。
実際にはたいして注意深く観察するでもなく、柊のそわそわの原因は放課後の時間帯になると訪れる客のせいだった。
そして今日も、インターホンの音ががらんとした部屋に響き、びくんと、柊は背筋を伸ばす。
インターホン越しのカメラに映ったのは、セミロングでやや明るめな色をした髪を肩に流し、クリクリした目の、愛らしい女の子。背は、女子高校生としては多分標準的で、きっちりとプレスされた制服を、一部の隙もなく着こなしている。柔らかい感じをした、いかにも優等生といった装いをしている。
「立花さん。西沢です。クラスで配られた配布物、持ってきました」
柊はその声には反応せず、カメラ越しに息を殺して彼女を見ている。
西沢と名乗った女生徒は、何度かインターホンを鳴らしたが、諦めたように肩を竦め、プリント類をドアポストに放り込むと、そのまま踵を返した。
ゾンビが歩くかのような生気のなさで、柊はフラフラと玄関に向かう。
そしてドアポストからプリントを取り出すと、それを手が白くなるくらい強く、クシャりと握り締めた。
柊は届けられたプリントの類には目を通さない。ただ、親に何か言われるのが嫌なのだろう。無造作にプリントが投げ込まれる自室のクリアボックスは、既にパンパンだったりする。
柊は、玄関まで歩いて行った俺を見下ろす。
「ねえ、ししゃも……あの子さ、わかってやってんのかな? こういうのは却ってプレッシャーなのに。……まあ、クラス委員だから、仕方なくだよね。同情とかポイント稼ぎのためかって思うと、ホント辛い」
本当にそうなのだろうか?
その、どことなく逆恨みっぽい言動に、俺はどんな返答をすりゃいいというのだろう?
俺は何も言わずに、じっと柊を見つめる。
「『もう関わらないで』って言えればさ。それが言える勇気があれば、こんな気持ちにならずに済む……?」
俺は呆れて柊に背を向けた。
あれほど西沢の来訪を心待ちにしておいて、肝心なところで拒絶する。
その思考と行動の意味合いを俺は理解していないが、なんとも腹が立つ話ではある。
いい加減、大人になれよ。
外界、あるいは社会といってもいいが、その接点なく、家で一人引きこもる苦しさは、まさに地獄だ。だが、たったひとりの人間と接触を持つだけで、例えそれが上辺だけであっても、明らかに風通しは良くなる。
柊はそのことに気づいているのだろうか? 否、柊は、そのことに気づくべきだった。
まあ俺自身、仕事で忙しくて友達とも会えず、当たり障りのない雑談を職場で繰り返すだけの生活だったんだけどな。猫になってみて、意思疎通のできる人間がいるありがたみを、本当に思い知らされている。
――と、唐突に、重々しいが、やけに陽気な声が脳に響いてきた。
『お待ちかねの試練啓示たーいむ』
「いきなりきやがったな。相変わらず神の威厳とは程遠い神だ」
ふと後ろを振り返ってみると、柊の動きが止まっている。
会話しているのは俺と神だけということなのだろう。
『柊可愛いだろ?』
「いや、まあ……でも、犯罪だから」
『一緒にお風呂入ったりしてるのに?』
「人聞きの悪い事を言うな! 一方的にシャワーでガシガシ洗われているだけだ!」
『キスしたり』
「ば、顔を押さえて額をくっつけてくるだけだよ! そりゃ、ま、キス? みたいなのはするけど、それは動物と人間とのコミュニケーションであって、それはすなわち……」
『ふむ、どんどん柊に心奪われていってるな。もう少しの間、柊成分を定期投与すれば、柊なしでは生きていけなくなる。そうなればこちらのものだ』
「やめて! いけない白い粉を売るブローカーみたいなこと言っちゃってるからね?」
『しかし貴様には試練が与えられるのだ』
「だから相変わらず接続詞の使い方がおかしい。……く、試練か。お手柔らかに頼むぜ」
『できなかったら、一生『ししゃも』」
「嫌すぎるけどな。それで、試練って?」
『一週間以内にやってくれればクリア』
「だから聞けよ。まず、試練の内容聞かないとどうしようもないだろう」
『それでは期待してるぞ、明智よ』
「聞けよ! おかしいから? ノーヒントで一週間以内とか、ありえないから!」
『だが、大切なことを忘れていた。試練の内容についてだ』
「お、おう、そこな。一番大切だから。忘れたらこの会話の意味すらないからね」
『第一ミッション』
「みっしょん? 第一?」
『柊を、登校させてみよう』
「いやいやいやいや、無理無理無理! 不登校を、猫の姿でしかも一週間で治せとか、どんな鬼設定?」
『猫のままで、とは一言も言っていないが』
「な? もしかして、人間の俺に戻れるというのか?」
『いや、今回は猫のままでいってみよう。為せば成る。成さねば成らぬ何事も。為してダメなら諦めよ。それでは明智よ。吉報を心待ちにしおるぞ』
「もう、ほんとお前の相手疲れるわ」
「ししゃも……」
柊を玄関先に残して、部屋まで歩いていく途中だった俺は、立ち止まって小さなご主人の顔を拝んだ。
このガキを、一週間以内に、学校へ。
しかも、それができなかったら、俺は猫のままだという。あの神、本気なのかな? なにかノリでそうしちゃいそうで怖い。
内心でため息を吐くと、柊の目をジッと見ながら、一声鳴いた。
「ぬぁ~~~~」
理不尽すぎるなあ、もう。