10 リベンジ
――社畜生活を二年ほど続けた頃だったろうか。
大学の同期だった友人が、自ら命を絶った。
線が細い秀才肌で、何事もそつなくこなす優等生だった。当然女にもモテていて、俺たち悪友は事あるごとにやっかみの呪詛を掛け合ったものだった。
そんなヤツが、突然。
告別式で付き合いのあった友人に聞かされたことには、ひどいパワハラを受け、精神科にも通院していたということだった。
何よりもショックだったのは、ヤツの最後にとった休暇に、酒を酌み交わしたのが俺だったということだ。
しかし、ショックを受ける以上の感情を覚えるには、俺は当時、とうに壊れきっていた。忙しい毎日にヤツの死は埋没し、ぼんやりとしか思い出せない、過去の出来事へと、記憶の姿を変えた。
俺は全力で走っていた。俺の自宅から、柊の家までは思ったより近く――というか隣町だったのだが、柊の町のはずれにある大きな公園まで足を伸ばすには、電車では不便で、バスも通っていない。そして俺は車の免許どころか、チャリすら持っていなかった。
家と会社への行来と、帰り道で寄ってくる深夜まで営業しているスーパーが俺の生活圏の全て。それさえあれば生きるには事足りていたからだ。
はあ……はあ……!
なんだって俺はこんなに頑張って走ってるんだ?
いい年して、みっともない。
なんでいまさらヤツのことを思い出して、こんなに息苦しくなりながら、走ることをやめられないんだ?
俺はぜいぜい言いながら、目指す公園の入口に置かれた、大理石造りの『第三長谷田公園』と書かれた石に手を置き、息を整えた。
そして、早足になって、広い公園の中央辺りにあるベンチまで進んでいった。
昼下がりの公園の、三脚並んだ長いベンチの一番奥の端。
高いナトリウム灯の下にあるその場所に、制服姿の、華奢で、髪の長い、見覚えのありすぎる少女を見つけた。
「よ、よう…………」
声を掛けようとして、疲労に押しつぶされた俺は声を失った。
「え?」
「……い……いや……」
「な、なになに?」
訝しげに振り返った柊が、明らかに怪しい俺を見て、目を丸くする。
ぜえーーーー! ぜえーーーー!
俺は膝に手をついて肩で息をしていた。
死ぬ。こんなに走ったのかなり久しぶりだもん。充分死ねるわ。
なんとか息を整えると、額の汗を腕で拭って、遅まきながら平静を装う。
「こ……こ……こ」
「は?」
「……いや、ここ、いいか?」
柊とは反対方向のベンチの端を指さし許可を乞う。
「そりゃ……別にいい……けど。おじさん、どうしたの?」
「日課のランニングだ」
「……トレーニングウェアでもない、私服姿で?」
「気にするな。人には事情というものがある」
「もしかして危ない人?」
「気にするな。人には事情というものがある」
そう言い捨てて、どさりとベンチに座り込む。
疲労が木でできた背もたれと座席に吸い込まれていく。俺は、ようやく一息ついた。
柊は警戒するような目でこちらを伺っている。
俺は素知らぬ顔で辺りを見回した。
「ときに」
「…………」
「お前だよ、お前に話しかけてる」
「……なに?」
柊はじっと息を飲んでこちらに語りかけてくる。
やばくなったら、人を呼ぶことも選択肢に入れているに違いない。
「……お前、まだ子供だろ? こんな時間に何やってんの?」
「なに? もしかして、ナンパ?」
「俺がガキに興味あるように見えるか?」
「見えなくもないけど……おじさんって言うほどおじさんでもないし」
「若く見えるか? そう、まだ『二十代』だ。お前さん、いい目をしているな」
俺は少し気を良くして胸を張ったが、急に恥ずかしくなってコホン、と咳払いした。
「その、『若い』おじさんこそ、仕事どうしたの? 底辺なの?」
「余計なお世話だ。そういうところは放っておいてくれ」
「……そうだよね……放っておくべきところはほうっておくに限るよね……」
ふと、柊は暗い顔をして俯く。
お? 俺が人間に戻る過程にあった時間に、何かあったのか?
俺はガリガリと頭を搔く。
「……誕生日休暇だよ。誕生日だけは、特別に休めるんだ」
「え? 社会人って、そんなものがあるの?」
「ああ、もちろん嘘だ。俺の誕生日は十一月だ」
そうおどけてみせると、柊はプッと吹き出した。
「十一月? 何日?」
「そこは別にツッコミどころじゃないだだろ……ま、言い出した俺も悪いか。俺の誕生日は……」
半ば呆れたが、素直に誕生日の日付を伝えると、柊も肩をすくめておどけてみせた。
「――おじさん、大人なのに、妙に律儀だね」
「まあな。俺は人の良さを切り売りして生きているんだ。……律儀ついでに聞いてやろう。こんな時間に公園をぶらついているJKの悩みはなんだ? 別に下心はないぞ? ちなみにエンコウできるほど給料はもらってない。残念だったな」
「変なオヤジだね」
「余計なお世話だ。そして、余計なお世話を焼いてやる。話せ」
すると、柊は微妙な笑みを浮かべた。
この短時間で人間としての明智正五郎を現役JKに信じてもらえるとは到底思えなかったが、柊はちょうど話す相手を探していたようだ。
小首をかしげる仕草をしながら、俺が『ししゃも』だった時に見聞ききしてきた経緯をとめどなくなぞってみせる。なんだよ、信頼されてるな、俺。
それから柊は、ふと、人生の先輩に問いかける子供の目で、じっと俺の顔を射抜いた。
「……ねえ、おじさんって、今まで生きてきて、なにか取り返しのつかないことしちゃったことってある?」
「取り返しのつかないことばかり選んできた成れの果てが、今ここにいる俺だ」
「…………」
「悪い。まあ、自分の責任で人になにかしてしまったということはないな」
「そっか」
「おう。お前はあるのか?」
「あるよ。人を殺した」
「そうか」
「……全く驚かないんだね」
まあ、意識がある状態としては『昨日』聞いてたことだしな。
「生きてれば、色々なことがあるもんだ。自分でも想像できないようなこともな」
「……変なオヤジ」
「繰り返すなよ」
柊はあっけにとられた顔をしていたが、また少しだけ、こちらに気を許したような雰囲気になる。
淡い笑みを浮かべると、両手をベンチの上のつっかえ棒にして、足をブラブラさせた。付け加えると、それは淡く、苦い笑みだったかもしれない。
「……私ね、いじめられてた子に、自分勝手な気持ちだけで関わって、どうしようもない状態にしちゃったことがあるんだ。自分勝手に引っ掻き回して、その子を自殺に追い込んだの」
「ストレートに言うもんだな、今のJKは」
「知らないおじさんに話して、私が何か困る?」
「……困らない。なるほどな」
「私は、自分の価値観だけでいじめを否定して……その結果、人が死んだ。そしてね……今は、関わらないことで、また殺してしまうかもしれない」
「関わらないことで?」
「うん……」
ふと、『過去のアイツ』の姿が俺の脳裏をよぎった。
アイツ、俺との最後の酒の席ですら、死ぬ素振りを見せ無かった。
……最後に交わした言葉は、なんだっけ?
「――そうか。難しいな」
でも、柊は槻谷を見捨ててはいけないのだ。
槻谷をぼっち飯解消の相手にするために。つまりはもっぱら俺のために。
「……うん。でも、そいつは『放っておいて欲しい』って。『人生に意味を見いだせない』って。それを私は否定なんかできなかった……だからさ、やっぱり放っておくべきなのかな」
「……まあ、そいつの人生観、素晴らしい悟りだな」
無責任に相槌を打つと、柊は口をあんぐりと開けた。
「本当に面白いね、おじさん」
「まあ、何もできんし」
「……そっか」
不意に、柊の相好が崩れた。
「心なしかね、おじさんには初めて会った感じがしないんだよ」
「なにそれ? 口説き文句?」
「素直な感想です。なんていうか……いつもししゃもといる時みたいに、少し甘えちゃう」
「……き、気のせいだ」
「なんでどもるの?」
「そ、それは……猫と同列に見られて、少しカチンと来たのかも……ほら、俺って、心の狭い人間だから」
「あまり心が狭いふうには見えないけどね」
柊は、あははと笑うと、不意に首をかしげた。
「あれ? おじさん、なんで『ししゃも』が猫だって知ってるの?」
「……そ、……そそそれはだな。お前みたいな寂しそうな女は、大抵の場合、猫を飼っているからだ」
「寂しそうな女?」
「そう。独身アラサー女子で、ワンルームペット可と来たら猫が相場で、それが女の人生詰んでることを意味する」
「ふーん、私まだ十代だけど、大人はそんなものなんだ」
「そんなもんなんだよ」
俺は滝汗をかきながら、努めてクールに、動揺を見せないようにいった。
「……おじさんはどう思う?」
「なにが?」
「私が、関わるべきかどうなのか?」
「さあ……」
「……昨日、あいつに言われたんだ。もう死んでおしまいにするから、放っておいてくれって。結局止める勇気がもてなかった。関わって、もしあいつも死んだら、私が手を下したことになるような気がして……間違えてるよね、私。わかってはいるんだよ」
俺は、自分の苦い経験を思い返す。
――そういえば、ヤツはなんて言った?
助けを求めることもせず。ただやられるばかりで。
線が細く、打たれ強くもないのに、結局一人で抱え込んで。
そうして、死んでいった。
「この世は間違いだらけというか、間違えしかねぇよ」
俺は大きく息をつく。柄にもなくふつふつとしたものが腸を熱くしていた。
「今日がそいつの誕生日なんだな?」
「……うん」
「そして、そいつは、自分の誕生日にすべてを終わらせると言っていた?」
「どうなんだろう? 本気……なのかは……」
「本気だとしてもどうしても、お前、今そいつに関わらなければ、逆説的に一生そいつの人生を抱え込むことになるぞ」
「…………」
「人の人生抱え込んでも構わんがな。それが重荷であるなら、どんな形にせよ、お前の心は押しつぶされる」
「それは……」
俺はベンチから立ち上がると、うつむいている柊の頭をポンポンと叩いた。
――そうだ。最後にヤツが言った言葉。
死にたい人間は、多かれ少なかれ、合図を出している。槻谷少年のそれなんて、鳴り響いてるじゃないか。ヤツの時とは、違うんだ。
「それじゃ、行くとするか」
「え……どこへ?」
「ちっぽけなひとつの命を救いに。それが、よくわからないけど、お前さんの過去へのリベンジにもなるんだろう?」
柊は、俺の言葉に、目を見開いて……小さく、頷いた。
――ヤツはたしか、最後にこう言ったのだ。
「明智、お互い忙しくて時間取れないけどさ。もし、この先機会があったなら――また、飲みに行こうぜ……」
そう、帰っていく後ろ姿を呼び止めて、思わず声をかけそうになるくらい、悲しく、柔らかく微笑んで。
意図しないことではあったが、俺にとっても、これはリベンジだ。