9 明智正五郎は人間である。
まどろみの中を、泳ぐ。胎内にいた時のような温かさとともに、ふわふわとした浮遊感が全身を包んでいる……。
というのが、猫になってから、いつも寝てる時の感覚。
だが、何故か今日はひどく寝苦しい。背中あたりにゴツゴツと硬いものが当たり、身をよじってはぼんやり視界に天井らしき陰がうつる。
うう~ん、何か、上手く寝れてない……。
不快さに耐え兼ねて寝返りを打つと、布団からはみ出た頭と固いフローリングの床が激突した。イタタ……と鈍痛を感じつつ、ぼーっとしながら打った頭を手で押さえる。
うん、頭打ったらいろいろ大変なこともあるらしいしね。ク、くも膜下出血とか? よくわからないけど? そうやって、頭をさすりさすりとしてるうちに、不意にかゆみを覚えて頭をガリガリ。
大きなあくびをつくと、何とはなしに、頭を弄っていた手を眼前に晒す。
手。
青年男性としては、やや大きめだろう。とはいえ、ゴツくはない。事務仕事で荒れてはいるが、むしろスラリとしている。『男のくせに綺麗な手をしているな』、と言われたこともあるくらいだ。
んー、よく寝たな。今、何時だ?
枕元にあるスマホを取り上げる。
朝の6時50分。
うむ。
……ん?
「ってええええ?」
俺は叫んだ。きちんとした人間の言葉が自分の耳朶を打つ。
なんで俺、いきなり元の体に戻っちゃってるわけ?
ししゃもの体は? 柊は?
ここは、俺の部屋?
「オーケー、落ち着こう。目覚めは悪いが、ここは間違いなく俺の部屋だ。目の前にある手は、腕は、脚は明らかに人間だ。そしてここは住み慣れた、俺の家。つまり……」
俺は、努めて冷静な声を出していた。クールに。クールに考えよう。
「簡単な結論だ。今まで俺は、わけのわからない『夢』を見ていた。フロイトの夢分析なんか知らんが、とにもかくにも、仕事で疲れすぎて、精神的に少し病んで……」
『夢じゃないよ』
「……ともかく、幻聴も聞こえてきたことだし、一旦病院へ行こう。最近、仕事が立て込んでたからな。やはり疲れが……」
『そうか、好意で人間に戻してやったが、やはりししゃもの体が恋しいか』
「って、なんとか無視しようとしていたのに、やっぱりお前か、『神』ぃぃい!?」
『そんなに歓迎するな。デレる』
「せめて『照れる』にしておけ! デレちゃだめだ! 気持ち悪いからな?」
『さて、久しぶりの人間の体はどうだ、明智よ?』
「お、おう……まあ、やっぱり人間の体だよな。こっちのほうがしっくりくる……って俺、玄関でぶっ倒れたと思ったけど、なんで布団の中で寝てるの?」
『神にかかれば、体を動かすことなど造作もない』
「ってことは、俺、魂抜けた状態でスーツ脱いで着替えて、布団まで敷いて寝てたってこと? 肉体の自動操縦怖いって! 想像すると、すげぇシュールだわ!」
『それだけではないぞ? ずっと寝ていたお前には、褥瘡ができないように、「自動寝返り」能力と「栄養なしに放置されても生きられます!」能力、そして、「風呂に入らなくても、体だけは汚せないんだからねっ!」と「社畜だがらトイレに行かなくても平気だよっ!」のチート能力を付与してある」
「何気に凄い能力だな! それを寝ていること以外には使っていないというのが残念すぎるけど! ……そうだ、会社は? 出勤しないで何日経ってる? 俺の社会生活どうなるの?」
『心配するな。会社にはきちんと電話しておいた。「やっほー、明智父だけど、息子、ぶっ倒れて自宅療養。しばらく出社できねーよ、残念だったね」とな』
「何言ってくれちゃってんの? そんなこと言ったら首だよ、俺?」
『心配するな、私は神だ。貴様の上司の記憶操作など容易い』
「なら、もっとホワイトな会社に務めさせてくれれば良かったじゃん? お前、神なんだろう? なんで俺の人生に辛く当たるの?」
『神とは、人間の生活に不相応に介入してはならんのだ』
「十分してるじゃねぇか、俺とか柊とか!」
『せっかく生身に戻ったんだ、「人間」として、やれることもあるだろう。試練解決のための一助になるかもしれんぞ?』
「なんだよ、やっぱり試練って続いてたの?」
『当たり前だ』
「……く、畜生」
『試練を乗り越えられなければ、またししゃもに逆戻り。今度は永久にだ』
「……くそ、なんて理不尽な……しかし、あ、そうか……。人間になれるなら、俺が柊と一緒に飯食えばいいじゃん。ぼっち飯問題解消じゃん」
『お巡りさんこの人です』
「やめて! 猫にならなくても人生詰んじゃうから!」
『JKとひとつ屋根の下であんなことやこんなことをしておきながら』
「言い方がエロいし、その立場に追い込んだの誰だよ? こっちは何のかんの言いながら、毎日理性を試されている荒行の状態だからね?」
『まあ、貴様はやれることをやればいいんじゃない? 頑張れば、きっと報われる。いつだって、神様は見守ってるよ!』
「また聞いてない! ……って、頑張ればって、試練に失敗してもいいのか?」
『猫になっても、貴方のことはずっと見守ってるよ!』
「理不尽すぎるからな!」
『ときに、今日柊は学校サボって公園で思索に耽ってる』
「あー、まあ、時々サボってたからな。それに、この姿でも、試練を果たすには柊と接触せんとあかんだろうし……まあ、好都合……なのかな? 理不尽だけど」
『そんな神の慈悲を目の当たりにし、感涙にむせぶ明智君に朗報』
「一ミリも感謝してないがな。なんだ?」
『貴様を人間に戻すにあたって、何か色々あって一日かかったから』
「ちょっと待て……なんだと?」
『つまり、丸一日無駄にしたということだ。間抜けな奴め』
「なんでだよ、明らかにお前の責任だろ! 試練期間の延長とかないの?」
『こぼれたミルクを嘆いても仕方ないということだ』
「こぼしたのお前だからね? もはや悪意しか感じられない!」
『たいむりみっとまで、今日を含めてあと二日』
「ああああ……!」
たしか、槻谷が自殺をほのめかしていたのが今日だ。
そして、槻谷が死ぬということは、柊が一緒に昼を取る相手がいなくなること。
『柊ぼっち飯脱出不能』イコール『俺の未来はししゃも』の等式が成り立つことになる。
「ちくしょおおおおおお!」
俺は布団から飛び起きると、上を向いてそう咆吼した。




