8 プライドは、底辺なりに 2
ここまでのところ、柊は俺の期待通りに動いていてくれている。
柊のチキンなくせに優しい性格で槻谷を見捨てることはできない。
つまり、不幸な境遇な槻谷をかばうことで、きっと昼ご飯を一緒にするようになる!
柊のぼっち飯は、こうして解消されるのだ……と思いたい。
柊は地べたにしゃがみこんでいる槻谷の前まで来ると、辺りを見回した。
よくよく見てみると、その手がかすかに震えている。
怖かったよな。俺も実はあの三人組を相手にする勇気がどうしてもでないチキンだったんだ。でも、お前……見直したよ。
柊は震える手をもう一方の手でさすると、ふうっと大きく息をつく。
それから、いつもの外行き用の涼しげな声色で、槻谷に話しかけた。
「また、派手にやられたね」
「……ほっといてくれよ」
「そりゃ、私には何もできないけどさ」
柊は肩を竦める。
「虐められてるなら、先生に言ってみるとか? してみるのは?」
「いいって。どっちにしろ、そんなことしたらもっと酷いことになるし」
「でも、少なくとも大人の権力を頼れば、暴力的なことは止まるかも知れないよ」
「……それは、そうだろうけど……」
槻谷の顔が、何とも言えない具合に歪む。
「認めたく……ない」
すべてを諦めきってもなお、譲れない矜持が、その表情から窺えた。
つまり、槻谷少年は自分がいじめられていると認めたくないのだ。
だって、それは格好悪いことだから。自分がどうしようもない底辺にいることを再確認する行為だから。これだけやられ続けても、まだ譲れない、負けられない、そういう安っぽいプライドがあるのはわかる。
少し状況は違うが、俺だって、社畜としてパワハラの日常で、酷使されながらも、結局言い返す言葉をつぐんできたから。
ここで頑張らないと、こんなところで音を上げるようじゃ、どこに行っても通じない。
なにより、そうやって『逃げる』自分を想像すると、自分が哀れに思えて仕方なかった。
「……そっか」
「責めないんだな」
「同じ底辺だからね」
「……」
柊は立ち上がって、潰されたサンドイッチと空の水筒を槻谷のバックに詰め直すと、槻谷の胸辺りに、それを突き出す。
「ひとつ、質問」
「なんだよ」
「あんたさ、本当に死ぬこと考えてない?」
「…………」
「あれだけ酷くやられてるんだもん。もう、とっくに限界超えてると思うよ」
「……そんなこと」
「少なくとも、私なら、耐えられない」
「…………」
槻谷少年は、柊の言うことを否定しない。ただ、どうしようもない悔しさの色が、全身から溢れ出していた。
「お前さ……」
「……ん?」
「人生って、平等だと思うか?」
「思わない。私も底辺だから」
「……そうか」
「うん」
「……俺たち底辺ってさ、いや、底辺だからこそ思うんだけど……人生に意味があるのか、とか、思うことはないか?」
柊はそのいかにも子供じみた訴えを、一笑に付すでもなく、むしろ真摯に頷く。
「いつだって、思ってるよ」
柊は大きくため息をついた。
「……実際、あんたが死のうが関係ないんだけどね。流石に目の前で死なれたら、私はいい気持ちしないし、今よりもっと立場が悪くなるんだよ」
「はっ、結局は自分が可愛いんだな」
「そうだよ、当たり前じゃん」
柊は呆れたように言うが、それが本心からなのかどうかを俺は知っている。柊が立場云々を考えてるわけがないのだ。だが、それを知らない槻谷少年は突き放されたかのように思ったかもしれない。
「なあ、仮に僕がいじ……やられなくなったところで、何が変わる?」
「何が言いたいの?」
「僕は……もう沢山なんだよ、人生なんて」
「人生が? 虐められることじゃなくて?」
「……そうだよ。仮に……いじめ……今の立場から脱出できたとして、僕らみたいな人生に何が待ってる? つまらなくてくだらない、何も楽しみもない人生を送って……ただ、苦痛から解放されることだけを楽しみにする人生しか思い浮かばない。そんな風に生きていって、何の意味があるって言うんだ?」
「……飛躍しすぎだと思うけど」
「でも、そう思うだろ?」
俺は、槻谷少年のガキ丸出しの厨二発言を受けて、思わず固まっていた。
『苦痛から解放されることだけを楽しみにする人生に、何の意味があるのか?』
考えたこともなかった。それに、まさに苦痛のさなかにいる人間が、そんなことにまで思考を巡らせられることが信じられなかった。
俺はどうだったんだ?
社畜として、袋叩きに遭うのと同じ目を見ながら、ただひたすら苦痛から解放されることだけを望んで。そして、殴り返しもせず、ただ耐えるだけで。
さらには、そんな自分をどこにでもいる人間だと割り切って、省みることすらしなかった。
それが『大人の考え』だと思っていた。正しいと信じて疑わなかった。
柊も、思うところがあったのかもしれない。目を静かにとじ、軽く頷くと、静かに言葉を発する。
「私もね、そんな気持ちになるあんたのこと責められないな」
「……だろ?」
「まあね。でも、結局はあんた次第だから、死ぬにしても私は止められない。そこまで人の人生に関わるつもりないし」
「……そうだよな……要するにお前も、人生なんて無意味だって……」
「だって、私、そうやって人に関わって、結局人を殺しちゃったことがあるんだもの」
槻谷と俺の瞳が、同時に、大きく見開かれた。
な、何言っちゃってるの、この子?
そんなヘビィな過去を抱えちゃってたの?
いや、そもそもが、どういう意味で言ったのか……。
柊は、凍りついたようになっている槻谷に悲しげに微笑むと、肩に下げたスクールバックから、自分の弁当袋を取り出した。
「はい。何も食べるものないんでしょ? これ、あげるよ」
「……何言ってるの、さっきから、お前……」
「私、食欲ないから。……ほら!」
柊は、弁当袋をやや乱暴に槻谷に押し付ける。
槻谷は、柊の言動に呆然としながら、人形のようにその包みを受け取った。
槻谷少年の叫び。
柊の過去に何があったのか。
それらに当てつけられて、俺もまた、目を丸くするしかなくて。
心の片隅では、たった一つのことしか考えらずにいた。
……なぜお前は俺の思惑通り、一緒に食べようとしないのだ、柊。
タイムリミットまで、あと三日。