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9 はじめの一歩

「ししゃも、じゃあ、行ってくるね」


 翌朝、制服に着替えた柊は、胸のあたりで両拳を握り締めて、俺に毅然と宣言した。

 そのまま玄関に向かい、靴を履く。

 ……それから、やはりへなへなと、玄関マットに座り込んだ。

 やはり柊は今日も変わらずチキンだ。

 玄関マットに座り込み、膝を抱え……。

 五分経過。

 十分経過。

 ………十五分が経過しようとしている。


「にゃあ」


 流石に呆れて、俺が声をかけると、はっとしたように顔を上げる。


「ししゃもぉ……」


 情けない表情で、俺に助けを求めてくる。

 しらん。柊、今日こそは一歩を踏み出すべきだと思うぞ?

 まして今日が『神』との約束期限の一週間。

 一刻の猶予も、俺には与えられていないのだ。

 しっかりしろ、柊。

 俺は玄関のドアに近づいて、カリカリカリカリと執拗に引っ掻く。


「ししゃもぉ……そんなせかさないでよぉ……」


 カリカリカリカリ。


「ししゃも……」


 カリカリカリカリカリカリカリカリ。


「わかった……よ」


 柊はようやく重い腰を持ち上げると、玄関ドアのノブを、震える手で握った。

 そして、そのまま硬直する。

 一分経過。

 二分経過。

 まるで石像になったかのように、ピクリとも動かない。


「にゃあ」


 俺が勇気を貸すように一声鳴くと、ようやく呪縛が解かれたかのように、柊は顔を上げる。

 そしてそのまま――。

 踵を返した。


「ししゃも、頑張ったよね、今日は……」


 ジト目で見つめる俺に、言い訳がましく柊は頷く。

 まったく、この根性無しは……。

 俺は内心で盛大にため息をつく。

 自室へ引き返そうとする柊。

 俺は一声鳴いて『待った』をかける。


「にゃあ」


 一歩。自室の方向へ。


「にゃあ」


 そして二歩。


「にゃあ、にゃあ!」


 俺の抗議の声に、柊は泣きそうな顔で振り向いた。

 この根性無しが。

 今日は決心したんだろう? だったら、貫けよ。


 ふと、俺の耳がぴくりと動いた。猫耳パラボラアンテナはかすかな気配を聞き逃さない。

 ははあ、なんとまあ。

 なるほどね、こうなるのか。


「にゃあ! にゃあ! にゃあ!」


 俺は狂ったように鳴き声をあげ、二本足で立ち、ドアに前足をかけて必死に掻く。

 カリカリカリカリカリカリ。


「わかった! わかったよ、ししゃも! いい子だから!」


 柊の瞳には大きな水滴の粒が浮かんでいる。

 それでも、それを拭いながら、ゆっくりと玄関まで戻ってきて――今度こそ本当に、本当に勇気を振り絞っているのだろう、震える手で、しかし毅然と顔を上げて、しっかりとドアノブを握る。

 俺は柊の足下に座り込むと、その泣き虫の顔を網膜に焼き付けるようにしっかりと覗き込み、優しく、しかし力強く、声を掛ける。


「にゃあ!」


 ――行け、柊……!

 柊は左の掌底で目の辺りを拭うと、ドアノブをついに回した。


 ――柊、確かに学校に行くことなんかに意味はない。

 だが、社畜人生をやってきた俺にすら、ひとつだけ得てきたもの。切ろうとしても切れなかったものがある。

 それが、さ。

 柊はドアを開けると、勇気を持って前を見る。

 ……そして、すぐに立ちすくんだ。

 なけなしの勇気の貯蓄を叩いて、ようやく、ようやく一歩出れたその先には……。


「……わ! びっくりした!」

「………あ」


 見覚えのあるその少女は、背後に花を咲かせて、雪を溶かすような笑顔を見せた。


「イ……インターホン押そうとしてたとこ。……おはよう、立花さん」

「あ、うん……お、おはよ」


 切れたと思っても、繋がり続けるもの。

 それが、大人になってからは得がたい、大切なもの。


 ほら、だから言っただろう?

 しょせん人なんか信じられないんだ。

 もう手を貸せない、なんて言っていたくせに。

 どうしても外に出れない、と泣いていたくせに。

 人というものは、自分の行動や言葉を、容易に裏切る。

 自分自身で諦めておいて、いざ自分に制約をかけると、やっぱり諦めきれなくなって、思ってもみなかった、朝の出迎えなんて行動を取ったり。

 かたくなに自分の殻に閉じこもり、人なんか信じられないと言っていたのに、傍から見ればほんの僅かなきっかけくらいで、こんなにも簡単に、なけなしの勇気を振り絞ってみせたり。


 な? 人なんてそんなもの。到底信じられる生き物ではない。


「……立花さん、学校、行く気になったんだね」

「う、うん……」

「そっか」

「……ん」

「ありがとうね」

「……な、なんであんたがお礼言うの? 私の方こそ、今まで送ってくれてたプリントの……あの……その……」


 言いよどむ柊の言葉の意味するところに気づいたのか、西沢は実に清々しい笑顔を見せた。


「あ……う……な、何でもない! 学校行く!」


 顔を真っ赤にさせ言い放つ柊に、西沢は目をぱちくりさせると、


「うん、一緒に行こ!」


 そう言って、玄関の方向に背を向けると、柊の手を取った。


「ちょ、引っ張らない……で!」


 柊は前につんのめりながら西沢の後に続き、ふと俺の方を振り返ると、猫の耳にも感知できない音量で口を動かした。

 俺は、そんなふたりの若さに少々あてられながらも、安堵の息を付いた。


 とりあえず、これで『試練』とやらは突破。

 猫畜生に成り下がることだけは回避できたということだ。


 それにしても。

 と俺は、柊と、西沢と、俺の今回の一連の『事件』を思い返す。

 どんな人間でも、毎日起きて仕事や学校へ行き、決まりきった毎日を送ることなんて、当たり前のことだと思っていた。

 くだらなくても、とにかく続ける。

 大人として、当然のことだ。

 友情なんて年と共に失われる、他愛のないものに過ぎなくて、そんなものにすがらなくては毎日のルーティンワークを送れないなんて子供の考えに過ぎる。


 ――でも。

 社会と接点をなくすことは、死ぬことに等しい恐怖だから。

 そんな怖さに怯えながら、必死にもがいていく。

 もがいて、もがいて生きていく。

 そんな生き方も、遠回りの人生も、それで、いいのだと思った。

 正解かどうかはわからないが、少なくとも俺は柊と西沢の青春ごっこを、前に言ったほどには……嫌ってない。


 扉が閉まる瞬間まで彼女たちの姿を見ながら、俺は祝福の一声を。


「にゃー(おーい、鍵、締めていくの忘れてるぞー)」

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