8 「ごめん」
とどのつまり、結局のところ、人なんて信用はできない。
柊が前に呟いていたとおりだ。
もっとも、柊には過去に何かあったようではあるが、大人になればわかる。
人なんて、裏切って、裏切られて。裏表使い分けて、上手に付き合って。
上辺だけ取り繕って、上辺だけの関係を作るものなのだ。
若い頃にあった熱い交わりなど、年をとれば冷めていく。
次第に顔を合わすことも少なくなり、「仕事」とか「日常」に追われる毎日になっていく。
そんなちっぽけな世界の中で、必死で自分の権利を守り、保身に走っていくようになる。
すべてを投げ打って、友達のために力になる。そういうのは若者の特権であることを、大人になると知るようになる。人間関係は打算の結果によるものであり、子供の頃には信じられないくらい、否、信じたくないくらいドライな関係へと昇華していくものなのだ。
だからこそ、柊の今の状態は、俺にとって、些事もいいところなのである。
そんなことくらいで悩んでいる柊を見ていると、非常にイライラする。
ハン、高校生の青春ごっこ。
結構結構。だが、俺はなんで巻き込まれなきゃいかんのか?
その理不尽さに腹が立つ。
「ししゃも……」
柊が床にぺたりと座ったまま、俺に手を伸ばしてくる。
だが、今の俺は素直にその手の誘いに乗る事を拒んでいた。
救いの手を跳ね除けた柊への。
救いの手を差し伸べることをやめた西沢への。
そして、その青春ごっこに、俺の今後の人生が左右される理不尽さに、腸が煮えくり返っていた。
すっと、柊の手を避ける。
「あは……ししゃもまで私を避けるんだあ……そうだよねー。私……そうだよね……最低だよね」
伸ばした手をがくりと下げると、柊はそう自嘲する。
それから、首を垂れて、じっと下を見つめる姿勢をとった。
「去年ね、クラスでいじめがあったんだぁ……」
ん? 去年の出来事か。何度も出てきているキーワードだな。
「いじめられている子がいてさ。私、そういうのって許せなかったから。『かわいそうだから』って、その子の味方をした。いじめをなくそうと思った」
ポツポツと、告解するかのように柊は話す。
人間というのは、身近な動物に対して、驚く程の本音を語る。
それはある意味ぬいぐるみと一緒で、人は、けっして裏切らない、裏切りようのない存在しか、心を許せない生き物なのかもしれない。
柊は続ける。
「それでね、その子がいじめられることはなくなった。でも『いじめはなくならなかった』の」
柊がゆっくりと顔を上げる。そして、情けない笑顔を俺に投げかけた。
俺は話を促すように、ただただ柊の様子を目に収めていた。
「よくある話。今度は私がいじめられるようになった。でもね……一番ショックだったのは、『私をいじめる奴らの中に、私が助けたその子が当然のように入り込んでいた』ことなの。助けたつもりが……馬鹿だね、人なんて、そんなもんだって思ったんだ」
…………。
確かによくある話だ。助けた相手に手のひら返され、裏切られる。
人なんて、善意なんて、そんなもんだ。
昨日言っていた事と今日言っていることが違う。
今まで言ってたことを、顔色一つ変えずに撤回する。
人なんてな、そんなもんだ。
柊は若いうちにそんな世の中の真理に気づいて、むしろ幸せなのではないだろうか。
この先、生きていれば同じようなことはずっと続く。
だから、重要なことは人に弱みを見せないことだ。
鎧を着込むことだ。
その点において、柊はまったくもって正しい。
「その時にね、『クラスみんな、仲良く』なんて、綺麗事並べてたのが西沢なんだよ? あの子、一年の時もクラス委員で、でもいじめは見過ごして、要領よく立ち回ってたのにさ……。それなのに、あの子のことを今頃持ち出してきて……『立花は間違ってない』? バカにしないでよね」
柊、お前はひとつ間違えている。
人間というのは、そうやって要領良く立ち回る義務がある。人を押しのけてでも、自分の権益を守る図太さ。ずる賢さがなければ、それだけで『罪』なんだ。
そういった要領の良さは、大人になって跳ね返ってくる。
真っ直ぐで実直な奴が幸せになれるわけではない。評価されるわけではない。
うまく立ち回ったものが、良い目を見るんだ。
極論してしまうと、そういった要領の良さを磨くために、子供は学校に行っている。
学校は社会的な人間関係の縮図だ。生きる術を学ぶためのところだ。
――だから、さ、柊。
西沢は、多分……。
俺は西沢が毎日のように持ってくるプリントを、無造作に詰め込んだクリアボックスに近づいた。クリアボックスは二段組になっていて、その上の方のボックスを、俺はカリカリと引っ掻いた。
「何、ししゃも……? 学校の配布物なんかに興味があるの?」
その通り。俺の勘が正しければな。
今日のやり取り。前に西沢にかけられたあの言葉。
それらを総合的に判断すると、おそらく、この中には柊にこそ必要なものが入っている。
俺は上の段のクリアボックスを執拗に手でグリグリ動かす。
猫の非力ながら、妙にうまい具合に力が伝わったのだろう、クリアボックスはバランスを失って、ゆらゆら動いている。
「ししゃも、やめなよ! クリアボックスが倒れちゃうよ」
「にゃっ!?」
だだん、という音がして、クリアボックスが横倒しになる。
「ああ、もう……! めちゃくちゃ……」
同時に、今まで手渡されたプリントが、床にばらまかれる。
その中から俺は目当てのモノを目ざとく見つけだした。
「にゃー」
前足で、『それ』をカリカリと引っ掻く。
「ん……?」
柊が、訝しげに俺の足下の紙を見る。
「これ……学校のプリントじゃ、ない……違う……手紙……?」
そう、手紙だ。西沢は、柊に向けたメッセージを毎回毎回、何通も何通も届けていた。
何度無視されようと、西沢は折れずに、柊にアプローチをし続けてたのだ。
あの時の西沢の発言。
『でも、私、立花さんに嫌われて……きっと、メッセージも届いてない』
そして、昨日の3人組とのやり取りの時の『微妙な間』。
それは、こういうことを意味していた。
社会人の、社畜の空気を読み取る技術を舐めるなよ?
『いかに要領よくリスクヘッジをしていけるか』が、俺たち社会人にとって、まさに生死を分けるものなんだ。
柊は呆然とした表情で、手紙を読み上げる。
「『こんにちは、西沢だよ。立花さんには立花さんのペースがあるから、ゆっくり考えて、前を向いてほしいな』……『こんにちは、西沢です。今日はあいにくの雨で気持ちも塞ぎがちだけど、たまには雨の日に外に出るのもいいものです……』……なにこれ? こんなの……こっちにも……そこにも……何、これ……」
柊は、次々にプリントの間に挟まったメッセージを取り上げ、一つ一つ目を通していく。
そして、結構な量の手紙に目を通すと――一言、ぼそりと呟く。
「――キモ」
……ああ、そうだよな。キモいよな。
俺は内心、そう賛同した。
今のご時世のJKで、こんな粘着的な、心をあらわにしたやり取りなんて流行らねぇよな。
キモいし、何考えてるのかわからない。
百合なの? もしくは頭いかれてるの?
そう思うのが当然だよな。
「ほんと、キモいってば――」
……柊の頬を、一筋の涙が伝う。
そうだよ、柊。それが、答えなんだ。
人と人が不器用ながらもつながること。
人間なんて信用できない。
そんな当たり前すぎる、わかりきったことが蔓延った世の中で。
いや、だからこそ。
「ごめん……ごめん、西沢……」
そう言って、柊は肩を静かに震わせる。
そうなんだよ、柊。
それが『青春』なんていう、暑苦しく、バカ丸出しの、答えの一つなんだと、俺は思うんだ。