釣り敵
店先から怒号が聞こえた。
一度目は、聞き間違いかと思った。しかし、 二度目で為三は確信し、奥の部屋から慌てて店先に飛び出していた。
日本橋通二丁目にある、小間物屋・長門屋である。為三はそこの番頭であり、商いの実務を取り仕切っていた。
まず目に入ったのは、土間に散らばった、売り物の櫛や簪、巾着袋の類である。そして、その中の一つを踏みつけている足があった。
「なんでぇ、為三じゃねぇか」
声。視線を上げると、見覚えのある顔がそこにあった。
頬は削げ、無精髭を蓄え、蓬髪。以前に比べたら随分と険があるが、その顔は紛れもなく十五年前に先代から勘当された、一人息子の又助であった。
「よう」
そう言って不敵に口許を緩ませる又助に、為三は恐怖した。そして、来るべき日が来てしまったとも。
又助は先代の長門屋の主・幸右衛門の長男であった。生まれついて癪が強く、その上に一人息子として甘やかされて育った故か、手の付けられない暴れん坊だった。
近所の子どもを苛める所から始まり、酒と女を覚えると、店の金をくすねては放蕩三昧。徒党を組んで喧嘩もすれば、博打も打つ。ひいては、奉公している女中に手を出して子を宿してしまうほどで、役人の世話になったのも一度や二度ではない。幸右衛門はその度に銭を使って尻拭いをし、そして乱行を諫めたが、それを神妙に聞き入れる又助ではない。そもそも幸右衛門は、歳をとって産ませた一人息子を本気で叱れなかったのだ。
そして十五年前。喧嘩から若い筆職人を殴り不随にした事で、又助はいよいよ勘当され、江戸を飛び出したのだった。
それからの長門屋は、幸右衛門の甥である文作を養子に迎えて跡継ぎに据え、三年前に幸右衛門が病で死ぬと、文作は四代目の幸右衛門として長門屋を継いだ。為三が番頭に上がったのも、その頃である。
その間、又助を思い出した事は殆どなかった。番頭としての目が回るような忙しさが、そうさせたのだろう。一度だけ上方へ流れたという話は聞き、その時は「もし、戻って来たら」と戦慄したが、それも忙しい日々が流し去ってくれた。店の者も殆どがそうだろう。それに、又助の話題は進んでしたいものでもない。
それ故に為三は、
(来るべき日が、来てしまった……)
と、思った。
いつか解決しなければならない問題と思ってはいても、率先して解決しようとは思えない、いっそ死んでくれていた方がどんなに良かったと思う、難題である。
「相変わらず、しけた面してんなぁ」
「又助さん」
為三は店先の縁に座し、取り繕うような笑みを浮かべた。
「文作の野郎が四代目になったらしいな。商売も先代に比べて太くなったとか。善い事じゃねぇの」
「えっ、まぁ……」
「その文作に会いに来たんだが、いねぇらしいじゃねぇか」
「ええ、ちょっと付き合いで」
「まぁ、長門屋の主となりゃ、諸事忙しかろう。そうそう、聞いたぜ? お前さんが番頭だってなぁ」
「お陰様で」
「へん、女中の尻ばかり眺めていた、むっつりな為三さんが番頭かい」
「な、何を申されるのですか」
為三は慌てて身を乗り出すと、又助は冷笑を浮かべて、足で踏みつけていた巾着袋を蹴り上げた。
「そうそう。隠れて女中の部屋も覗いていたよな。俺は知っているぜぇ」
その場にいた手代や女中の目が、自分に向くのを為三は感じた。
「そ、そんな昔話をしに来たのですか?」
「おう、言うねぇ。言うねぇ、為三。流石は番頭さんだ」
「私には、この店を守る義務があります」
為三は意を決して言った。
元来、小心の性質である。膝も震えているし、歯の根も合わない。それでも言えたのは、番頭の職責と周りの目があるからだ。
小心であるが、いや小心であるからこそ、周りの目も気にしてしまう。
「おいおいおい」
眉間に皺を寄せた又助が、歩み寄り顔を近付けてきた。
破落戸特有の動きだが、恐怖を与える事に有効である。勇気を振り絞ったはずの為三も、思わず顔を背けてしまう。
「守る? 守るったぁ、どういう事だ。俺は自分の家に里帰りに来たんだぜ」
「まっ……また、又助さんは勘当された身です。も、もう長門屋の人間では……ございません」
その言葉に又助が怒髪冠を衝くのが判った。
殴られるだろうか。そう覚悟した時、又助は想定外の行動に出た。
「へん、成長したじゃねぇの」
と、笑ったのだ。そして、為三の隣に腰を下ろすと自分の懐に手を滑らせるのが見えた。
「ま、それは俺も同じ事よ。昔みたいな木っ端な悪餓鬼じゃねぇ。それなりに成長したぜ」
不敵に笑む又助の懐に、鈍い光が目を突いた。
匕首だった。それを少し抜いて見せたのだ。
「もう、俺は立派な外道だぜ」
「ひぃっ」
情けない声を上げ身を仰け反らした時、その視界に文作こと四代目幸右衛門が飛び込んで来た。
釣り竿と魚籠を手にしていた。幸右衛門は趣味である釣りに出掛けていたのだ。
「おう、来たか文作」
「もう、幸右衛門ですよ。義兄さん」
又助は懐から手を戻すと、幸右衛門と向かい合った。
幸右衛門は又助に怯む事なく、ふくよかな丸顔に柔和な笑みを湛えている。
「お久し振りですね」
「ああ」
「長門屋に何か御用ですか?」
「何か御用だってぇ? 此処は俺の家じゃねぇか」
「かつては、でございますが」
「ほう、多少は肝が太いじゃねぇか」
「内心では恐れていますよ。何せ義兄さんの顔は鬼のようだ」
そうは言うものの、為三の目には恰幅がいい幸右衛門が又助を圧倒しているかのように見えた。
又助は三十六、幸右衛門は二十九。歳はだいぶ違うが、風格の差がまざまざと見て取れる。
「へん、まぁいい。今日は挨拶に来たまでだ」
そう言い捨てた又助は踵を返すと、目に入った根付や煙草入れの棚を蹴り倒した。
「だが、これで終わると思うなよ。全部壊してやらぁ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
為三が、谷中天王寺裏の萩尾道場を訪れたのは、あれから十日後。夕暮れになると蜩が鳴くようになった、夏も暮れである。
萩尾道場は剣術を授ける道場であるが、昼下がりのこの時分にあっても、門下生達の姿は無い。武者窓から覗く限りには、道場は閑散としていて、ただ静かであった。
仕方なく為三は玄関にまわって声を掛けると、道場で下働きをしている風の下女が現れた。
「私は、日本橋通二丁目で小間物問屋を営む長門屋の番頭をしております、為三と申します。今日は、萩尾先生にお話がございまして、ご面会をお願いしたいのですが」
「先生から、お話はお伺いしております。ささ、お上がりくださいまし」
と、道場とは渡り廊下で繋がった別棟の客間に通された。
僅かな調度品があり、中庭越しに道場が見える部屋だった。やはり人がいないのか、静かだった。
(それにしても、私の来訪を知っていたな)
やはり話は通されていたのだ。そう思えば、裏の深さと冷たさに身震いをせずにはいられない。
為三が、萩尾道場を紹介されたのは、二日前の事だった。
口利きをしてくれたのは、日本橋界隈の裏を仕切る首領・岩切の孫六からだった。孫六率いる岩切一家とは先々代からの付き合いがあり、特に先代幸右衛門とは親友とも呼べる仲で、今は後見にもなってくれている。
その孫六が、用心棒を雇うなら萩尾道場しかないと紹介してくれた。口入屋から用心棒を雇う手もあったが、事が事だけに口が堅く信頼できる者がいい。
「又助の野郎を殺す手もあるが、長門屋は始末屋の元締めに弱みを握られる事にもなるからお勧めはしねぇなぁ」
とも、言った。又助を殺した方が手っ取り早いが、それでは長門屋は新たな秘密を抱える事になる。それは、なるべく避けたい。
(来たか)
足音が聞こえ、為三は姿勢を正した。そして、頭を軽く伏せる。
「おぬしが為三さんか」
声がして視線を戻すと、そこには渋みがある初老の男が座っていた。
白髪頭の総髪。皺が深く、抜け目のない鋭い目をしている。歳は五十路ほどだろう。少なくとも四十前の自分よりは年上である。
(この方が、萩尾大楽であろうか)
そうした疑問を見透かしたように、男が口を開いた。
「私は萩尾道場で師範代をしている、寺坂源兵衛というものだ」
「はぁ」
「主は、釣りに出掛けていてね」
「……釣りでございますか?」
「如何にも。主は釣りが好きでしてね。昨夜から鉄砲洲辺りに」
「なるほど」
幸右衛門と同じだ、と思った。質素を旨とし、華美を嫌う倹約家の幸右衛門の唯一の楽しみが釣りなのだ。
「しかし、心配なされずに。当道場の采配は一切、この私が取り仕切っておる故。それより、早速本題に入ろうか。何故、用心棒が必要か聞かせてくれまいか。あの孫六親分が口添えするのだから、それなりに込み入った話なのだろう」
「へぇ……」
為三は、事の次第をかいつまんで話をし、最後に孫六から聞いた悍ましい噂を告げた。
「そいつは本当か?」
「信じたくはないですが」
それは、又助が今江戸を荒らしている鬼火の典太と組んで、長門屋に押し込もうと計画しているという噂だった。
鬼火の典太は盗みに入った店の者を殺戮する残忍な手口で知られ、町奉行所も火盗改も血眼になって探しているという、大物の盗賊一味である。
その鬼火の典太と又助が接触しているという話を、為三は孫六から聞いた。蛇の道は蛇というべきか、そうした話を盗賊界隈に顔が利く男から仕入れたらしい。
「つまりは、押し込みに備える為に必要だという事ですな」
「左様にございます」
「為三さん、長門屋さんの用心棒を引き受けるのは構いませんが、その又助って野郎に備える為となると、いつまでになるか読めないね」
「ええ、そこが困り所でして」
「ふむ」
寺坂は腕を組んで、深く息を吐いた。それから、視線を道場に移す。何かを考えているのだろう。渋みのあるこの男がすると、こうした仕草も様になる。
「為三さん。この依頼、引き受けましょう。用心棒は、交代で三人もやれば大丈夫でしょう」
「よろしいのですか?」
「その分、値が張りますよ」
「そりゃ、もう」
用心棒の費用については、幸右衛門も了承済みであった。
最初は用心棒など必要ないと言っていたが、最近生まれた跡取り息子や奉公人の安全を考えれば止む得ないと、為三にその手配を頼んだのである。
「うちの松井直蔵って奴と若いのを二人、そちらに送りますよ。松井は若いし、可愛い顔をしているんで、奉公人も怖がる事はありますまい」
それから報酬の話になり、為三が萩尾道場を辞したのはそれから半刻後だった。
玄関先まで見送られた為三が道場を出ようとした時、釣り竿と魚籠を手にした男と出合い頭にぶつかった。
「おっと」
と、男の声。為三は慌てて頭を下げ、そして視線を上げた。
そこには、潮焼けした男の顔があった。筋骨逞しく、そして背も高い。
「よそ見をしていた俺がいけねぇんだ。すまないね」
「いやいや、私も前を見てませんで」
「いいって事よ。それに今日は鱚が大漁でね。気分がいいんだ」
と、男は笑って道場の中へと消えた。
おそらく、この男が萩尾大楽なのだろうと、為三は思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
松井直蔵という用心棒は、腰が低く若いからか、奉公人に人気だった。
「用心棒だけど、普段はやる事が無いので手伝いますよ」
時にはそう言って、力仕事もかって出てくれたりもする。他の二人も似たようなもので、萩尾道場の躾がいいのだろうと、皆が囁き合っていた。
一見平穏だが緊張感がある日々が、ひと月半続いた。
主の幸右衛門は唯一の趣味の釣りも控え、連日店に出ている。たまには釣りでもして気晴らしをと薦めてみたが、
「私一人が楽しんではいけない」
と、首を横にするばかりだった。
そんなある日、店に寺坂が姿を現した。
「これは寺坂様。今日は何か?」
「ちょっと、見せたいものがあってね。幸右衛門さんも一緒に来てくれないか。なぁに、来たら判る」
そう言われ、為三は幸右衛門と共に寺坂が用意した猪牙舟に乗り込んだ。
暫く猪牙舟は無言で進み、辿り着いたのは向島の百姓地にある岩切の孫六の別宅だった。
孫六が向島の百姓地の一角を買い取り、そこに妾と二人の子供を住まわせたのは五年前。三年前には増築し、庭と小さな蔵を備えた屋敷に立て替えていた。
「こっちだ」
寺坂は、その別宅の外れにある小さな小屋へ案内した。
小屋の近くには猫の額ほどの畠があり、この小屋は農具の倉庫なのだろう。
「よう」
その小屋の前で、あの萩尾大楽と孫六が待っていた。
大男の大楽と並ぶと、老齢で小男の孫六が猿のように見えてしまう。
「よく来てくれたねぇ。しかし、間に合って良かった」
孫六がそう言い、隣りにいた大楽は幸右衛門に軽く黙礼をした。
「さ、中に入りな。もう少しでいいものが見られるぜ」
何の事か怪訝に思ったが、二人はほくそ笑むだけで何も応えようとしない。
仕方なく、二人の言う通りに為三と幸右衛門は小屋の中に入り、窓から外を覗いた。
既に、夕闇が辺りを包んでいる。
(あれは)
木々の合間から、男が駆け出して来た。一度転んだが、立ち上がりまた駆け出す。何かから逃げている、そんな様子だった。
男は、紛れもなく又助だった。
その又助が、不意に足を止めた。百姓姿の男達に囲まれたのである。男達は十名ほどで、既に抜き身の匕首を手にしていた。
「どうして、又助義兄さんが?」
幸右衛門が問うと、孫六がほくそ笑んだ。
「そうなるように仕掛けたのさ」
そう言ったのは、大楽だった。
「孫六の親分から、又助の野郎が鬼火の典太と組んで、あんたの店に押し入ろうと企んでいるって話は聞いたろう?」
「ええ。又助義兄さんが手引きをするって持ちかけたとか」
「そう。その噂を、火盗改に流したのよ」
「……では?」
「鬼火の典太は当然、又助が裏切った、或いは火盗改の走狗と疑うわけさ。一方で、又助の耳に『話が漏れたのは又助が裏切ったからだと、鬼火の典太がお前を殺そうとしている』という話を入れさせた。その上で、孫六の親分が『先代幸右衛門に世話になった恩返しに、命ぐらいは助けてやる』と言って、又助を此処に誘い出した。鬼火の典太と共にね」
大楽と孫六の謀略に唖然とする為三だったが、外では鬼火の典太一味と又助の修羅場が繰り広げられていた。
「しかし、これでは又助義兄さんが殺されてしまいます」
幸右衛門が焦っている。確かに、又助は二の腕と肩に傷を負っているようだ。為三には
(散々悪さをした又助なんだ。賊に殺されるなんざいい気味だ)
としか思わなかったが、この男は違う。無頼の破落戸に脅されたというのに、その命を心配する。真っ当な善人なのだ。そして、その優しさが為三は好きだった。
「心配しなさんな、幸右衛門さん。それにも手を打っているよ」
孫六が不敵に笑んだ時、何処からか呼び笛が鳴った。そして闇に浮かぶ、〔火盗〕と記された提灯。火付盗賊改方である。
「孫六さん。もしや、それらの情報を火盗改に」
「そうさね。鬼火の典太のような外道はお上の裁きを受けなきゃなんねぇ。又助も、自分の犯した罪には向き合ってもらわねぇとな。奴を殺すのは簡単だが、それがお前さんの依頼であっちゃ、先代の幸右衛門さんに会わせる顔がねえ。お上の裁きに委ねる事が、まぁ恩に報いるって事だわな」
「……」
「それでいいかね? 幸右衛門さん」
「仕方ありません。お裁きの結果で死罪になったとしても、それは又助義兄さんが負うべき責任ですから」
外が騒がしくなった。火盗改との大捕物が始まったようだ。だが、幸右衛門以外は誰も外の様子を眺めてはいない。
「寺坂さん」
為三が部屋の隅で黙っている寺坂に声を掛けた。
「どうして、ここまでしてくださったんですか?」
「ん? それは、うちの主に訊いてくれ」
と、寺坂が視線を送った大楽は、鼻を鳴らして頬を緩めた。
「為三さん、実は俺と幸右衛門さんは釣り敵でね。鉄砲洲や霊岸島なんかで、釣果を競っているんだ。それが最近姿を見せねえ。別に友達ってわけじゃねぇが、姿を見せないとなると気になりやがる。って調べてみると、うちが請け負っている仕事に関係あると来た。だからさ。あとは孫六の親分に話をしてって具合で」
「では、早く釣り勝負がしたいが為に……」
「まぁね。でなきゃ、ここまでしねぇさ」
大楽が一笑し、孫六もそれに続いて笑った。窓から視線を戻した幸右衛門も飽きれたように笑っていたので、
「もう、どうなってんだか」
と、為三は苦笑し、考えるのを止めた。