議論のそばに、切子の華
世の中に生きる人々の中には、大きな失敗をしてそれだけで人生を踏み外す者が存在する。彼らは、崖から転落したあと何を望むだろう。
「…今日も時間が止まってるのね、ここ」
目の前に座り、行儀知らずにもストローでオレンジジュースをかき混ぜる茶髪の女性。彼女が今日の客らしい。
僕の名前は、刻翔 走。とある小さな町で、小さなカフェを営んでいる。僕の所有物である店の中には、狭い厨房と向かい合わせに置かれた二脚の椅子、そして一つのティーテーブルが居心地悪そうに置いてある。お世辞にもカフェとは言えない内装だが、僕の経営にはこれで充分だ。
「あなたの腕時計は、正確ですか」
客である女性…日戻 コクさんは、僕の問いに眉を寄せた。
「あら…ここに入れば店外の時間まで止まっちゃうのに聞くの?私の時計だって壊れたか動いてるか分かんないじゃないの」
彼女は左手首に付けた金色の腕時計をちらつかせてみせた。長針、短針はおろか、秒針もピクリとも動かない。そう、四時零分零秒を指したまま。この時計だけではなく、おそらく世界中の時計が止まっていることだろう。
…今、時間は止まっているのだから。
「そうですね」
何も手を加えていないオレンジジュースの中の氷が、カランと音を立てた。
「店内はいつでも時間の概念がないんですよね。そして客が入れば、店外の時間も完全に止まる…。不思議ですよね」
「その仕掛けを作っているのはあなたでしょう?…いつからだったかしら」
…そうだ、あれは二年前。
僕がこのカフェを設立したのはそよ風の吹く春の日だった。小さいテナントを借りて、安い金額で厨房を造って。趣味のつもりだったけど、いつの間にか本格化していたこの営業。
今のように不思議な仕事を始めたのはその年の夏頃だ。きっかけは、ある友人が僕のところに来たことだ。彼とは大学のクラスが同じで、いつの間にか仲良くなっていた関係。ある時、彼の家に遊びに行くと、小さな掛け時計を渡された。
『これは時間を巻き戻したり止めたり出来るんだ』
確かに彼はこう言い、どこでこんなものを手に入れたのかその経緯も話さずに、それを僕に安く売り飛ばした。彼の言葉を最初は信じなかったけど、ネジを巻いたり時計盤の裏側を覗いたりしているうちに、どうやらその話は本当だということが分かってきた。そうして、僕はカフェの南側に時計を掛け、いわゆる『タイムスリップ』という営業を始めたのだ。
店内の時間はいかなる場合でも止まっていて、客が来れば必要に応じて時を巻き戻し、様々な人の失敗を無かったことにするという不思議な商売。最初はいつかの僕のようにいぶかしんでいた人々も少しずつ店に入ってくるようになって、客足は上々だ。
ただ、不思議なのは。
「───あの時計をくれた人が…誰なのか忘れてしまっているんですよね」
時計をプレゼントしてくれた『彼』。カフェでこの仕事を始めてから、顔や声は記憶から少しずつ消えていったのだ。
「だーかーらー!それは『夢か現か』って適当に片付ければいいっていつも言ってるでしょ?ほんっといろんなこと、マスターは引きずるんだから!」
実は僕の幼馴染であり相談相手でもある日戻さんは、持ち前の大雑把な性格でいつもこう喝を入れてくる。でも、適当に片付けられる問題じゃあ…ないんだよなあ。ちなみに、僕が彼女を苗字+敬称で呼び、彼女が僕を『マスター』と呼ぶのは、一応客と店長なる立場であるということをわきまえているからである。
「…日戻さん、考えてもみて下さいよ。自分の中の記憶が少しずつ消えていくんですよ?認知症でもないのに。これほど怖くて気になることはありませんって」
そう言いながら、僕は暇つぶしに拭いていたグラスをテーブルに置いた。もともとあまり汚れていなかったので、磨き上がった水色の切子硝子は光を反射し、これまた綺麗に磨き上げられていたテーブルに複雑な模様を描いた。いつも繰り返される議論のそばにあるのは、初めて作り出される美しい造形。なんとなくむず痒い気持ちだ。
「ところで、日戻さんは今日はどういったご用件でここに来たんですか?」
このカフェ『Remember』に来る客のほとんどには、過去に戻りたいという願望がある。それを叶えるのが僕の本職だ。今のように客と駄弁るのはサービス。それは日戻さんとて例外ではない。あまり長居せずにさっさと帰って欲しいので、僕は本題を聞くために問いを投げかけた。