鵲
『鵲 ─KASASAGI─』最終話です。
何から話しましょうか、と春宮は胸元に散らばる彬子の鬢批の髪を玩びながら言った。
その声はとても静かなのに、その胸に頬を寄せていると彬子のうちにまで深く響いてくるようで、そのことを不思議に感じる。
春宮の姿も声も、彬子の記憶にある無口な耀よりずっと逞しく精悍になり、でも、瞳の優しさは昔と何も変わっていなかった。今となれば、なぜ『鵲』は耀だと信じることができなかったのか、いっそ不思議なほどだ。
「なんでもお聞かせください。お辛かったことも嬉しかったことも、悲しかったことも……すべて」
あの夜、世はままならぬことばかりと言いながら抱きしめてきた『鵲』の、彬子の心に触れた思いを知りたい。すべてを受け止め、包み込んで差し上げられるならば。
彬子は、初めてその背に手をまわした。恥ずかしさに染まる頬を隠すと春宮は小さく笑って彬子を抱く腕に力を籠め、手にしていた瑠璃を見ながら話し始めた。
あの日、わたしは恋をしたのですよ。
春のひやりとした風が吹く池のほとりで、淋しげな鈍色の衣を着て、一心に桜を拾う姫に。
躊躇いなくどこの誰とも分からぬわたしの手を取り、何ひとつ疑うことなく友と呼んだ姫に。
わたしは、生涯手放せぬ恋をしたのです、と───
皇子として生を受けた者がどれほど孤独か、それはその立場になった者にしか分からぬだろう。
父母と暮らすことも叶わず、里邸でともに暮らす者たちは帝の御子というだけで、取るに足らぬ幼子を愚かしいほどに恭しく扱う。ましてや、わたしは父である帝の一の皇子だった。
心の底から笑ったことなどない。乳兄弟もおらず、ともに遊ぶ童もいなかった。どれほど大事に傅かれて暮らそうとも、幼い心はいつも凍えるように冷えていた。
だから、母君が内裏を離れ、祖母君とわたしが暮らす邸に戻られると聞いた時、六歳のわたしはどれほど嬉しかったことか。
主である左大臣を喪い、泣き萎れるばかりの邸はただただ暗く、母君はわたしにとって一筋の光明であるはずだった。
待ちに待った牛車が到着し、久々にお目にかかった母君はだけど、ひどく面やつれして、わたしの知る、宣耀殿に住まわれる輝くように美しい女御たる母君ではなかった。わたしの顔を見るや、もうそれだけではらはらと涙を零した母君は、その白く細い手でわたしを抱き寄せると、宮、宮、とまるでうわごとのように幾度も幾度も繰り返された。
嬉しさよりも空恐ろしさの方がまさった抱擁───その後、母君は力なくその場に崩折れ、呆然と立ち尽くすわたしを手放し、気を失われた。
淡い希望を打ち砕くような、その日がわたしのすべての始まりとなった。
それを限りと、母君が内裏に戻られることはなかった。
始めのうちはそれでも、いつも母君の傍にいられることが嬉しかった。母君はたくさんの話をしてくださったし、たくさん愛しんでもくださったから。
内裏から持って来られた碁で、遊んでくださることもあった。母君に敵うことはなく、幼いわたしはもう一度とせがんで、少しでも長く母君とともにいられることを望んだ。
幾度か密やかに、父帝から遣いが来たのは知っている。だが、それは希望をもたらすものではなく、その後母君はますます気力を失い、日がな一日ぼんやりと過ごされることが多くなっていった。
少しずつ少しずつ、現世からは隔たったどこか遠くへとそのお心を移されてしまった母君は、やがてわたしを見ることはなくなっていった。否……わたしを見てはおられたが、わたし自身を見てくださることはもう、なかった。母君は、わたしを通して父帝だけを見ておられた。
祖母君が世を去った時、それは決定的になった。
もはや誰も手を差し伸べてはくれぬ日々、少納言という所詮は名目だけの位にとどめ置かれた伯父上は必死に孤軍奮闘しておられたが、政争に敗れた一族の若き長に誰が構うというのか。
母君お一人で都の邸を采配するのはもはや不可能だった。だからといって母君はその時もなお女御というお立場にあり、伯父上の許に身を寄せるようなご身分でもあられぬ。
母君は伯父上によって嵯峨の所縁の寺に連れて行かれ、そしてそこで髪を下ろされた。後々、母君のお髪はひっそりと帝の許に届けられたのだ、と同じく髪を下ろした母君の乳母でもある古参の女房が涙ながらに語ったが、真偽のほどは定かではない。その後、帝からの遣いは一度として来なかったのは確かだ。
母君の瞳は虚ろで、何も映しはしなかった。
ただ、時々ふと正気を取り戻されることがあって、そんな時には決まって同じことを仰った。
───いつか、内裏に戻りましょう。その時は、宮もご一緒に。
それは決して叶わぬ望みだと、十を過ぎたわたしにはもう分かっていた。
それでも、わたしは微笑んで頷いた。はい、いつか、と。
もう何度繰り返したか分からぬその受け答えは、母君とわたしを繋ぐたったひとつの絆となり、やがて、決して逃れられぬ枷ともなっていった。
───彦星の ゆきあひを待つかささぎの 門わたる橋を 我にかさなむ
彦星よ、空の星。
どうかわたくしにも、おまえの鵲の橋を貸しておくれ。
鵲よ、わたくしを主上の御許に。
この愛おしい皇子を、どうか今一度内裏に……。
母君はわたしに、繰り返し繰り返しこの歌を詠んで聞かせる。時に寂しげに、時に涙を浮かべ、時に無垢な少女のように憧れに満ちた瞳で。
その歌はやがて、絹のようなしなやかさでわたしに纏わりつき、逃げることを許さず、息もつけぬほどに締めつけるようになった。
それは確かに、母君のかけた呪いだった。
わたしは己の意思とは関係なく、一族の宿望を背負わされるようになっていった。立場を考えればそれは当然でもあったけれど、いつ叶うとも知れぬ、そのような宿望に翻弄されるのは幼心にも耐え難いことだった。
嵯峨の寺で、わたしはほとんど年老いた僧都だけを相手に日々を暮らした。大概のことはこの徳の高い僧都に学んだと言っていい。それは、非常に興味深い時間であったのは確かだが、わたしはまだ子どもだった。窮屈で孤独で張りつめた毎日に、逃げ出すことを考えても不思議はないだろう。
そうしてあの桜咲く春の日、寺から抜け出したわたしは見つけた。
わたしと同じ年頃の、わたしと同じ寂しさを纏った、咲耶と呼ばれる姫を。
駆けまわる他の子どもたちとは離れ、たった一人で小籠に桜の花を拾い集めていた。
鈍色の衵に腰あたりまでの振り分け髪を揺らし、しゃがんで花を集める姫の横顔に視線を奪われた。女童など身近にいたことがなかったわたしは、薄紅に染まるふっくりとしたやわらかそうな頬から目が離せなかった。
何をしているのだろう、あんなに花を集めて。
女童の遊びなどよく分からない。木の陰に身をひそめ様子を窺っていると、不意にその姫が振り返った。覗き見ていることに気づかれたばつの悪さに、身を隠そうとしたが間に合わなかった。
まっすぐな瞳が、わたしを捕らえる。
じっとこちらを見て、誰かと問うたその姫は、咄嗟に何も言うことができなかったわたしを遊びに誘った。
なぜ、他の童たちと遊ばぬのか、なぜ、見知らぬわたしを誘うのか。
そんな疑問も、さっさと先を行く姫に置いていかれそうになって口から出てはこなかった。
暗い邸や寺の中で、ひたすらわたしの意向を窺い、後をついてくるばかりの者たちに囲まれていたから、放っていかれそうになったことすら新鮮だった。
辿り着いた小さな流れで、拾った花を散らすのだという。
たったそれだけの幼い遊びになぜか心がふわりとゆるんで、初めて野の明るさを知った。
くるくると回って落ちる花の軌跡を見つめていると、来て、と手を取られた。何をと思う間もなく、ぐいぐいと手を引かれてあっという間に先ほどの池に戻った。水面に広がる桜花の間を、鳰鳥が泳いでいた。
わたしの心の臓がひどく弾んでいたのは、生まれてこのかた、走ったことなどほとんどなかったからだと言い訳めいて考えたけれど、本当は、ずっと握られたままの姫の手のぬくもりが心をざわめかせたからだ。
風が吹き、姫の髪が揺れる。その髪を押さえながら、つないだ姫の手の力がぎゅっと強くなって、その瞬間わたしの心も一緒に掴まれたことに気づいた。
なのに、他の子どもたちがわたしたちに気づき、こちらにやって来るのを見た時、わたしは思わず姫の手を振り払ってしまった。
あの時のことを思い出すと、今でも心が痛む。
姫の瞳を彩った驚きと悲しみ。
それはほんの一瞬のことだったけれど、わたしは姫の手を振り払ったことを、かつてないないほど後悔した。初めての感情だった。
鄙の子どもたちに、踏み込んでくるような無遠慮な態度でおまえは誰だと問われても、傅かれることに慣れ切っていたわたしはどう対処していいのか分からず、ただ睨みつけるしかなかった。もしもその時、わたしの前に立ちはだかって、友だと言い切ってくれた姫がいなければ、わたしはそこから逃げ出して、それきりまた孤独の闇に沈んでいただろう。
名を問われ、耀と名乗った。
母君が宣耀殿女御だったこともあり、耀宮と呼ばれていたからだ。でも、皇子だということは決して明かせなかったし、言うべきでもないと思っていた。
それはきっと、間違いではなかった。おかげで、葛葉や乙丸たちも警戒することなくわたしを受け入れてくれたのだから。
同じ年頃の子どもとどう話せばよいかなど、わたしには分からなかった。それでも、姫や子どもたちと過ごす僅かな時間はわたしにとって救いだった。
寺を抜け出すことは容易ではなかったから、ともに過ごした時間はきっとさほど長くはない。それでも、わたしの中に姫の存在を大きくふくらませるには、充分な時間だった。
鈍色の衣を着た姫の姿しか知らない。それでも、姫の気取りない優しさや素直さ、強さは、暗く沈んだわたしの運命の中で、光り輝く憧れとなった。
その一方で、母君は毎日少しずつ、わたしの許から遠くなっていかれた。徐々に壊れていく母君を見ているのは、辛かった。
もはや、碁で遊ぶこともなくなった。
いつか見つけた、碁笥の底に隠されていた瑠璃の碁石。
父帝がいつのことか、ほんの悪戯心からご寵愛深かった母君とご自身とを織女と彦星になぞらえ、星に見立てた碁石の形の瑠璃を、鵲と同じ色をした碁石にひとつずつ隠してお贈りになられたのだとか。
母君にお見せしてももう、それが何なのかすらお分かりにならぬ残酷な現実から逃げ出して姫の許に行き、心に溜まった苦しさを分かって欲しくて、母君が口ずさむ鵲の歌を教えた。すると姫は屈託なく、碁石で鵲の橋を作って雛遊びをしようと言う。
苦しい思いは伝わらぬかと思ったその時、鵲を見たことはないと言った姫が、誰に聞かせるともなく呟いた。
年に一度しか会えぬとて、一度でも会えるなら幸せではないか───その姫の言葉を聞いて、わたしは初めて気づいた。
母君が壊れてしまったその理由を。
そして、己の中にも抑え切れぬ姫への恋心があることを。
父帝の、母君への証しだった瑠璃を、こっそり持ち出して姫に贈った。きっと姫は何のことか分からなかっただろう。でも、私にとっては生涯を誓う決意の表れだった。
これからはもっと強くなろう。父帝は、母君をお守りになれなかった。わたしはそんなことはしない。母君も、姫のことも、わたしが守るのだ、と。
なのに、わたしは姫を傷つけた。心にも身体にも、大きく残る傷を。
母君はもう、時折目覚めるだけで、一日の大半を眠って過ごされるようになっていた。
そんな日が幾日も続き、辛くて悲しくて、わたしは一目でも姫に逢いたかった。そして、あの出来ごとが起こった。
乙丸たちにからかわれ、引くに引けぬまま初めて登った木の上で寺の下人の叫ぶ声を聞いた時、わたしはすでに何が起こったかを理解していた。
母君が身罷られたのだ。
そう考えた瞬間にはもう、足を滑らせていた。
咄嗟に掴んだ小枝は虚しく折れて、わたしはこともあろうに姫の上に落ちた。
なんということをしてしまったのか。守ると決めたではないか。母君も、姫も。
耀君、と呼ばれて身を起こせば、真っ先に目に入ったのは手に握りしめた小枝と、姫の首から流れ出る血。鈍色の衣を着た姿しか見たことがなかったのに、姫の衣は紅に染まっていた。
そこにやって来た下人は、御母君がと震える声で言う。
守ると決めたのに。母君も、姫も。
頭の中が真っ白になって何も言うことができぬわたしに、姫は微かな笑みすら見せた。それを見て涙が溢れ出た。
なんということをしてしまったのだろう。
なんと無力なわたし。大切な人たちを前にして、まったく為すすべを持たぬ、なんと無力な。
下人に抱え上げられ、引きずられるようにその場から離れた。
喉も裂けんばかりに姫を呼んだ。あんな叫び声をあげたのは、後にも先にもあの時だけだ。
それきり、寺を抜け出すことはもう叶わなかった。
母君を喪い、姫をも失ったわたしは、姫と同じ鈍色の衣を着て僧都の下でひたすら学に励んだ。そうするよりほかなかった。姫がどれほど心配し、寂しい思いをしているか、ということは考えないようにするしかなかった。
それから二年ののち、嵯峨のわたしの許へ伯父上がやって来て、そして言った。
貴方をいずれ帝に、と。
何を言っているのかと最初は取り合わなかったが、伯父上の目は真剣だった。
そうか、とその時気づいた。いつか内裏にという母君の呪い、鵲の歌に込められた思いの意味に。母君は、わたしこそが御位を継ぐべきだと、そう望んでおられたのだ。
それは決してわたしの望む生き方ではない。わたしはただ、孤独から抜け出せればそれでいいのだ、内裏はきっと恐ろしく孤独に違いない。
ともに遊ばぬようになってから一度だけ、あまりの恋しさにこっそり姫の様子を見に行ったことがある。だが、姫はすでに行方も知れず、庵は荒れ果てひどいありさまだった。心のどこかで予想していたとはいえ、その喪失感は耐え難いものだった。
無力な今のわたしのままでは何も為し得ぬのだと、嫌になるほど思い知らされたその時のことを思い出した。このまま嵯峨にいても、きっと孤独なまま───わたしは伯父上の目をまっすぐに見返し、頷いた。
そうしてわたしは十四の頃、嵯峨から都に戻り、すぐに元服した。
都に戻って三年が経った時、皇子でありながら無官で昇殿する機会さえも得られなかったわたしの許に、父帝崩御の知らせが届いた。
正直に言うと、実の父を喪ったにも関わらず、ほとんど何の感慨も持たなかった。物心ついてから一度たりともお目にかかることのなかったことを思えば、それも仕方なかったかもしれない。わたしの異母弟宮でもある、三条右大臣派の春宮が践祚し、新しい御代となった。
わたしを引き取り、後ろ盾となってくれた伯父上は、非常に頭のいい方だった。
人あたりのいい生来の性格もあり、積極的な味方はおらずとも祖父君のように敵を作ることもなかった。
過去の政争の記憶は時とともに薄れ、伯父上は中納言として再び政の表舞台に存在感を示すようになり、徐々にその発言力を増していた。
そのような中、伯父上は忘れ去られた親王であったわたしを、太宰帥に就かせることに成功した。それは伯父上、ひいては我が一族の秘めたる宿望の地固めの第一歩でもあった。
二十歳を迎えた年、思わぬ事態となった。生まれつき身体の弱い異母弟帝に重篤な病の兆しあり、という極秘の知らせがもたらされたのだ。
ついにこの時がきたのだと、左大将になっていた伯父上の声は震えていた。その高揚に反して、わたしは心が沈んでいくのを止められなかった。
一の宮として生まれながら、二の宮に帝の地位を奪われた不運の親王───帥宮であるわたしへの、当時の世の認識はそんなものだった。一族の望みは理解していたが、それは異母弟宮が帝である以上、現実になることはあるまいと心のどこかで思ってもいた。
しかし、帝の皇子である春宮は未だ幼く、もし万が一のことがあればその次につなぐことはできぬのだ、そう幾度も説得を重ねられ、わたしは伯父上に押し切られる形で覚悟を決めた。
母君も望んでおられたのだ、内裏に入ることは承諾しよう。その代わり、とわたしも伯父上に要求を突きつけた。
捜したい者がいる。幼い頃をともに過ごした姫だ。内裏に入ってしまえば、軽々に捜しまわることもできぬようになる。
わたしの要求に伯父上はちらと視線を揺らしただけだった。面白いと言いこそすれ、反対することはなかった。
ただし、許された時間は、わたしがいずれ御位を継ぐと正式に決まるまで。
そして、たとえその者が見つかっても、宮が宮たることは決して明かしてはならぬ。
それが条件だった。
わたしは、記憶を頼りに懐かしい嵯峨を辿った。
寺の主もとうに変わり、崩れ果てた姫の庵を見つけた時には虚しさに涙も出たが、それは同時に、なんとしても姫を見つけ出すという決意の源ともなった。
姫の乳母だった女の住む家を見つけることはできた。だが、わたしを見た女はひどく怯え警戒し、姫さまはとうに都に戻られましたと言ったきりその戸をかたく閉ざし、二度と開けてはくれなかった。
いったい、姫の身に何が起こったのだろう。その怯えようはわたしを不安に陥れ、すぐさま都に戻り、悠長に構えることをやめた。
人目につかぬ月のない夜を選び、姫がいると聞く殿上人の邸に手当たり次第に忍び込んだ。
都の邸に忍び込むことは思った以上に容易かった。
ほんの少し甘い言葉を囁くだけで、邸の女たちはあっけなく姫君の住まう対屋の妻戸の掛金を外す。その戸のうちに滑り込み、眠る姫君の顔を盗み見、その首筋にわたしがつけてしまった傷痕があるかを確かめた。
気づかず眠り続ける姫君もいれば、目覚めるや怯え気を失う姫君、あろうことか、しなだれかかってくる姫君もいた。
だが、どの姫君も違う。わたしの捜す姫ではない。
不埒な行いをしたせめてもの償いにと、その枕許に黒い玉でできた碁石を置いていく。それひとつでも、充分に禄の代わりとなるだけの。
忍び込む日を月のない朔と決めたは、できるだけその姿を見られぬようにするためだった。闇に紛れるよう、黒い衣も身につけた。
それでもやがて、都に噂が立つようになる。よりにもよって、『鵲』という名までつけられて。
伯父上も警戒を強め、もういい加減諦めては? と言ってくる。一月に一度しかないその機会が、失われようとしていた。
そして、二年前の文月の朔。我が一族の宿敵とも言える三条右大臣派の一の大納言家に忍び込んだ。北の方腹の姫君が一人、いたはずだ。
正直、もしもその姫君ならば厄介なことになる、と思わぬわけでもなかったが、それでもわたしは姫を見つけたかった。
ここでもあっさりと掛金は外され、闇夜に紛れて御帳台のうちに入った。
そこに眠っていたのは、なんともあどけない表情で眠る一人の姫君。どこか、思い出にある姫の面影を宿すような気がして心の臓が跳ねた。そっと手を伸ばし、傷があるかを確かめようとしたその時、御帳台の帷の向こうに人の気配がした。
手引きをした女とは違うようだ。そのような事態に遭遇したのは初めてだった。さあ、どうする? しばらく御帳台のうちで身動きもできずにいると、目の前の姫君も目を覚ましてしまった。驚きに目を見開くその姫君は、わたしの捜す姫でないのは明らかだった。
外から震える声で様子を尋ねてくるのを聞いて、それが女と知る。許せとだけ呟き、ままよ、と御帳台を飛び出した。女の一人や二人、いざとなればいかようにもあしらえるだろう、と考えたからだ。
そして、見つけた。
一目で分かった。傷痕を確かめるまでもなかった。
一瞬で灯を消されてしまったが、己を見据えた強さと寂しさを湛える瞳は、まさしくあの姫のもの。そもそも、あのような場に踏み込んでくるなど、都育ちの姫君ならあり得ぬことだ、間違いない。
やっと見つけた───闇の中、思わず手を伸ばすと、姫は怯えた大きな声で人を呼んだ。
とにかく、まずは退散するしかない。ぶざまに逃げ出し、それでもわたしの心は喜びに震えていた。
一の大納言が若かりし時、戯れに通った嵯峨に住む姫君との間に、一人の娘が生まれていたことまでは調べがついた。よりにもよって、敵対する三条右大臣派の姫だとは思ってもみなかったが、それですらどうでもいいことのように思えた。 ただもう一度姫に逢いたい、それだけだった。
乞巧奠の日、私は月の明るさもものともせず、再び一の大納言邸に忍び込み、姫を捕らえた。
月明かりに見た傷痕には心が締めつけられたが、それでも、飾りのない言葉も物怖じせずまっすぐに見返す瞳も、幼い頃と何も変わっていない。
変わったのは、姫が嫋やかに美しく、そして、わたしよりも遥かに弱い存在となっていたことだ。
権勢を誇る一の大納言の邸に引き取られても、それからの日々が幸せだったようには到底見えなかった。それが証拠に、幼い頃は幸せだったと、かつてわたしが贈った瑠璃を見つめて言い、今は幸せかと問えば、幸せだと痛々しいほどの悲壮感を湛えて言う。
到底信じられるものではなかった。今すぐにでも、攫い出してしまおうかとすら考えた。だが、ふと考える。それが姫にとって最善のことなのか? そもそも、わたしはなぜ、こうまで躍起になって姫を捜したのか?
ただ逢いたかったから、などという理由は無責任以外の何ものでもないだろう。
再び見えることができた喜びは、みるみる萎んでいった。この再会が、姫の心にも要らぬ悩みをもたらすやもしれぬことに気づいて愕然としたわたしは、姫に希望となるどんな言葉も贈ることはできぬまま、その場を離れるしかなかった。
それきり、わたしは姫を訪ねることはなかった。伯父上に止められていたのもあるが、何より、わたしは姫を守ることができるのか?という自問の日々だったからだ。
わたしの傍にと願うことはつまり、姫をも内裏に閉じ込めることだ。どう考えても、それが姫の喜びになるとは思えなかった。
姫の幸せを思えば、あの邸から救い出し、どこかで暮らせるだけの援助をするだけの方がよいと頭では分かっていた。だが、わたしの心はついてこない。それではいつかきっと姫をほかの男に奪われてしまう、そんなことは耐えられぬ気がした。いっそ、会わないほうがよかったとまで思った時もある。
心を決め兼ねたまま、ついに伯父上の定めた期限の時がきて、伯父上は探るような視線で尋ねた。
捜しておられた姫は見つかりましたか? 宮が春宮となられた暁には、三条右大臣派の姫を妃に迎えていただかねばなりませんが、それでよろしいか? と。
過去にあった不幸な諍いを繰り返さぬためにも、三条右大臣派と我が一族の繋がりが必要なのは分かっている。
決断を迫られたわたしは土壇場のその瞬間に心を決め、それまで胸にあたためてきた策を伯父上に打ち明けた。
実は、一の大納言の邸に寂しい境遇の姫がいる。恐らくは、一の大納言も手放すことを厭いはすまい。ただ、三条左大臣派の姫として入内させることには断じて否と言うだろう。ならばいっそ、その姫を貰い受けて、伯父上の娘として入内させることは可能だろうか。どうせなら育ちに恵まれぬ者同士、傷を舐め合うのも悪くはないと思うのだ───わたしは、自分の言葉が姫の人生を大きく、もしかしたら好まぬ方へと変えるかもしれぬことを自覚しつつ、そこから目を逸らすように自虐的な言葉を交え、一気にそう言った。
伯父上は微かに眉をひそめ、しばし考えたのち小さく笑って、分かりました、とだけ言った。きっと伯父上は、それがどういうことなのか、すぐに気づいたのだろう。
それからのことは、姫も知るとおりだ。
伯父上は着々とことを進め、姫は右大臣家の娘として我が一族に入った。娘がいなかった伯父上は、姫が養女となったことを大層喜んだ。
伯父上の許しも得て、姫の許へと忍んだあの夜のことはきっと一生忘れぬ。
あの日もまだ名乗らなかったのは、最後にもう一度、姫の真実求めているものを確かめたかったからだ。鄙での暮らしなのか、それとも、わたしと同じように人のぬくもりを求めているのか。それを知るのに、わたしが耀だという事実は姫の心を惑わすようで言いたくなかった。
姫は、わたしを耀だと気づいてくれていた。嵯峨に帰ることはできなくとも耀がいるなら、そう言ってくれた姫に、今ならまだ姫を嵯峨に戻せるかもしれぬ、そう考えて必死に抑えていた気持ちのたがが外れた。そうだ、わたしは耀だ、と答えてしまいそうな己の口を必死でとどめ、姫を抱きしめた。
もう二度と手放さぬ、そう心に呟きながら───
「姫……?」
胸に感じる重みが増して、彬子が眠りに落ちていることに気づいた。
春宮は優しい笑みを浮かべ、睫が影をなす頬を愛おしげに撫でると、彬子の掌に証しの瑠璃を置き、その手ごと包み込むように握って静かに目を閉じた。
「辛い思いをさせて済まなかった。こんなわたしと、それでもともにいてくださるか? 不自由なこともあろうが、ここでわたしとともに……」
尋ねるでもなくそう独り言ちながら、規則正しい寝息に揺れる頭にそっとくちびるを寄せ、声を出さずに彬子、とその諱を呼ぶ。
しんと深い静けさの向こう、遠くどこかで鳥の囀り鳴き合う声が聞こえた。まだ夜も明けておらぬというのに、いったい何を語らっているのだろう。鳥は一生、夫婦仲睦まじく生きると聞いた。
その鳴き交わす声にじっと耳を傾けていると、眠っていたはずの彬子が春宮の手を求め、そっとその指に口づけた。
「これからはずっとお側におります。……お慕いしておりました。きっと、あの桜咲く幼き日から、ずっと」
春宮の手を胸に引き寄せ、そう囁き微笑んだ彬子の顎を捉え、春宮は彬子の瞳を覗き込む。互いの瞳の中に、まるで煌めく星のように互いの姿が映っているのを見つめながら、二人はくちびるを重ねた。
───彦星よ、空の星。
わたしたちはもう、鵲かける橋を渡り、望むまま逢うことができる。
鵲よ、どうか夜ごと、おまえの翼をわたしたちに───
完
これにて完結です。最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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