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 ───彦星よ、空の星。

 おまえの鵲の橋をどうか、どうかわたくしにも貸しておくれ。

 どうか……。




 その瞬間、彬子あきらこの息が止まった。

 なぜなのだろう、すべての事柄がその一瞬でひとつに繋がったような気がしたのは。

 宮の御母君とは、先々帝の寵姫であられた御方。

 追われるように帝の許を去り、そのまま戻ることなく儚くなられたのだとか───


「……お父さま?」


 思わず呼びかけたその声が、滑稽なほど上ずり震えている。

 彬子の養親である右大臣は横に置いていた笏を手に取り、一度大きく頷いた。


「姫はまこと、聡いお方であられる。いや……姫と呼ぶのも今宵で最後ですね」


 右大臣は、無言のうちに問うた彬子に答えることなく、まるではぐらかすかのようにそう言った。

 姫、姫……と懐かしい耀君てるぎみの声が脳裏にこだまする。

 耀君に鵲の歌を教えたのは誰であった?

 なぜ、この優しい養父ちちは姫と呼ぶのだろう? 右大臣家の他の者は皆、一の姫と呼ぶのに。

 締めつけられるような、切ない痛みが彬子の心を疼かせる。


「……殿、まもなく刻限でございますれば」


 御簾の外から、女房の声がかかる。彬子はぎくりとそちらを見遣った。


「そうか。……では、そろそろ参りましょうか」

「お父さま、あの───」

「宮もお待ちですよ」


 ゆっくりと立ち上がった右大臣の動きを合図に、女房がひさしにかけられた御簾を巻き上げた。

 心得た二人の女房が彬子の傍へといざり寄ってきて深々と礼をすると、扇を翳すよう言い、それから両脇を抱えるようにして彬子を立たせる。もはや、何かを問えるような雰囲気ではない。


「……待って」


 彬子はそれでも、辛うじて小さな声で呟き、女房たちを制止した。

 呆気にとられる二人を置いて、後ろに置かれた二階棚にある小さなはこを開ける。

 諦めと決意とともに邸に置いていくつもりだった思い出のよすがを手に取り、握りしめた。


「ごめんなさい、もういいわ」


 扇を持つ手に三つの碁石を隠し、女房にその身を任せる。そのまま静かに対屋たいのやを出て車寄くるまよせまで歩みを進めると、そこには出衣いだしぎぬで美しく飾られた、堂々とした唐車からぐるま*が待っていた。

 あれよという間に車中の人となり、都中の貴族の家から集められた見目麗しい数十人の女房たちにかしずかれ、酉の刻*の頃、彬子は物々しく邸を出立したのだった。




 牛車くるまはゆるゆると大路を進む。

 これを機に権力の均衡が破られることを察知した数多あまたの殿上人が列の後ろに連なっていると、同乗する右大臣の北の方が言うのを聞いて、分かっていたとはいえ、我が身にかかる期待の大きさに眩暈を起こしそうだ。

 いったい、どれほどの長さの行列にどれだけの者が付き従っているのであろう───御簾から透ける松明の灯りと馬が地を蹴る音、そして随身たちの足音を感じながら、彬子は目を瞑り、居心地悪く逸る心を必死で抑えた。


 ───何よりこれは、宮の御母君である女御の思いでもあったのです。


 ふと、先ほどの右大臣の言葉が不安に揺れる彬子の心によぎる。

 すとんとすべてが腑に落ちるような、そしてそれを全身で否定するような、そんな相反する感覚に彬子はぎゅっと目を瞑る。

 途端に、車の外から聞こえる雑多なざわめきは遠くなり、否応なしに記憶の中の幸せな日々へと引き戻されて、彬子は掌にある碁石を握りしめた。

 碁石を並べ、鵲の橋を作って遊んだ嵯峨での幼き日。耀てるはなぜ、決してその身分を明かそうとはしなかったのか。


 ───彦星よ、空の星。

 どうかわたくしにも、おまえの鵲の橋を貸しておくれ。

 鵲よ、わたくしを主上おかみの御許に。

 この愛おしい皇子みこを、どうか今一度内裏うちに……。


 思わず、その手で口を覆う。

 そんな、まさか。まさか、あり得ない。

 なのに、なぜにこうまでぴたりと符合するのだろう?

 落ち着かねば、必死にそう念じて揺れる車の中で視線を泳がせ、喉元に詰まった息を吐き出すと、北の方が心配そうな視線をちらと彬子に向けた。

 小さく頷き大丈夫と微笑んで、ずっとその掌に握りしめたままだった碁石を懐紙に包んで胸元に忍ばせる。

 耀と『鵲』と、そして春宮。

 もしも、この三人に繋がりがあるならば?

 考えたとて答えは出ぬところで彬子の思考は巡っては元に戻り、そうこうしているうちにやがて、ぎぎと軋んで止まった車の外から彬子の到着を告げる声がした。次いで、それを受けた蔵人により、輦車てぐるまの宣旨*が下される。

 まわりが俄かにざわめき、あちこちへ人が移動する音、牛飼い童が外した牛を連れて追い立てる声、しじが置かれる音などがひとしきり続いたのち、あたりはしんと静かになった。

 彬子は、大きくひとつ息をついた。

 落ち着かねば。何が真実であろうと、春宮がどのようなひとであろうと、彬子にはもう他の道はない。ただ、受け入れるのみだ。

 言われたとおり扇を開いて顔の前に差し翳す。と同時に御簾が上げられた。松明が赤々と燃え、随身たちが地にひざまずき頭を下げるその前で、女房に手を取られて一人、輦車に移る。これこそが、これまでの彬子との決別の時となった。




 玄輝門げんきもんに停められた輦車から、また女房に抱えられるようにして降り立った彬子は、殿舎でんしゃのうちに入った。

 やがて現れた麗景殿れいけいでんは、春宮が住まう梨壺と呼ばれる昭陽舎からもほど近い。このように格式の高い殿舎を与えられたことにも、右大臣の並々ならぬ力の入れようをひしひしと感じる。初めて目にする内裏の壮麗さに圧倒され、ふと考えた。生まれ育った嵯峨の粗末ないおりからは、なんと遠くなってしまったことだろう、と。

 誰も言葉を発することのない厳かな静けさの中、衣擦れの音だけがざわりざわりと朔の闇を満たす。

 扇で顔を隠し女房に左右から支えられて、燭のあとを引きずられるように歩いていくのは、もはや己の足で歩くことさえも許されぬかのような、妙な心地だ。

 殿舎のうちに入ると、そこにはすでに座所が設えられており、彬子は女房に付き添われたままそこに座らされた。待ち構えていた女房が心得たように御簾を下ろし、その向こう側では、多くの女房の衣擦れの音がざわざわと重なり合う。

 そっと殿舎のうちを見まわしてみたものの、ここがこれからを暮らす場所という実感は湧かなかった。

 いよいよ内裏うちに入ってしまったこと、先ほどの歌に託された養親一族の思い、そして、そこに見え隠れするひとの面影───そこに思い至って、彬子はまた人知れず首を振り、雑念を追い払う。ちらと視線の端に葛葉くずはの姿が見えて、それは彬子にとって小さな救いだった。

 これほどまで張り詰めた気の中に身を置いたことは未だかつてない。彬子の緊張は、疲れもあって限界まできていた。

 半刻ほど経った頃だろうか、春宮の使者を務める内侍代ないしだい*が麗景殿にやって来て、よく通る声で、春宮がお召しであることを詠うように言った。

 胸の鼓動が大きく弾み、この期に及んでと苦い笑いが浮かんだ。すぐにまた傍に寄ってきた女房たちに半ば諦めの境地で腕を預け、再び暗闇の中を春宮殿である梨壺へと向かう。時はすでに、亥の刻*も間近だった。

 ざわりざわりとひしめく衣擦れだけが、闇から押し寄せるように彬子を取り囲む。もう、どこをどうやって歩いたのかすら覚えていない。

 梨壺に着くと、一人の女房が手に脂燭を持って現れ、御簾のうちに入っていった。彬子の道中を照らした火と内裏の火をひとつにしたものを御帳台の前で三日三晩灯し続けるのだと、教えられていたものだろう。

 儀式はすべて聞かされていたとおりに、言葉もなく、粛々と運んでいく。

 薄暗い殿舎の中、御簾の向こうに小さな灯だけが揺れている。なにやら空恐ろしい心地だった。

 すぐにまた、女房に腕を取られてひさしからうちに入るよう促され、言われるがまま掲げられた御簾をくぐった。そこに、鮮やかな黄丹おうに*の袍を身につけた人の気配を覚えて思わず息をつめた彬子は、扇の陰で目を伏せる。

 覚悟は決めた、何を恐れることがあろう。そうは思っていても、身のうちから湧き起こる震えを止めることができない。

 彬子を座らせた女房たちが後ろに控え、一斉に衣擦れの音が止んだ。急に心許なくなった彬子が震える手で扇を差し翳しこうべを垂れると、きっと春宮その人なのだろう、前にいる人物が少しだけ身じろぎする気配を感じた。

 しばらく、何の言葉もないまま時が過ぎる。じじ、と先ほどの火が揺れた。

 音が聞こえはせぬかと心配になるほど、心の臓が弾む。このまま沈黙が続くなら意識が飛んでしまうかもしれないと彬子が本気で思ったその時、ようやく静かな声がした。


「よう、参られた。姫」


 翳した扇の陰で、彬子の身体が打たれたように震え、微かな吐息に似た声が洩れた。

 その声を知っている。

 けれど、それは彬子が知る限り『かささぎ』と呼ばれたひとのもの。ここで聞くような声ではないはずだ。

 身動きひとつできない彬子が手にしていた扇を、そのひとはからかうかのようなゆっくりとした仕草で取り上げる。顔を露わにされても、うつむいたまま視線を上げることができなかったのは、一目見てしまえば、すべてが夢と崩れてしまうのでは、と怖かったからだ。


「……お顔を上げてはいただけませんか?」


 記憶にあると同じように、少し笑いを含ませた声で目の前のひとはそう言うと、そっと彬子の手を取る。

 そのぬくもりに、彬子のくちびるからもう一度、あえかな息が零れ落ちた。

 その手を、その指を知っている。もう幾度も彬子の頬に触れ、傷を撫でたその指───

 不意に涙が溢れ出た。いつからこんなに涙脆くなってしまったのか。

 だけど、どうして予想できただろう? あれほど待ち続けた『鵲』が春宮だなどと。


「姫?」


 また、促すように尋ねる声がした。

 戸惑う彬子の手を取るその指に、優しく力が籠められる。

 その指にいざなわれるようにゆっくりと視線を上げると、涙に霞むその向こう、見覚えある瞳がじっと彬子を見つめていた。


「……鵲」


 吐息のようにそう呟くと、そのひとは静かに微笑んで彬子の頬に触れ、指で涙を拭う。あの夜のように。


「ようやく、逢えましたね。逢いたかった」


 女房たちの耳目も気にせず、そのひとは彬子の耳許に口を寄せて囁くと、頬にある手をするりと首筋に落とした。

 彬子ははっと息を呑み……このような場で、と涙を浮かべた瞳で困ったように笑った。その笑みに誘われて和やかに細められた春宮の瞳を見つめ、彬子も首筋にある手にそっと触れた。あの夜のように。




 対面の時が終わると、すぐにまた女房が傍にやって来て、御帳台のうちに入るよう春宮に伝えた。

 名残惜しげに御帳台のうちに春宮が消えてしばらくすると、彬子も御帳台に入るよう促される。そこにはすでに小袖姿の春宮がしとねに横になっていて、彬子もまたお仕着せのような裳唐衣もからぎぬを脱がされ、同じ褥に入るよう指図された。恥ずかしさにどうにかなってしまいそうで、彬子は早く終わればいいと心に念じながら、ひたすらうつむいてその時をやり過ごす。

 二人で横臥した褥に右大臣の北の方がふすまをかける衾覆ふすまおおいが済むと、ようやく入内初日の儀式はすべて終わった。

 外には、女房たちが耳をそばだて控えているのだろう。しんとした静けさの中、彬子はどうすればいいのか分からず、半ば春宮に背を向けるように身を固くして横になっていた。

 今、確かに背にあるぬくもりは、いったい誰のものだと思えばいいのか。鵲? それとも……。

 すべてはあまりに唐突で非現実的で、今すぐ逃げ出したいような衝動に駆られて余計に身を縮こませる。

 その時、姫、と呼ぶ声がして、彬子はまたびくりと身体を揺らした。


「もう、やすまれましたか?」


 いいえ、と首を微かに振ると、背後で春宮が身を起こす気配がした。


「……少し、話をしませんか?」


 そう言われて彬子も背を向けたまま起き上がったものの、顔を上げることができずにいると、また小さく笑う声が聞こえた。


「そんなに緊張なさらずとも」


 そうして顔を覗き込まれ、彬子はまるで不思議なものでも見るような視線を春宮に向ける。


「いったい、貴方さまは……」


 訝しげに言葉を詰まらせた彬子に、春宮はうん? と首を傾げた。寛いだ様子で褥の上に座り、優しく諭すように言う。


「わたしは、春宮ですよ。まだ慣れぬけれどね。そして貴女は、わたしの妃となられた……姫」


 彬子は眉を寄せて視線を落とし、それは聞きたかった答えではない、と小さくくちびるを噛んだ。それから、意を決したように顔を上げ、尋ねる。


「貴方さまは……本当に鵲?」


 彬子は問うてから思った、何を愚かなことを。それに、本当に尋ねたいことはほかにある。


「……かつて、そう呼ばれていたこともあったようですね」


 春宮は淡々といつかのようにそう答えると、小さく笑い、まるで彬子の心を読んだかのように問い返した。


「ほかにお聞きになりたいことが、おありなのでしょう?」


 彬子はその顔をじっと見つめた。

 いい言葉も見つからず、何ごとかを言いかけてはやめてを繰り返し、やがて、これまで幾度も尋ね、幾度もはぐらかされてきた問いを素直に言葉に載せた。


「春宮さまは……耀君、ではないのですか?」


 なんとか勇気を出して尋ねたというのに、春宮は変わらぬ深いまなざしを彬子に向けるばかり、その瞳にはなんの動揺も映されぬままだった。

 己はもしや、まったく見当違いな願望に過ぎぬものを、かようにもあてなるお方にぶつけてしまったのではないか───長く続く沈黙に、居心地の悪い不安が彬子を襲う。

 その時、笑みを収めた春宮の指がふいに彬子の傷痕に伸ばされて、彬子はぎくりと肩を揺らした。


「この傷は、まだ痛む?」


 また素知らぬふりをされるのか、と少しばかり落胆し、瞳を伏せて答える。


「……いえ、もう痛くはございませぬ。古い、古い傷でございますから」

「薬は効きましたか?」


 しん、と一瞬の沈黙が落ち、それから彬子ははっと視線を上げた。葛葉くずはが養父である右大臣に頼んだという、傷痕のための膏薬。


「あれは、春宮さまが?」


 それには返事をせず、春宮は少し悲しげな顔をして、傷痕に沿って、つ、と指を滑らせた。ぞくとした感覚が彬子を攫う。


「わたしにできることならば、どんなことでもいたします。この姫の傷は、わたしが一生背負うべきものだから」


 静まり返った御帳台の中、一言ひと言噛みしめるように紡がれたその答えの大きな大きな衝撃が、彬子を貫いた。


「……それは……」


 喉の奥で何かが詰まったようになって、それ以上言うこともできぬまま目を見開き、喘ぐような息を落とす。

 くちびるがわなないて、膝の上の手が抑えようもなく震えた。

 春宮もまた言葉を探しているのか黙り込み、二人は深い静けさに覆われる。彬子は、血がのぼったようにくらりと頭が揺れた気がした。もう、何を言えばいいのか分からない。

 とばりの向こうの火影が揺れる。

 それをちらりと見遣った春宮は、立てた膝に腕を置き、その身を彬子の方に向けた。そうして何も言わず、膝の上に置かれた彬子の震える手に己の手を重ねると、そのまま強く握りしめた。


「あのことを思い出さぬ日は、一日もありませんでした。謝って済むことではないが、ずっと探していた。ずっと、姫のことを」


 ああ、と声にならぬ声をあげ、こみ上がる涙を堪えて彬子は問うた。


「……耀、君?」


 春宮はただ黙って、何度も頷く。


「本当に……?」

「ええ」

「耀君?」

「そうです」

「……嵯峨の?」

「ええ」


 春宮は、幾度も幾度も繰り返される彬子の言葉にそのたび頷き、それからそっと、混乱に視線を揺らす彬子の腕を引いた。あの夜のように胸にふわりと抱きしめられて、彬子は初めて目が醒めたかのようにすべてを理解する。

『鵲』はやはり耀だったのだと。

 その耀が実は帝の皇子で、今、彬子の目の前にいる春宮であると。


「……ひどい……!」


 思わず腕を突っぱねて春宮の腕を振りほどき、彬子は瞳にいっぱいの涙をためて目の前の春宮を見た。


「ひどうございます、あれだけお聞きしたものを……! 貴方さまは知らぬふりばかりで、それでわたしは……わたしは」


 そこまで言うや、瞳にたまった涙がとどまることを知らぬかのように溢れ出て、彬子は両手で顔を覆い、嗚咽を零して泣いた。

 どれほど苦しんだか。

 胸の奥にしまい込んだはずの、耀に対するいとけない恋心をまざまざと見せつけられ、『鵲』の存在に惑わされて、それなのに他の男───春宮の許へと上がらねばならぬ、その運命さだめをどれほど恨んだことか。

 春宮はそんな彬子の姿に一度きつく目を瞑ると、抑えられぬように彬子を引き寄せて強く抱きしめる。


「済まなかったと思っている。守ると決めていたのに、姫にひどい怪我を負わせたまま姿を消した。不甲斐ないことばかりして、今もまた姫のことを……」


 春宮は、泣き咽ぶ彬子の頭を己の胸に押しつけ、これ以上はないほどにきつく、きつく抱いた。

 彬子はいいえ、いいえと首を振りながらも今度はその腕を振り払うことなく、ただ、もういつからかも分からぬほどに押さえつけ、律してきた心を解き放ち、あたたかな胸に涙を落とした。

 謝って欲しいなどと思ったことはない。ただ、傍にいてくれればそれでよかったのに。

 気づけば、春宮の手がまるで赤子をあやすかのように彬子の背を撫でていた。

 こんな風に、人のぬくもりに包まれたのはいつ以来だろうか。

 頬に触れるやわらかな衣越しのあたたかさが、春宮の確かな鼓動が、彬子に穏やかな気持ちをもたらした。


「……なぜ、あの時に教えてくださらなかったのですか?」


 口から出てきたのはだけど、まるで恨みごとのような言葉。あれだけ苦しんだのだ、少しくらいは許されるだろう。

 春宮は、長い吐息をついてから言った。


「……約束があったのですよ。伯父上とのね」

「お父さまとの約束?」

「ええ、決して身分は明かさぬ、という」


 なぜ? というのは愚問だろう。

 夜闇に紛れて姫君たちの許に忍び込む、そんな不届き者があろうことか春宮とも目された者であると知られれば、養親一族の宿願は一瞬で断たれてしまったであろうから。

 そこまで考えて、彬子ははたと気づいて身を起こした。


「お父さまも、ご存じでいらしたのですか? その……春宮さまが鵲であることを」

「ええ。貴女とわたしが幼い頃ともに過ごしたことがあることも、伯父上は知っておられます」


 彬子はもう、何が何だか分からなくなってきた。


「いつ、から?」

「姫を養女にする、と決まった時から」


 だから、右大臣は彬子のことを耀のように姫、と呼んだのだ。


「姫のまことのお父上である一の大納言は、この養女と入内の話を申し出た時、なんとしても二の姫をと仰ってこられました。伯父上もそれを受けるおつもりだった。しかしわたしはもう、姫を見つけていましたから……一の姫でなければこの話はなかったことに、と」


 そう言って春宮は、悪戯っぽく小さく笑った。

 そうであったのだ。入内の話を伝えてきた時に二の姫では駄目だと苦々しげに言った父の言葉。

 あれは、大切な二の姫を手放すことができぬから代わりに彬子を出す、という意味ではなく、二の姫でなく彬子の入内を春宮が望んでいるという、父にとってみれば納得しがたい事実ゆえだったのだ。そのことを父が彬子に伝えなかったのは、長年の望みでもあった掌中の珠である二の姫の入内を成し得なかった、負け惜しみのようなもの───そう考えれば、北の方の怒りようにも、より納得がいく。哀しさはないが、実の父に対する思いはまたひとつ、遠くなった気がした。

 ふと、二の姫はどうしているのだろうと考えた。あの幼く天真爛漫な、『鵲』に恋をした姫君は。


「その代わりと言ってはいけないのかもしれませんが、じき、一の大納言家の婿も決まるはずです。あの可愛らしい姫君を大切にしてくれる婿が」


 そう言うと春宮はごくごく自然に、彬子をその腕に閉じ込めたままごろりと横になった。

 驚いて息を呑んだ彬子をよそに、疲れましたね、などと呟く。

 本当にこのひとは、あの不器用で無口な耀君なのだろうか? 思わずそう考えてしまうくらいのもの慣れた態度に、彬子は僅かに眉を寄せて身をよじった。

 その拍子に、胸元に隠した懐紙の包みが褥の上に小さな音を立てて落ちる。

 あ、と彬子が声をあげるのと、春宮がそちらに目を向けるのは同時だった。


「これは?」


 包みを摘まみ上げた春宮の指から、身を起こした彬子がそれを掌に受け取る。


「これは……わたしの思い出の」


 懐紙を開くと、微かな音を立てて三つの碁石が揺れた。

 彬子の掌の中の石をしばらくじっと見つめていた春宮は、その中の美しく澄んだ瑠璃の石を取り、帷の外の灯に透かし見る。


「……これは、わたしの父帝と母君のものでした」

「え?」

「だから、わたしも同じものを持っている。今でもね」


 それは母のものだったのです、と『鵲』が言ったことを思い出し、あ、と声を零した彬子の腕を、春宮は来て、と囁いてそっと引いた。

 胸の上に倒れこむようなかたちになって、彬子は思わず頬を染める。そうだ、このお方は『鵲』なのだ。都の女たちの心を奪った───

 だけど、春宮はそのようなことなど意にも介さぬ様子で、片方の腕で彬子をぎゅっと抱きしめた。


「覚えておいでか、碁石で鵲の橋を作ったこと」


 その胸に響く声を聞きながら、彬子は観念したように身体の強ばりを解いてその胸に身を任せ、幼い日を思い出す。


「どうして忘れることができましょう? ご一緒に、ひいな遊びをしてくださった」

「あの日、わたしは決めたのですよ。姫を守る、と」


 そう言うと、春宮は静かに彬子の髪にくちびるを寄せた。

 弾む鼓動を感じながら彬子は、ああ、だから、と思った。今度こそ貴女を守ると、最後に会ったあの夜、『鵲』は言っていた。

 そういうことだったのだ。すべてはこの春宮の……『鵲』の、そして耀の掌のうちにあったこと。

 そうだとすれば、なぜせめて耀であることを明かしてはくれなかったか。

 そのことを問えば、春宮の手が彬子の髪をかき分け、髪に触れていたくちびるでそっと、彬子のこめかみに触れた。


「それは───」


 彬子の耳許で囁かれた声に思わず震える息をつき、彬子はその頬を春宮の胸に押しつける。春宮もまた、愛おしくてたまらぬとでもいうように、華奢な彬子の身体をかき抱いた。

そうしてしばらく、二人の身体の重みとぬくもりに揺蕩たゆたったのち、春宮は静かに言った。


「今こそ、何でもお話しいたしますよ。姫が望む限り」

唐車

檳榔(びろう)の葉で葺かれた唐破風(からはふ)造りの屋根のある、最も大型で華美な様式の牛車。貴人が晴れのときに用いました。唐庇(からびさし)の車とも呼ばれます。


酉の刻

午後6時頃の前後2時間。


輦車の宣旨

大内裏の門から中は牛車や馬を降り、徒歩が原則でしたが、この宣旨が下された貴人(春宮、親王、女御、高位の官人、大僧正など)は、人力で牽く車(輦車)で内裏の門まで行くことが許されました。


亥の刻

午後10時頃の前後2時間。


内侍代

内侍というのは、天皇の側に侍して奏上や宣下の仲立ちなどをする、いわば女性秘書のような役職のこと。春宮坊には内侍は置かれませんでしたが、代わりに内侍代がその任を果たし、春宮が即位した暁には、そのまま内侍に就任することが多かったようです。


黄丹

梔子くちなしの黄と紅花の紅で染めた禁色。

鮮やかな赤みがかった黄色は朝陽の色とされ、陽の昇る東、つまり春宮(東宮)のみに許される色目となりました。



───次回、最終話です。9月2日夜8時に投稿予定です。

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