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 首筋に触れる微かな指先が、じっと見つめる深い瞳が、縋るような笑みを浮かべる彬子あきらこを受け止めていた。

 だが、微笑みを返すこともせず黙って見つめるばかりの『かささぎ』の瞳に、彬子の胸のうちには不安と戸惑いが湧き起こり、やがてその口許から笑みが消える。

 ようやく男が静かに口を開いたのは、見つめ合ってどれほどの時が経ってからだろうか。


「……てる、というのは、鄙にいた子のこと?」


 その言葉に、自ら男の手に添えていた彬子の指先から、ふっと力が抜けた。行き場をなくした手がぱたりとしとねに落ちる。どこまでも身の上を明かすつもりはないのだと知って、彬子は力ない瞳を男に向けた。


「……どうしてまた、わたしのところに来たの?」


 それを聞いた男は少し困ったように笑う。


「どうして、と言われても……わたしも、貴女に逢いたかったから。それだけではいけない?」

「嘘。貴方があの乞巧奠きこうでんの日、鵲としてわたしに会ったのなら、二度とここに来るはずはないもの」


 鵲の橋にかけて、二度はないと伝えた自身の言葉を裏切ってまで、今また彬子の前に姿を現したのは───それは、この男が耀だから。そうに違いないのに。


「貴方は耀君よ。だから、わたしの傷のことを知ってるし、気にもしてる」


 いくら彬子が言っても、男はかたく口を閉じ、ただ黙って聞いていた。相変わらず、その穏やかな視線をじっと彬子に当てたまま。


「……あの瑠璃のことだって」


 どれほど言い募っても、男の表情からいかなる真実も読み取ることはできず、彬子はそれきり言葉を呑み込んだ。あの、母の呪い、という話を口にすることはさすがに憚られた。責めるような口ぶりになってしまうのも嫌だった。いずれにせよ、きっと何を問うてももう、無駄なのだ。

 彬子が口を噤んだのを見て、男は一度ゆっくりと瞬きをし、それから、その口許に静かな笑みを浮かべた。


「貴女は、わたしがその、てる、という者だと思ったから、だからもう一度会いたいと思ってくださったのですか?」


 その言葉に彬子は微かに肩を揺らし、それからまた、息遣いをも感じてしまうほど近くにいる男の方にそっと視線を向ける。

 すぐに、薄闇でもはっきりと分かる男の深い瞳に絡め取られた。

 まっすぐに心を暴き出されてしまうかのような、なのにどこか寂しげな、そんな瞳。


「……分からないわ」


 その瞳に囚われたまま、彬子は呟く。

 それが偽らざる答えだ。

『鵲』に惹かれているのはこの男が耀だからなのか、彬子自身にももう分からなかった。

 男はいったい、どんな答えを望んでいたのだろう。彬子の答えを聞いてまた小さく笑うと、ゆっくりと彬子の傍に腰を下ろし、顔を覗き込むようにしてまた尋ねた。


「では、尋ね方を変えましょう。貴女が今、そんなにも悲しいのはなぜ? 鄙の暮らしが懐かしいから? それともその、てる、という者に会えぬから?」


 言いながら男は不意に、まだ頬に残る彬子の涙をその指でそっと拭った。

 彬子は思わずびくりと震え、それから羞恥に思わず視線を逸らす。


「答えて……どちら?」


 男は彬子の頬に優しく触れたまま、それでも答えを求めてまた問うた。


「……どちらも。でも、もしもう一度、耀君に会えるのなら……」


 そうしたらきっと、都での暮らしも違っただろう。たとえ、嵯峨には帰れなくとも。

 だから彬子は願い、信じたのだ。『鵲』が耀ならば、と。

 それまでずっと彬子を見ていた男は、その時初めてほんの少し視線を落とし、そう、と呟くと、深い深い吐息を零した。

 己の答えは男を落胆させたのだろうか、思わずそんなことを考えて、彬子はいたたまれなさに顔を背ける。

 その時、頬にあった男の手が、まるでそうすることが当然とでもいうようにゆっくりと首筋に下り、指先で彬子の傷痕を辿った。くすぐったいだけではない感覚に攫われそうになり、は、と思わず息をついた刹那、男の手は彬子の首の後ろにまわって、そうしてそのまま、男の胸にふわりと抱き寄せられた。

 あまりのことに、彬子は瞳を見開き息を呑む。

 その瞬間、抗うこともできずに身体を強ばらせた彬子を、男はその腕にしっかと抱きとめ、耳許に囁いた。


「ねえ、姫。世はままならぬことばかりだ、そうは思いませんか? わたしはこれまでの人生で、思いどおりになったことなど一度もなかった。貴女もきっと、そうなのでしょう」


 そこまで言うと、男は彬子を抱く腕に力を籠めた。


「それでもわたしは、ささやかな望みを抱いたのですよ……鵲の橋を渡り、貴女に逢えたことで」


 やわらかなきぬが頬に触れ、男のぬくもりが彬子を抱きしめる。

 その奥から伝わる男の確かな鼓動に、彬子は何も言えず、ただ喘ぐような息をつくばかり。

 なぜ、今すぐにでも男を突き飛ばし、無礼なと言わぬのか───分かっている、彬子自身がこのぬくもりを心地よいと感じているからだ。

 男の腕の力がいよいよ強くなり、うつつとを分かつ濡羽色の袖に包まれて、彬子は気も遠くなりそうな意識の中で再び男の声を聞いた。


「また……わたしと逢うていただけますか?」


 生まれて初めて、息苦しいほどの抱擁を受けて我を失いそうだった彬子は、その言葉に一瞬で現実に引き戻された。

 つんとした目の奥の痛みを必死にこらえて、指に触れる男の衣を握りしめる。

 もしもできることならば言いたかった。ならばいっそこのまま連れて逃げて、と。二条后にじょうのきさき*のように、たとえ鬼に喰われてしまうのだとしても。

 彬子はだけど、心のうちとは裏腹な言葉を震える声で紡ぐ。


「……無理よ。わたしはもうすぐ、ここからいなくなる」

「知っています」


 すぐにそう返されて、彬子は男の腕の中で小さく首を振った。


「何を知っていると言うの? もう、逢うことなど叶わぬところに行くというのに」

「知っています」


 泰然としたその答えに、彬子は男の胸を押し返し、その腕の中から抜け出した。

 男を見返す彬子の瞳に、今こそ涙が滲む。


「……なぜ」


 ぽろりと涙が零れ落ちた。


「なぜ、もっと早くに逢いに来てくださらなかったの? ずっと待っていたのに……ずっと」


 もう、手遅れだ。

 なのに、この期に及んで言うのだ、また逢いたいと。

 なんて残酷なのだろう。

 こんなにも優しい瞳で、初めて遭遇したあの日の刺々しさとはまったく違う優しさで、なんと残酷な言葉を───この『鵲』は。

 はらはらと涙が零れるに任せ、彬子は男を見つめてきゅっとくちびるを噛みしめた。


「帰って」


 男の視線を受け止めることが苦しくて背けた彬子の頬に、男はもう一度そのあたたかな掌を添え、どこまでも優しく彬子の涙をその指で拭う。


「今度こそ……わたしが貴女を守りますから」


 微笑む瞳が、視線を震わせる彬子を追いかけ、捉える。訳が分からぬと彬子は、何度も何度もかぶりを振った。

 その彬子の頬からあたたかな手が離れ、男は音もたてずに立ち上がる。

 帰ってと言いながらも、男の衣がするりとすり抜けていく余韻を思わずその手で追いかけ、彬子は問うた。


「今度……? それはいつ? また、幾とせも待たねばならないの?」


 だけど、そこにもう、男の影はなかった。



     ***



『鵲』の密やかな訪れから三日後、ついに帥宮そちのみやが春宮に立たれたと聞かされた。

 そしてその十日ののち、正式に彬子入内の宣旨せんじ*が下された。皮肉にもそれは、文月のついたちと決まり、右大臣邸は俄かに忙しさを増した。

 贅と粋を凝らした様々な調度、恐ろしく質のよい衣の数々、そのようなものが日を追うにつれて彬子の住まう対屋たいのやに増えていく。

 葛葉など、あまりの晴れがましさに浮き足立っているのが手に取るように分かる。

 主人には誰よりも素晴らしい殿方をと念じ、その願いが叶った今、続けてきた彬子の調髪にも余念がない。そして、あの薬を傷痕にすり込むことも。

『鵲』はあれきり、次の朔にも現れなかった。

 そしてもうじきやって来る今度の朔に、彬子はここを離れる。

 きっと、こうなることは分かっていた。なのに、守られるはずのない『鵲』の言葉を愚かにも信じ、まだどこかで期待し待ってしまう、未練がましい己が嫌だった。

 彬子は葛葉に為されるがまま、鏡に映る浮かない表情の自分を見つめる。


「……おかしなこと。こんなわたしが内裏うちに参るなど」


 思わずそうこぼせば、葛葉は困ったように首を傾げ、それから主人を励ますように微笑んだ。宣旨が下されて以来、彬子が塞ぎ込んでいるのを、葛葉とて気づかぬわけはないだろう。


咲耶さくやさま、よくお考えになられませ。大臣おとどの仰るとおりならば、これほどのえにしはそうそうございませぬ」

「どういうこと?」

「宮さまは、お優しくてご聡明で、少しばかり皮肉なところがある、と。まるで咲耶さまのことのようではございませぬか」

「……冗談はよして。わたしが皮肉なんて言う?」


 己の沈んだ態度で葛葉にまで気遣わせていることが心苦しく、わざと軽く言えば、葛葉は櫛を持つ手を休め、至極真面目な顔つきで鏡の中の彬子を覗き込んだ。


「いいえ、冗談ではございませぬ。為るべくしてこうなったのです。きっと、咲耶さまはお幸せになられます。葛葉はそう、信じております」


 そう言ってまっすぐ鏡の中の彬子を見つめ、それからまた豊かな髪をくしけずり始めた葛葉に、彬子はほんの些細なことで崩れ落ちてしまいそうな心を隠し、鏡越しに礼を伝えた。


「そうね。ありがとう」


 生ぬるい風が御簾を揺らしている。

 夏が終わる頃、彬子は春宮の許へ行く。

 鵲……耀君。秘めた想いとともに心のうちで呼んで、彬子はまたひとつ、覚悟を決める。



     ***



 暑さもずいぶんと和らいで、澄んだ空から吹く涼やかな風が気持ちいい。

 朝から湯を使って心身ともに隅々まで清められた彬子は、その後葛葉の手で念入りに髪を櫛梳られ、しなれぬ化粧まで施されて、鏡に映る姿がどんどん見慣れぬものとなっていくのを、どこか他人ごとのように見つめている。

 文月の朔、入内の日。

 彬子は諦めにも似た境地で、まわりを取り囲む女房たちに為されるがまま、もう何刻経っただろうか。

 陽も傾く頃になって、念入りに香を焚き染められたくれない薄様うすよう*の上に蘇芳すおうの唐衣を重ね、裳を結わえつけられた彬子の姿を見た女房たちは、一様に感嘆の声をあげた。

 口々に誉めそやす女房たちの言葉に、彬子は未だ実感の湧かぬ冷えびえとした心を包み隠して微笑み、礼を言う。

 あと半刻はんときほどで出立でございます、と葛葉が告げれば、一斉に人払いされた東の対に、養親の右大臣が現れた。

 縫腋袍ほうえきのほう姿で常と変わらぬにこやかな笑みを浮かべ、御簾の前に腰を下ろした右大臣は、感慨深げに息をついた。


「……いよいよですね。宮からの文*も参りました。姫もご準備は整いましたか? 女房たちがかまびすしく騒いでおりましたよ、比類なき美しさと」

「……」


 いつもよりも丁寧な口調でそう言われて、咄嗟に返事もできずうつむいた彬子に、右大臣は意外そうに笑う。


「おや? 緊張しておいでなのですか? 姫らしくもない」

「……わたしらしく?」


 ようようその一言だけ問い返せば、右大臣はこう続けた。


「ええ、いつだって姫は、堂々としていらしたではないですか」

「それは……」


 他人との関わりが希薄な暮らしの中で、人の思惑を気にせず生きてきたからだ。


「今まで触れぬようにしてきましたが、姫の生い立ちも、これまでいかにお暮らしだったかも、だいたいのところは存じておりました。この入内が、姫の意に染まぬものであることも」


 そう言って、右大臣はちらと思わせぶりな視線を投げた。


「しかし臆することなく、誇り高く物ごとを受け止める姫の態度は実に立派だった。この姫なら大丈夫、この姫だからこそ───会うてすぐに、わたしはそう思いましたよ」


 だから自信を持って内裏うちに参ればいい、右大臣はそう言って、その穏やかな瞳で彬子に頷いて見せる。

 違うのだ、己の悩み苦しみはそんなところにはない、と彬子は胸のうちでどこか泣きそうになりながら呟いた。

 この温和な養父は、よもや娘の心に他の男がいるとは思ってもいないだろう。そう考えれば、ひどい裏切りをしているような気持ちにもなって、余計にみじめだった。

 人払いされて二人きりの対屋たいのやに、沈黙が落ちる。

 居心地悪く座り直せば、着慣れぬ衣ががさりと尊大な音を立てた。


「では……ひとつ、はなむけになるようなお話をいたしましょうか」


 右大臣は、対屋に沁み入るような声でそう言うと、胸元に差し入れてあったしゃくを横に置いた。


「───彦星の ゆきあひを待つかささぎの わたる橋を 我にかさなむ」


 右大臣が呟くように詠んだその歌に、彬子は息を呑んだ。

 思いがけず聞いた懐かしい歌に、押し殺していた感情が命を吹き返し、胸の鼓動が俄かに早まる。


「姫はご存じか? この歌を……この歌の意味を」


 先ほどまでとは違い、少しくだけた物言いで尋ねる右大臣に、彬子はかすれる声で答えた。


「存じております。意味は……」


 そこまで言って、ふと首を傾げる。

 きっと、右大臣が問うているのは、彬子も知る表向きの意味のことではない。


「……いえ。ほかに意味があるのですか?」

「鵲の橋、というのはね、内裏うちにかかるきざはしのことでもある。今宵、姫が昇ることともなる……ね」


 そうであったか、と彬子の口から吐息のような声が零れた。

 いつか再び……そんな祈りにも似た養父一族の思いとともに、はっきりと理解する。

 彬子の実の父の一族である三条左大臣派の力ゆえに、まつりごとの中央から外されてしまった一族の無念を。

 己に課せられた使命が、どれほどの人々の思いを背負うているのかを。


「……そう、我が一族の長年の思いがこの歌に託されているのだよ。もちろん、文字通りの意味ではないがね」


 そうして、感慨深げに息をついた右大臣は、その思いの重みに視線を落とした彬子に言い聞かせるかの如く、こう続けた。


「そして、何よりこれは、宮の御母君である女御の思いでもあったのです」

二条后

『伊勢物語』第五段、第六段(芥川)に描かれる物語。

道ならぬ恋の果てに男は女を奪い出し、背負って芥川というところまで逃げますが、逃げ込んだ荒屋あばらやのうちで鬼に女を喰われてしまいます。実際は、二人の逃亡を知った姫の兄たちが奪い返したのでした。

男は言わずと知れた在原業平ありわらのなりひら、女は清和帝の女御・陽成帝の母である藤原高子ふじわらのたかいこ、のちに二条后と呼ばれる姫のことと言われています。


宣旨

律令期以降、天皇や朝廷の命を伝えた文書。


紅の薄様

紅〜薄紅〜白のグラデーションの襲。祝いごとの時に着る色目。

(紅匂いて三。白き二。白きひとへ。───『満佐須計装束抄』より)


婚姻の当日、消息使しょうそこづかいが男君の文を持って女君の許に届けます。贈書の儀といって、入内時も行われました。



───あ、あれ…(汗)

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