伍
少しだけ、血の描写があります。
あまりに辛くて、もうずっと思い出さぬようにしてきたこと。
今も耳に残る耀君の叫び声と、涙と、そして、流れて止まらぬ真っ赤な血。
お母さまやお祖母さまと永遠にお別れした日と同じくらい、苦しく悲しかったあの時の出来ごと。
***
「……じゃあ、耀若君も登っておいでよ」
まだまだ小さく青い実しか成っていない柿の木のてっぺんから、乙丸と幾人かの童が耀に声をかける。
下から見上げる耀は、少し困った様子でくちびるを噛んだ。
「耀君は、木登りなんかしないのよ」
彬子が庇うように言えば、間髪を容れず、やーいと馬鹿にした声が返ってくる。
「だって、咲耶さまだって登れるじゃないか。なのに、若君は登れないんだ?」
「耀君は鄙育ちじゃないもの」
「じゃあ、どこで育ったんだよ?」
そう聞かれて、彬子はぐっと言葉に詰まった。相変わらず、耀がどこの誰かすら知らなかったからだ。
「み……都よ。そうでしょう? だって耀君は───」
「登るよ」
握った拳に力を込めて、耀は木のてっぺんを見上げながら言った。
「わたしだって、木登りくらいできる。……何もできないわけじゃない」
まるで独り言のようにそう呟いて、耀は背丈ほどのところにある枝に手をかけた。
「耀君、ね、無茶しないで。乙丸の言うことなんか、放っておけばいいのよ」
はらはらと見守る葛葉の前で、彬子は耀の水干の袖を引いて必死に止めた。
「できるよ。わたしは……」
耀は何かを言いかけ、だけどそのまま口を噤んでぐっと手に力をかける。
ひと枝ごとにゆっくりと時間をかけ、次の枝を探し、耀は一段また一段と高みに登っていく。いつの間にか、てっぺんの乙丸たちも口を閉ざし、固唾を呑んで耀を見守っていた。
「咲耶さま……誰か、呼んできましょうか?」
おろおろとした葛葉の声を聞きながら、彬子は胸の前で手を握りしめて耀を見上げた。
耀が上を望むたび、頬の横のみづらに結った髪が揺れていた。白い素足が、必死に枝を踏みしめている。
その時の耀は、目に見えない何かと戦っているように見えた。
それが何だか、彬子には分からなかったけれど、とにかくその何かに打ち勝って欲しかった。そうすれば、もっともっと耀の笑顔を見られる気がしたから。彬子は、耀が時折見せてくれる笑顔が好きだった。
無口で穏やかな、優しい耀のことが大好きだった。
祈るような気持ちで耀の姿を目で追っていたその時、どこか遠くから微かな声が聞こえた。それは途切れ途切れに、若君、と言っているように彬子には聞こえた。
木の上の耀にも、その声は聞こえたらしい。耀がはっとそちらを見遣ったのを、彬子は見た。それと同時に、耀の右足がするりと滑ったのも。
あ、と思う間もなかった。咄嗟に掴んだ小枝が虚しく折れて、耀は彬子の上に落ちてきた。
長閑な鄙の風景を引き裂くような葛葉の悲鳴と地の草をなぎ倒す音、そして確かな重みとともに、彬子は耀を受け止めた。倒れ込んだ草の上で彬子はその瞬間、打ちつけた己の身体の痛みより耀の無事を案じた。
「耀、君……!?」
彬子にのしかかるように伏せていた耀は、その声にびくりと震え、眉を寄せて一度呻いた。
それから、身を起こそうと手に力を入れて、握りしめていた小枝に気づく。そして見た。ささくれ立って折れた小枝の先が、彬子の耳の下から首筋にかけて、無残に切り裂いているのを。
「……!」
耀は声にならぬ叫びをあげ、飛び上がらんばかりの勢いでその身を起こした。
彬子は全身を打ちつけた衝撃のあまり、傷の痛みにすら気づいていなかった。ただ、耀が起き上がれるくらいには無事だったことが素直に嬉しかった。だから、どうして耀がそんなにくちびるを戦慄かせて自分を見ているのかと、微かに笑みすら浮かべてじっと耀を見返した。
その間にも、彬子の傷口からは容赦なく血が溢れ出る。
「あ、あ……」
耀が震える声で彬子の首筋に手を伸ばしたその時、確かに先ほど聞こえた呼び声がごく間近に聞こえた。
「わ、若君! 若君さま! ご無事でございますか……?」
恐らくは、耀が身を寄せる寺の下人か何かだろう、質素な身なりの男が脇目も振らず、ただひたすらに耀の身だけを案じて駆け寄り、助け起こした。
「お怪我は? お怪我はございませぬか? 若君!?」
耀はそれには答えず、ただ彬子の首筋を凝視していた。怪我の場所が悪かったせいか、血は彬子の鈍色の衵を真っ赤に染め、それでも飽き足らずまだまだ流れ続けている。
迎えに来た下人はだけど、そんなことには気づいてもいなかった。ただ、若君の無事を確認すると、すぐさま耀の手を引っ張って立ち上がらせ、その衣についた草を払いながら顔を覗き込むようにして言った。
「御母君さまが……。早うお戻りを、御母君さまが……!」
耀は下人の言葉など聞こえてはおらぬかのように視線を逸らし、彬子を見つめながら首を幾度も横に振って声を震わせる。その瞳から涙を零しながら。
「……姫……なんとかせねば……わたしのせいだ……!」
「若君、一刻も早うお戻りをと───」
「駄目だ!……誰か、誰か姫を……」
掠れた声で嘆願する耀の言葉にも、木から落ちたことに動揺してまともにものも考えられぬのだ、とでも思ったのだろうか、その下人は一切耳を貸さず、彬子へと手を伸ばす耀を抱え上げるようにして駆け出した。
葛葉は言葉もなく腰を抜かしたように座り込んでいた。彬子も今初めて痛みに気づき、己の首筋に触れて、そのぬるりとした感触と赤く染まった指先に嗚咽のような声を洩らす。
「痛……」
木の中ほどの高さから彬子のすぐ横に飛び降りた乙丸が、彬子の庵へと転がるように走っていく。
「姫……姫っ……!」
泣き叫びながら彬子を呼ぶ耀の声は、乙丸とは逆の方向にどんどん遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
「……耀君」
その場に残された彬子は一言、耀の名を呼ぶや、気を失い、その次に気がついた時には、庵ですでに処置も受けたあとだった。
幸い一番の急所を外れていた傷は決して楽観できるものではなかったけれど、鄙には鄙のやり方があって、薬草などの知識に長けた者がこの時ばかりは彬子の治療に当たった。半月が過ぎた頃にはようやく傷も塞がり、起き上がれるようにもなった。
それからずっと、彬子は遊びにも出ず、庵の縁に座って耀を待った。
毎日、草花や果物を手にした子どもたちが入れ替わり立ち替わり彬子の様子を見に来るのに、ただ一人、耀だけが来ない。
葛葉が、おまえのせいよ! と耀を煽って囃し立てた乙丸を責めても、きっとお母さまに何か良くないことがあったのでしょうと聞かされても、彬子はただ黙って耀のことだけを待ち続けた。
やがて祖母も世を去り、彬子は嵯峨で独りぼっちになった。やはり、耀は彬子のところには来なかった。
日々の暮らしは厳しく、乳母の讃岐はついにまだ見ぬ父へと文を送った。
ただ一度だけ、耀が身を寄せていた寺を葛葉と訪れたことがあったけれど、年老いた僧都は耀がいるともおらぬとも明かしてはくれなかった。
そうして耀が姿を消して数ヶ月後、最後の最後まで耀を待ち続けた彬子もまた、嵯峨を後にした。
傷の痛みはいつか消えた。でも、心の痛みはいつまで経っても消えてはくれなかった。
***
右大臣邸、未だ住み慣れぬ養親の邸の開け放たれた半蔀から見える空が、黄昏の余韻を残して深い青に沈む。
まだまだ肌寒い春の宵、火の入れられた釣灯籠がぼんやりとした光を放っていた。
月のない夜───今宵はまた、朔。
初めて二の姫の対屋で『鵲』に遭遇してから、もう幾度めの朔だろう。
彬子は、東の対の御簾越しにそっと空を見上げ、それから首筋の傷痕に触れる。
乞巧奠の夜に彬子を訪ねてきたきり、ふっつりと聞かなくなった『鵲』の噂に、未練がましく朔を数えることをやめて、もう幾月か。
いつの頃からか彬子の中で『鵲』は耀となり、耀は『鵲』となった。それが真実か否かはもう、彬子にとって些細なこと。
いずれにせよ、その男はもう二度とは逢えぬ相手であり、そして、彬子はまだ見ぬ宮の許にいく。
「……耀君」
耀に会いたい。もう一度だけでもいい。
そして、これはもう決して叶わぬ恋なのだと思い知らせて欲しい。
そうでもしなければ、会ったことすらない宮に心を尽くしてお仕えするなど、できそうにもない。
それもこれも『鵲』が現れたせい。
あの日のあの語らいがなければ、彬子は幼い頃の耀への恋心を思い出すことも、二度とは逢えぬ男を思って心乱されることもなかったのに。
平静を装って暮らしているけど、心のうちは荒れ狂う嵐のようだ。
なぜ、わたしが? ……なぜ、二の姫でなく、わたしが内裏へ?
「耀君……鵲」
夕星輝く空から吹く風に、彬子の呟きはかき消える。
「……もうじき、大臣がこちらに参られるそうですわ、姫さま」
背に、遠慮がちな葛葉の声を聞いた。
葛葉だけを伴い、この右大臣邸にやって来て三月が経つ。
父である一の大納言から入内の話を匂わされてからは、すでに半年以上が経っている。遅々として進まぬ話に、この入内も水泡と帰すのではないか、と心のどこかで期待混じりの複雑な思いを抱いてもいたけれど、いざ正式に話が決まれば、そこからは早かった。水面下でさまざまな攻防や調整があって、万端整えられて初めて動くのが政なのでもあろう。
そうして移り住んだこの邸で、彬子は右大臣家の姫君として何不自由なく暮らしている。
実の父の許にいた時には考えられなかったほど恵まれた暮らしにありがたいと思えども、その扱いがいずれ彬子が置かれる立場に拠るものだと考えれば、未だ我が身の境遇の変化についていけてないのもまた、事実だ。
父との別れは実にあっけなく、そして、二の姫の母である北の方の態度は最後まで痛々しいほどに冷淡だった。
父は恐らく、二の姫への愛情ゆえに手放すことができなかったのだ。あんな風に育った無邪気な二の姫が、果たして宮中という場所で耐え得るかどうかと考えた時、それほどまでの苦労を二の姫にさせることは忍びなかった。だから、彬子を差し出すことにしたのだろう。
北の方はそのことを、最後の最後まで納得できていない様子だった。妃がねとして大切に育てた我が娘を差し置いて入内することになった、憎き女の娘である彬子を許すことはできぬと、その態度が物語っていた。
二の姫の入内ばかりを心配していた己がいっそおかしくもある。まさか、彬子自身に入内という現実を突きつけられるとは、あの日あの時まで考えもしなかったから。
『鵲』の幻に恋をした二の姫には、別れを告げることも叶わなかった。そうして、八年を過ごしながらなんの愛着も持てなかった父の邸を後にして、今この右大臣邸にいる。
物思いを振り払うように小さく首を振ると、やがて渡殿の方から先導の女房の衣のざわめきが聞こえてきて、彬子は慌てて茵に戻った。ほどなくして、蝙蝠を手に彬子の養父となった右大臣が廂に入ってきた。
「さてさて、我が姫君はご機嫌いかがであられるかな?」
朗らかな声でそう言いながら設えられた茵についた右大臣は、几帳越しにやわらかな笑みを彬子に向ける。
「ご機嫌よろしゅう、お父さま」
「うん、今宵は例の薬を持ってきたよ。……ほら」
右大臣が後ろに控える女房に視線で合図を送ると、そそと盆に載せられた膏薬のようなものが差し出され、葛葉が飛び上がらんばかりの勢いで礼を述べる。
「これは……! このたびは、なんとお礼を申せばよいか……」
「礼には及ばぬ。典薬*に頼んでこしらえさせた薬ゆえ、効き目もあるだろう」
「まこと、ありがとう存じます」
上ずった声でそう言ってひれ伏した葛葉に、彬子は訝しげな視線を向けた。
「……薬、ですか?」
彬子の言葉に、右大臣はちらと視線を揺らした。
「ほら、ここの……」
そう言いながら、右大臣はちょいちょい、と指で自分の首を指す。
「傷があるのだとか? そこの女房……葛葉と申したか? どうにかならんものかと申すゆえ、少しでも力になれればと思ってね」
また余計なことを、と彬子が睨みつければ、葛葉は首を縮めて視線を逸らした。
「……それは、お心遣い、いたみ入ります」
彬子は礼を述べながら無意識に首筋の傷に指を伸ばし、視線を落とした。今日はこの傷のことばかり、と吐息が落ちる。
「まあ、気に病む必要もないがね。……宮はそのようなことで何かを言うお方ではないよ」
宮は、と右大臣が言うのを聞いて、彬子は視線を上げた。
右大臣家に入る前と同様、彬子は未だ、入内のことも春宮になる予定であるという帥宮のことも、ほとんど何も聞かされていない。
報われなかった耀への拙い想いを心に秘めたまま、会ったこともなければどのようなお方かも知らぬ、そのような相手に情を抱くことは難しい。
この養親には、琴の琴の手ほどきを受け、漢詩の教えを請うて、ずいぶん打ち解けたつもりだ。その人となりは非常に穏やかで、彬子も素直に父と慕うことのできる人だった。そろそろ尋ねてみてもいいのでは、という気もする。
幾ばくかの逡巡を経て、彬子は口を開いた。
「お父さま、ひとつお伺いしても?」
「何かな?」
「その……帥宮さまとは、どのようなお方でございましょうか?」
右大臣は口を閉じて、どこか面白そうな表情でじっと彬子の様子を窺った。
「知りたい?」
「それは……」
もちろん、仮にも婚姻を結ぶことになる相手のこと、知りたくないと言えば嘘になる。
「うん───宮はね、小さい頃から聡明であられたよ。ただ、とても寂しいお暮らしだった」
右大臣はぽつりとそう言った。
先々帝の寵姫であられた女御を母に持つ、一の宮。にも関わらず、異母弟宮に御位を奪われたその理由は、すべて父の一族である三条左大臣派の力ゆえであろう。
そのくらいは彬子だって分かっていた。だけど。
「宮の母君である女御さまは、わたしの妹です。だから、そう、畏れ多くも宮はわたしの甥でもある」
「そうだったのですか」
彬子が驚いた様子を見せると、右大臣は心底呆れたようにため息をついた。
「やはりご存じなかった? ……姫は本当に、父上から何も聞かされていないのだね」
彬子は小さくうつむいた。
西北の対に住まう鄙生まれの『嵯峨の姫』に、政について聞かせてくれる者などいなかった。しかも実の父とは、養女になれと言われたあの日のあと、ほとんど言葉を交わすこともないまま別れたのだから。
「申し訳ございませぬ」
「いや、姫が謝ることではないよ。では、何から話そうか───女御さまは、それは深く帝に想われておいでだった。だから、一の皇子が誕生した時、帝は大層お喜びになられたものだよ。当然、春宮に立つはずだった。それが、皇子が六歳の頃かな、わたしの父が……」
女御の父でもある当時の左大臣が世を去った。それはあまりに突然のことで、もちろん陰ではさまざまな噂も流れたという。
「いきなり後ろ盾を失われた女御さまは、ご心労のあまり体調を崩され、宿下がりなさった。その間に、三条右大臣───今の左大臣は自身の娘が生んだ二の宮……前の帝をまんまと春宮に立てた。女御不在に乗じてね。女御さまは宮中に戻る機会すら失い、そのまま儚くなられた。二度と、帝に見えることもなく。今から十年前のことです」
「まあ……」
「その後、宮はわたしが引き取ったのですよ。元服ののち、二品*だが無官だった宮をなんとか太宰帥に推して、宮としての体裁を整えて差し上げることはできたが、こたびの春宮立坊*のことは天の采配と思うしかない」
ふ、と息をついた右大臣を前に、はたと彬子は考えた。
そのような境遇に陥れた一族の娘であるわたしを受け入れることは、たとえ建前上は右大臣の養女となってはいても、宮にとってひどい屈辱なのではないか、と。それはもちろん、養親となった右大臣にとっても。
「この話が出た時には、もちろんわたしもそう考えましたよ。正直に言うと貴女の一族のやり方は不愉快極まりなかったし、反対だった。だが、宮が仰ったのです。面白いではないか、と」
「面白い?」
「ええ。育ちに恵まれぬ者同士、傷を舐め合うのも悪くはない、などと。宮はお優しい方だが、時々そういう皮肉めいたことを仰る。真意のほどはわたしには分かりかねるが、宮がそれをよしとなさるならと、この話を受けることになったのです」
お互いにとって決して愉快ではないそのような話を、笑いを滲ませながら言った右大臣は、ふと真面目な表情に戻ると、今まで見せたことのないような隙のない視線で、几帳越しに彬子を見据えた。
「もちろんこれは、我が一族にとって願ってもない好機。なんとしても宮を春宮に、そして我が姫を宮の許に。これだけは、成し遂げねばならぬ」
瞬間、くらり、と頭が揺れた気がした。
妹女御の遺児である宮を大切に思う気持ちとはまた別に、政に携わる者として一族の繁栄を望み、そのために利用できるものは利用する、という右大臣の姿勢は、公卿としては至極当然のことであろう。
逃げ場はきっともう、どこにもない。分かっていたはずなのに、そう自覚するとひどく胸苦しさを覚える。
とてもまっすぐに向けてはいられぬ視線を床に落とし、最後に、ずっと胸のうちで燻っている疑問を投げた。
「……もうひとつだけ。なぜ、二の姫ではなく、わたしだったのでしょう?」
掠れる声でそう尋ねると、右大臣はその鋭い眼光を収めて微笑んだ。
「それはまたいずれ……姫が、宮にお聞きになればいい」
しん、と沈黙が落ちた。
なぜ宮に? という疑問を口に出せず、黙り込んだ彬子を前に、右大臣はぴんと張り詰めた空気を断ち切るように、ふっと笑った。
「わたしも、貴女でよかったと思っていますよ」
捉えどころのないそれらの言葉を残し、右大臣はまた来ますよ、と東の対を出て行った。
葛葉は、さっそくその膏薬を手にして嬉しげだ。
「まこと、ありがたいことでございますわ。咲耶……いえ、姫さま、本当に大臣に大切にしていただいて……嬉しゅうございますこと。これから朝夕と、しっかり塗り込んで差し上げますからね」
葛葉の言葉を聞くともなしに聞きながら、彬子は思案げに歪めた瞳を庭に向ける。
ひやりとした夜風が吹いて、御簾が揺れた。
虫の声すら鳴りをひそめる深更の刻、邸のうちはどこもしんと静まり返っている。
ふと眠りから覚めた彬子は、一瞬ここはどこかと考えて視線を彷徨わせ、それから、いつもと変わらぬ暗い御帳台のうちと理解して息をついた。
葛葉の塗った膏薬の微かな匂いに、我知らず傷痕に指を遣った彬子は、相変わらずざわめく心を持て余し、もう一度眠ることも叶わず褥の上に身を起こした。
なぜだろう、こんなに落ち着かぬ心地なのは。右大臣に帥宮の話を聞いたからだろうか。
初めて伝え聞いた帥宮の人となりに、それまで現実感を伴わなかった宮が確かに存在するお方なのだ、と認識したのは確かだ。ただ、聞けばもう少し、親しみを抱くこともできるかと期待していたのだけれど、そういうわけでもなかった。それがいずれ夫となるべき男であればなおさら、いくら優しいだの聡明だのと聞かされたところで、どこか空恐ろしさを拭い去れぬのも仕方のないことなのかもしれない。
彬子は大きく息を吐いて、両の手で顔を覆った。
嵯峨から都に連れて来られたことも、右大臣の養女となったことも───もしかしたら嵯峨で生を受けることになった、その始まりでさえも。
己の選択はどこにもなく、ひたすらどこまでも流されていく運命を前に、今の彬子にはなすすべもない。
本当はただ、あの明るい空の下で暮らしていたかった。
なぜ、このようなことに? 嵯峨に暮らしていた頃に、いったい誰がこのような運命を彬子に想像しただろう。
顔を覆ったまま、助けて、と思わず呟く。
誰か、ここから連れ出して。誰か───
ぎりぎりまで張りつめた心にその時、姫、と微かな声を聞いたような気がした。
姫、と呼ぶのは耀君だけ。
どうして、いなくなってしまったの? ずっと待っていたのに。今もずっと、待っているのに。
滅多なことでは泣かぬ彬子の眦から、涙が零れ落ちる。
怖い。
鬼も住まうという内裏に入り、やがては帝となる男の許に侍り、そうしてわたしはいったい、どうなってしまうのだろう。
ただ、ひっそりと暮らしていければよかった。あの日差しの中で、大好きな人たちに囲まれていられれば、彬子はそれだけで充分に幸せだった。
あの頃の思い出さえあれば、なんて嘘だ。ここから逃げ出したい、今すぐにでも。
「───姫」
今度ははっきり声がして、あたたかな掌が彬子の頬に触れた。
彬子は息も止まりそうな心地で、びくりとその肩を震わせる。
「姫」
その声の主はもう一度そう呼んで、それからいつかのように、するりと首筋にその指を這わせた。その指の優しさに、彬子はそれが誰かを知る。なぜか、驚きはなかった。
ゆっくりと顔から手を離し、目を凝らして薄闇を見つめる。
「……耀君?」
思わず、そう呼んだ。
だって、彬子の中で『鵲』は耀なのだから。
闇に沈む衣を身につけた男が片膝をつき、じっと彬子を見下ろしていた。
「泣いておられるのか?」
静かな低い声でそう返す男の、首筋にある指先にそっと触れ、目を閉じて小さく答える。
「ずっと、ずっと待っていたの。鵲……貴方のことを」
「なぜ?」
「会いたかったから。だって、貴方は耀君なのでしょう?」
彬子はそう言うと男を見つめ、涙に濡れた瞳で微笑んだ。
典薬
宮廷に勤める官人の医療を司った部署。
二品
律令制の下、親王には一般的な位階ではなく、品位が与えられました。一品から四品まであり、品位に応じて品封などの収入を得ていました。最高位である一品は位階における正一位を超える待遇を与えられることにもなり、一品に叙されることは稀であったようです。逆に、品位に叙せられない親王のことは、無品と称されました。
春宮立坊
春宮を選定し、その位に立てること。立太子と同じ意。