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「貴方……なぜ、葛葉くずはの名を?」


 大殿油おおとなぶらがひとつ灯っただけの西北の対屋の中、彬子あきらこは男に引きずられるように歩きながら、なんとかそれだけを尋ねた。だが返事はなく、衣擦れの音だけが嫌に大きく響く。

 顔を照らしていた月明かりが遮られてわずかに心の余裕が生まれ、自分を抱え込む男の顔をそっと見上げる。頬に触れる、男が身につけたきぬのやわらかさ、仄かな薫衣香くぬえこうだけでなく、その引き締まった唇や高い鼻梁からも、この男が下賤の者ではないと推し量ることは容易かった。そのことに、彬子は複雑な思いを抱く。

 なぜ身分ある者がこのような真似を、という疑問と、恐らくは二の姫の時と同じように、甚だしくひどい狼藉を働くことはせぬであろう、という妙な安堵と。

 だが、その安堵も男がどこに向かっているかに気づいた瞬間、恐れへと変わる。その足は、閨である御帳台みちょうだいへと進んでいたからだ。


「……離し───」


 声をあげようとした彬子の口は、だけどすぐに男の手で封ぜられた。


「お声を立てずと申し上げたはず」


 そのままなすすべもなく、引き立てられるように御帳台のうちに連れ込まれた。

 月明かりは帷のうちにまでは届かない。

 男はそこでふと立ち止まると、彬子の口を押さえていた手の力を緩めた。は、と怯えた呼吸が彬子の口から洩れる。


「手荒な真似はせぬと言いましたが……少々強引でした。お許しを」


 男は先ほどとは打って変わって丁寧な口調で呟くようにそう言うと、彬子を御帳台の奥へと突き放すように手離し、くるりと背を向けた。

 慄き打つ鼓動の中、彬子が肩越しに強ばった視線を向けると、男は御帳台の入り口から彬子の住まう対屋のうちを見回している。

 わずかに差し込む月の光が、男の艶やかな黒い衣を浮き上がらせていた。だが、その光も葛葉が格子を閉じる、ぎい、という音ともに細く消えると、あとには、御帳台の外にある大殿油の心許ない光が揺れるのみ。

 身を隠す几帳ひとつない御帳台の中で、彬子はしばらく立ち尽くし男の背を見ていたが、やがて観念したように大きくひとつ息をつくと、すでに整えられていた褥の上に座る。すると、その気配に気づいたらしい男もまた、御帳台のへりに腰を下ろした。

 彬子から離れてはいるものの、そこに陣取られては逃げることも叶わぬ。ちらとそちらへ視線を投げた彬子は、それから小さくくちびるを噛んで、袖をぎゅっと握った。

 そこに座ったきり何を話そうともしない男に、先に痺れを切らしたのは彬子の方だ。本当なら、所縁ゆかりもない男に声を聞かせるなどあり得ぬことだが、今はそんなことも言ってはいられない。


「───貴方……、貴方は、かささぎ?」


 彬子がそう尋ねると、男の背が揺れ、ふっと笑う声がした。


「世間ではそう、呼ばれているようですね」

「……」

「貴女とは、七日前にもお会いいたしました」


 どこか楽しげにも言う男の言葉に、彬子はやはりと思うと同時に何かが引っかかり、思わず呟いた。


「七日……?」

「ええ、二の姫君のところで。もう、お忘れですか?」


 引き込まれてしまいそうな、絹のように柔らかく低い声でそう、問うてくる。

 否、忘れるわけがない。あの、ついたちの闇夜。彬子は我知らず、眉を寄せて呟くように言った。


「鵲はひと月に一度、朔の夜に現れると聞いたわ。今宵は朔ではないのに」


 すると男は初めて身じろぎし、それから、ほんの少しだけ身体を彬子の方に向けた。

 見ている。じっと、まるで、彬子のすべてを見透かそうとしているかのように。

 背けた横顔に男の視線を感じて、思わず袖で遮る。

 心がざわつく。

 充分すぎる間を置いて、男はまた、ふ、と笑った。


「そうですね、美しい月でした。───格子を下ろさせたのは間違いだったかな?」

「……」


 いとも楽しげな様子の男に、彬子は警戒心を露わにする。

 このような状況で、いったい何を言っているのだろう?

 彬子の心中を知ってか知らずか、男はもう一度、ゆっくりと繰り返した。


「月夜だからこそ、ここに来たのです」


 訳が分からない。

 恐ろしさも徐々に薄れ、苛立ちだけが彬子の心を占める。


「だって……なんのために? そもそも貴方、どうしてこんな真似を」

「どのような権門の邸でも、その気になれば忍び込むのは意外と簡単でしたよ。あまりいいことではありませんね」


 男は彬子の言葉などまるで聞いてはおらぬかのように、そう言った。

 忍び込むのは簡単だと───さもありなん。先ほどの、葛葉に対するきつい物言いと態度も、一瞬の隙を突いたあの物慣れた様子からも、この男が女房の一人や二人、たぶらかして掛金を外させることくらい、容易いものだろう。


「手引きさせた者がいるのでしょう?」


 男はその問いには答えず、ただ小さく首を傾げただけだった。


「さあ? ……今宵はこのように無粋な話ではなく、もっといい話をしませんか? せっかくお近づきになれたというのに」


 彬子の問いにまともに答える気もないのだろう、男はのらりくらりと話をかわす。


「たとえば昔話など、いかがです」

「……昔話?」

「そうです。貴女やわたしが、まだいとけなく純であった頃の話など」

「何ゆえ……」

「貴女は憶えていらっしゃいますか? ご自身の小さい頃のことを」


 彬子はちらとその視線を男に向けた。男の低い声が、なぜだかふいにやわらかく、懐かしみを込めたものに変わった気がしたから。


「貴方はいったい、何をお聞きになりたいの?」

「小さな頃から、そのように勝ち気な姫君であられた?」


 笑いを滲ませた声でそう問われて、彬子は無意識にぎゅっと手を握りしめた。


「どうかしら? とにかく、わたしは貴方が望むような姫君・・ではないことだけは確かよ」

「わたしが望むような?」

「ええ。残念ながら、わたしは貴方が考えておられるような育ちはしていないの。たとえ、今はこうして大納言家に住まっているのだとしても」


 今度は、男の方が黙り込んだ。


「一の大納言家の、三条右大臣家の、といっても所詮わたしは劣り腹。だから、貴方がわたしなど訪ねたのは、間違い」

「……ずいぶん、はっきりとものを仰る方だ」


 彬子の言葉に、男は肩をそびやかす。そして、立てた膝に腕を置いてゆっくりと彬子を振り返った。


「貴女は、わたしが何を望んでいると?」

「鵲は上達部かんだちめの邸ばかり狙っていると専らの噂。その意味は、貴方が一番ご存じのはずなのでは?」


 そこまで言うと、彬子は男の視線を感じてはたと口を噤んだ。

 貴方が望むような姫君ではない、わたしは劣り腹───そんな、自分が吐き出した言葉の愚かさと醜さに、その瞬間気がついたからだ。

 見知らぬ男相手に、いったい何を喋っているのだろう。思わずうつむき、目を瞑る。

 自分のうちにある卑屈な感情に向き合わされた気がして、彬子は続けるべき言葉を見失った。

 自己嫌悪の深い吐息を零すと、しばらく沈黙を守っていた男が、またひっそりと笑った。


「いや……面白い方だ」

「……」

「もう、お話を聞かせてはくださらぬのですか? 貴女がどうお育ちになられたのか、聞いてみたい」


 彬子は、訝しげに歪められた瞳をまた、男に向けた。


「……貴方は、変わった方ね」

「そうですか?」

「都びとが、わたしのような鄙育ちの女のことを知りたいだなんて。わたしと話したがる者など、この邸では変わり者呼ばわりされるばかり」


 なぜだろう。この邸に来てからというもの、話す相手はほとんど葛葉ばかりという暮らしを、もう何年も送ってきたからだろうか。

 彬子は男の問いに導かれるように口を開く。 自分でも信じられぬほど、この見知らぬはずの男に対して饒舌になっていった。


「鄙で育った?」


 男は彬子の自虐的な言葉には答えず、ただ、やわらかい声でそう尋ねた。


「ええ」

「そこでの暮らしは、どのようなものだったのですか?」

「……幸せだったわ」


 ぽつりとそう言うと、彬子は先ほどから握りしめていた掌を開き、現れた瑠璃の碁石に視線を落とした。指先でそっとつまみ上げると、彬子が何かを手にしていることに気づいたらしい男が、静かに尋ねる。


「それは?」

「わたしの思い出の証。幼い頃の、大切な記憶。この記憶があるから、わたしはここで生きてこられたの」


 瞳を伏せたまま瑠璃に向けて紡がれた、まるで独り言のような彬子の言葉に、男からの返事はなかった。

 それきり、もしや『鵲』はすでに立ち去ったのでは、と考えてしまうほどの長い沈黙が続いた。男は何も言おうとしなかったし、彬子もその瞬間、一の大納言邸から離れ、遠く嵯峨の記憶を辿っていた。彬子も葛葉も乙丸も、そして耀てるも、皆がまだわらわだった頃の幸せな記憶。

 その沈黙は、彬子にとってなぜか気づまりなものではなく、どこか心地よさすら覚える静けさに満ちていた。


「───貴女は」


 そんな声が聞こえて、彬子は揺蕩たゆたう記憶から我に返る。視線を上げると、男がまたじっとこちらを見ていた。

 彬子が慌てて袖を翳してその視線をはね返すと、男はしばらく逡巡しているかのように口を噤み、それからいっそう低い声で彬子に問うた。


「貴女は今、お幸せなのか?」


 男の真意を測りかねて、彬子は首を傾げる。


「この邸で……貴女は、幸せですか?」


 男はもう一度、噛んで含めるかのように一言ひとこと区切りながらそう尋ねた。彬子はその問いに、驚きと幾ばくかの失望を禁じ得なかった。

 この男には、彬子がよほど不幸せそうに映ったのだろうか。

 おおかた、彬子の対屋の室礼しつらいが二の姫の対屋のそれとは明らかに違うと気づいたか、そのようなことに違いない。彬子の対屋は、贅を尽くした二の姫の対屋とは比ぶべくもない質素なものだったから。

 ふっと肩の力が抜け、開きかけた心の戸が固く閉じた。なけなしの矜持が傷つけられた気分だった。


「幸せよ」


 彬子は翳していた袖を下ろし、男の方を見据えてきっぱりとそう言い放った。


「高貴で恵まれた暮らしこそが人の幸せだと貴方が思うておられるなら、それは間違いだわ」


 彬子はそう言いながら、もう一度瑠璃を握りしめる。


「お分かりになったなら、もう帰って。わたしでは、貴方のお相手・・・は務まりませぬゆえ、ど───」

「貴女は、大きな思い違いをなさっておられる」


 男は、彬子の言葉を遮って吐き捨てるようにそう言った。彬子は瞳を眇めて男を見返す。


「思い違い?」

「わたしは───いや」


 男は何ごとか言いかけてふいに口を閉ざし、それから何かを諦めたかのように小さく首を振って息をついた。


「……今度は、わたしの話でもいたしましょう」


 その時はもう、男の声の調子は静かなものに戻っていて、どこか、はぐらかされたような気がせぬでもなかったけれど、それ以上追及することもできず、彬子も口を噤んだ。

 ぽつり、と男の言葉が落ちる。


「わたしにも、あたたかな思い出があって懐かしい場所がある。貴女と同じです。それを幸せと呼んでいいのならば、きっとそうなのでしょう」


 そのしみじみとした物言いに、彬子は尋ねずにはおれなかった。


「今は、お幸せではないの?」

「今、ですか?」


 男はそう聞き返し、それからしばらく考えて、やがてこう続けた。


「わたしには、大切な母がいました。その母が、わたしに呪いをかけたのですよ」

「……呪い?」


 彬子は、思わぬ話に袖で口許を覆う。


「ええ、これはまさしく呪いのようなものです。だから今、わたしはこうするより他ない」

「まさか。母君さまがなぜ、呪いなどそのような」

「……母にもまた、懐かしい人と場所があったのでしょう」


 男の話は、彬子にとって分かるようで分からないものだった。

 ただ、呪いなどという不穏な言葉に、この男の抱える哀しみと孤独を見た気がした。

 人のぬくもりに飢えて……だから夜毎、女たちの許に忍び込んでいるのだろうか。そのようなことをしても、心は冷えるばかりであろうに。


「……少し、話し過ぎました」


 しばしの沈黙ののち、男はそう言うとやにわに立ち上がった。


「今宵、鵲の橋を渡って貴女に逢えたこと、嬉しく思いますよ」


 その言葉とともに、艶めく黒い衣を纏った影がいきなり彬子に近づいた。どこかで男に対する警戒を解いてしまっていた彬子は、一瞬遅れてはっと息を呑む。

 いくら格子を閉めた対屋のそのまた御帳台のうちとはいえ、暗闇に慣れた目には今や男の顔がはっきりと見える。それは、どこか記憶をくすぐるような面影の宿る、美しいひとだった。

 彬子の前に立ち、まっすぐに見つめてくる、その目。顔を隠すことも忘れ、その視線に捕らえられて、思わず手をかたく握りしめる。その時聞こえた、男の震えるような声。


「それは母のもの、だったのです。わたしに呪いをかけた、母の」


 伸ばされた男の指が静かに頬に触れ、彬子はびくりと身体を強ばらせる。まるで暗示にかかったかのように、声を出すことも動くこともできなかった。

 男の手がそっと彬子の頬を撫で、それからゆっくりと左の首筋に下りた。傷痕に触れるか触れぬかの気配が、彬子を身震いさせる。

 未だかつて味わったことのないその感覚に耐えかねて、薄く開いたくちびるから声にならぬ声がほとばしり出るよりも一瞬早く、たった今、そこにいたことがまるで夢であるかのように、男は忽然と姿を消した。

 息をすることも忘れ、男の消えた対屋の闇を見つめていた彬子は、耳に残る男の言葉を胸のうちに繰り返す。


 ───それは母のもの、だったのです。


「それ……」


 呟きながら、掌にある瑠璃の碁石に視線を落とす。

 それ、とはいったい何のことか。まさか。

 ようやく零れ落ちたあえかな息とともに、脳裏に浮かんだ名を呟く。


「……耀てるぎみ?」


 風のように去っていった男のいた場所には、二の姫のところで見つけた黒い碁石と一緒に白い碁石が残され、あとはただ、いつもと同じ静かな闇が満ちるのみだった。



     ***



 その翌日、帝が譲位を決め、よわい四歳の春宮とうぐう践祚せんそ*が決まった。

 これで少しは御心安らかにと皆が考えたその数日後、院となられたばかりの先帝はついに崩御し、その知らせが秘密裏にもたらされた一の大納言家にも動揺が走った。

 邸の者たちは嘆き悲しみ、落胆し、これからの大納言家と三条右大臣派のことを憂えた。

 まつりごとに直には関わらぬ女たちの憶測だけではもはや先行きも読めぬ事態に、ひそめた声だけがさざ波のように邸中に広がっていた。一の大納言も宮中に詰めたまま幾日も戻らぬ日が続き、さて次の春宮は誰なのか、いよいよ二の姫の入内も現実となるのやも、と諒闇りょうあん*の重苦しい雰囲気の中で囁きが繰り返される。

 そんな中、彬子の住まう西北の対では、また違う意味で沈鬱な空気が垂れ込めていた。

 彬子の後ろに控える葛葉はこの数日、ひたすらため息をつき、力尽きたかのように肩を落としている。その気配を背に感じて彬子もまた、言葉はないままに深い息をつく。

 あれほどの決心も虚しく、守るべき主人をまんまと『鵲』に連れて行かれてしまった葛葉は、どれほど彬子がおまえの心配するようなことはなかった、と言葉を尽くしても、到底立ち直れぬほどに落ち込んでいた。


「……葛葉」

「……」

「いい加減、元気を出して」

「……」

「わたしはほら、このとおり。何も変わっていない。何も起こらなかったのよ」


 すん、と鼻をすする音が、陽の陰った薄暗い対屋に響く。


「……まことでございますね? まこと、鵲は、咲耶さまに指一本触れなかったと」

「そうよ」


 彬子は、もう幾度めか分からぬほどに繰り返された同じ問いに、きっぱりと頷いた。葛葉を安堵させるための、ささやかな嘘とともに。

 あの男が触れた頬にそっと手を遣る。それから、あの男がしたと同じように、首筋の傷痕へと指先を這わせた。

 あの男───『鵲』がまこと耀君だったのか、今となっては知る由もない。そうしてまた、それがいったい誰であったかなど。

 なぜ、あの男が葛葉の名を知っていたのかも、結局分からずじまいだった。あの男の正体は耀で、それゆえ知っていたのかとも考えられたけれど、でも、あの男の手管ならば、耀でなくとも葛葉の名を調べることくらい容易いことのようにも思える。

 いずれにせよ、きっともう二度と会うこともないだろう。なぜだか分からぬが、そう確信していた。

 だって、あの男は言っていたではないか、鵲の橋を渡って逢えた、と。一年に一度の逢瀬になぞらえて二度はないことを仄めかした、それがあの男の心だ。

 なのに、二度とは会えぬと思うたび、彬子の心は微かに疼く。

 なぜ、どうして。

 最初は、あの男がまこと懐かしい耀であるのかどうか、もはや確かめるすべもないことが悲しいのだと、彬子は信じていた。

 でも、幾度もあの夜の出来ごとを思い返すうちに、ふと気づいてしまったのだ。彬子と同じ孤独をうちに抱える、あの『鵲』にどうしようもなく惹かれているのだと。

 ほんの少しの時間、ともにいて語り合っただけの相手にこんな気持ちを抱くなど、馬鹿げていると分かっている。これでは、『鵲』の噂にまつわる女たちと同じではないか。

 彬子は、葛葉には知れぬよう凭れていた脇息に顔を伏せ、そして薄くわらった。

 そう、『鵲』の噂はまことだった。彬子もまた、囚われてしまったのだ。

 瑠璃に込められた懐かしい思い出さえあれば生きていけると、ずっとそう思っていたのに。

 なのに、たった一夜の出来ごとが彬子の心をほんの少し、変えてしまった。

 今はただ、偲ぶよすがは手許に残された三つの碁石だけだということが、辛かった。




 当然のことながら、次の朔の夜に『鵲』は現れなかった。

 一の大納言家にも、そして他の邸にも。

 よもや、月のある夜に彬子の許に現れたとは思ってもいない女房たちは、このような時ですもの、と口々に言いながら、密やかな期待を胸に次の朔を待った。

 だが、次の朔も、そしてその次にも、『鵲』が現れたという話はどこからも聞こえてこなかった。

『鵲』はそれきり、もう二度と姿を見せることはなくなってしまった。



     ***



 冬が来て春が過ぎ、彬子が『鵲』と会ったあの乞巧奠の夜から、もうじき一年が経とうとしている。

 幼帝を取り巻くまつりごとは三条右大臣派を中心に滞りなく進められ、残るただひとつの気がかりは、次の春宮に誰を据えるか、ということだけになっていた。

 春宮も立たぬうちには二の姫入内の件も進められようはずもなく、一の大納言家は表向き、平穏な毎日が続いている───肝心の二の姫が密かに彬子の許を訪れては、入内は絶対に嫌、『鵲の君』にもう一度お逢いしたい、そう切々と訴えてくる以外には。

 まわりの者は、もはや手に負えぬと判断したのであろう。二の姫が彬子を訪うことに、異を唱える者がいなくなった。逆に、二の姫を説得する役目をも、彬子に押しつけようという魂胆すら透けて見える。

 そんな、二の姫だけが頻繁に訪れる西北の対に、ある日珍しい先触れが来た。

 父 大納言がやって来るのだという。

 夏の陽は申の刻*を過ぎていよいよ対屋を照らし、はなだ*の、彬子の年頃には若干地味な羅の袿を透かして白い単を輝かせていた。

 やがて幾月ぶりだろうか、二藍*を身につけた父が西北の対のひさしに姿を見せ、蝙蝠*をせわしなく扇ぎながら葛葉の用意した茵に座る。その拍子に、彬子の前に置かれた几帳のとばりがふわりと揺れた。


「ご機嫌よろしゅう、お父さま。こちらにまで参られるとは、何か急ぎのことでも?」


 大納言はわざとらしく咳払いをして、それから、そなたも息災か? と問う。同じ邸に住まいながらおかしなこと、と内心思いつつ、彬子は頷いた。


「お陰さまで」

「……このところ、二の姫がようこちらに来ておるそうだな」


 彬子は、ちらと父を見た。ついに二の姫入内の話か、それを説得せよと頼みにでも来たのか、そう思ったのだ。

 だから、ずいぶんと長く黙り込んだのちに父が言った次の言葉を、彬子はすぐには理解できなかった。


「彬子、そなたを、左近衛大将家に養女に出すことが決まった」


 訳が分からず、彬子はぐらりと地が揺れたような心地で問い返す。


「……え?」

「なに、案ずることはない。次の春の除目じもくで兄上が左大臣となり、左大将どのは右大臣となられることになっておる。右大臣家の姫ともなれば、そなたとて不満はあるまい」

「……そうすることで、互いに利がある、ということでしょうか?」

「まあ、そういうことだ」


 互いに利があるとはつまり、次の春には『三条左大臣派の娘』となる彬子を『右大臣家の娘』として誰かと妻合めあわせる、ということだ。


「お聞きしてもよろしいでしょうか。なぜ、二の姫ではなくわたしが? やはり、二の姫には次の春宮さまへの入内が決まるのでございましょうか?」


 彬子が尋ねれば、大納言はふん、と鼻を鳴らした。それから蝙蝠を広げ、ぱたぱたと扇ぎ、また閉じる。

 父の落ち着きない仕草を、彬子は几帳の隙からじっと見つめた。


「二の姫では無理だ。何やら、訳の分からぬことばかり言うておるゆえ」


 大納言はそう言いながら、深い吐息をひとつ、ついた。


「まあ、じき諒闇が明ければ知れることだ、そなたには隠し立てすることもあるまい。ここだけの話だが、春宮が決まってな。帥宮そちのみや*……と言うて、そなたに分かるか?」

「いえ、存じませぬ」

さきの院の異母兄宮あにみやだ。歳は二十一。普通にいけば帝の座など縁のない方であられたが……なにせ、主上おかみは院に似てお身体が弱くてあられるゆえ、備えねばならぬ。苦渋の選択であった」


 彬子にとってその名を聞いたこともない宮であれば、三条右大臣派とは何の関係もないお方なのだろう───そう思い至って、彬子の心の臓が大きくひとつ、打った。

 わざわざ派閥の違う左大将の養女になってまで、三条右大臣派の彬子に課せられる使命があるとするならば、それはただひとつ。今は何の繋がりもない次の帝と一族との間に、強いえにしを結ぶこと。


「……まさか、それは」


 声が震える。大納言は何度か頷いた。


「そなたには、宮の御許に上がってもらうことになろう」


 その瞬間、彬子の背後でひたすらにじっと耳を傾けていた葛葉が、悲鳴にも似た微かな声をあげた。

践祚

天皇の崩御または譲位によって、春宮がその位を受け継ぐこと。


諒闇

天皇の父母が世を去った際、喪に服する期間のこと。期間は一年間で臣下も服喪しましたが、実際に喪服を着たのは十三日間で、あとは心喪でよいとされました。


申の刻

現在の午後4時頃の前後2時間。


少し緑がかった明るい青色。


二藍

夏の衣に使った紫系の色。

当時、『あい』という言葉には染料という意味もありました。藍で染めた藍色と、くれ(中国)の藍、つまりくれないで染めた赤花色、二つの『藍』を掛け合わせて染め出した色が二藍です。藍の分量を変えることにより、赤紫〜青紫まで色味に幅があり、一般的には若い人ほど赤味の強いものを着たといわれています。


蝙蝠

五本の骨の片面に紙を張った、男持ちの扇。


帥宮

太宰府の長官職を太宰帥といい、その任に当たった親王を「親王帥」と呼びました。やがては、親王帥が実際に太宰府に赴任することはなくなり、遥任の帥として帥宮と呼ばれるようになったようです。

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