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 二の姫を落ち着かせ、再び眠りに落ちたのを見届けて彬子あきらこが西北の対に戻ったのは、丑の刻*も近くなってからだった。

 傍にいると言い張る葛葉を、これほどの騒ぎになった今、もはや誰も邸には入れぬだろうから、となだめて曹司に帰したあと、ふすまに潜り込んで目を閉じてはみたものの頭が冴えて眠れず、結局しとねの上に身を起こし、考え込む。


 ───不躾なことをしてすまぬ、許せ。


 二の姫に聞かされたあの男の言葉、そして、あの時彬子を見た男の突き刺すような視線も、すべてが解せぬことばかりだ。

 それでも、ただひとつだけ分かること。

 もし、あの男がまこと『かささぎ』なのだとしても、それは噂で言われているような物語めいた色好みなどではない、決して。

 男のまわりに満ちていた、あの空気はなんだろう。誰をも近づけさせぬような、刺々しさと痛々しさ。にも関わらず、二の姫にはなんら危害を加えることも、狼藉を働くこともしなかったのだという。二の姫は言った、怖い方ではなかった、と。

 あの場で顔を見られた彬子にだって、いかようにも手を下すことはできたはずなのに。

 二の姫の顔を見て、髪に触れ、そしてすまぬと謝り……そしてあの時、彬子に何を言いかけたのだろう。

 そこまで考えて彬子は、思い出したように胸元から碁石を取り出し、そっと掌に載せた。

 噂では、後朝きぬぎぬの枕許に置かれていると言われていた黒い碁石。

 それを彬子は、鵲が姿を消した妻戸を出たところで見つけた。正確には、暗がりの中で踏んづけて気がついたのだけれど。

 艶やかに磨かれた黒いぎょくでできた石は深い輝きを持ち、ひと目で非常に質の高いものと分かる。このようなものを手に入れることができるほどの男───


「……分からない。いったい、何が目的なの?」


 彬子は碁石を弄びながら一人、呟いた。




 その翌日、一の大納言家は当然のことながら『鵲』のことで持ちきりだった。

 噂どおりさくの日に現れた『鵲の君』、にも関わらず、その姿を見たのは二の姫と彬子だけだったという身さばきのよさに、あらぬ想像をかき立てられた女房たちが、あることないこと言い合っている。


「二の姫さまの頬に触れただけで去って行かれたとか」

「あら、だって、今までの姫君はみな……なのでしょう? なぜかしら」

「あまりにも幼すぎて、手を出すこともできなかったのでは?」


 ほほほ、と一人の女房が勝ち誇ったような様子で言えば、そちらにずいと顔を寄せ、もう一人が声をひそめて言った。


「……よもや、二の姫さまに真心を寄せられたなどということは───」

「まさか」


 邸のそこかしこで見られる、くすくすと笑い合い、頬を染め、時に眉をひそめて蒼ざめる、女房たちのそんな様子に、さすがの彬子も苦笑するしかない。

 『鵲』など、真夜中の邸に侵入してきて主人あるじである二の姫の寝所を襲った不届き者でしかないはずなのに、女たちの想像の中では、どこまでも女心をくすぐる理想の公達らしい。この調子では、いくら警備を強めたところで、手引きする女房でも出てきかねない。

 そこまで考えて、手引き……と心のうちで呟く。

 昨夜、うちからしか開けられぬはずの妻戸の掛金が、外れていた。ということは、邸の中に誰か、すでに手引きした者がいるのかもしれない。


「───咲耶さくやさま」


 脇息に凭れてあれこれ考えていると、後ろに控える葛葉が呼びかけてきた。


「もう本当に……。昨夜のようなことは二度となさらないでくださいまし。西の対でなにやら騒ぎがあると気づいて咲耶さまの許に行きましたら、褥はもぬけの殻。どれほど肝を冷やしたことか」

「ああ……そうね、おまえには悪かったわ」


 女房の中でただ一人、『鵲』に対して冷やかな葛葉は、昨夜の騒ぎのあと、西北の対に戻ってきた彬子を見るや否や、崩折れるように号泣したのだった。西の対に軽々しく足を踏み入れるわけにもいかず、ただ悶々と待ち続けていたらしい。


「それにしても咲耶さま、よくお気がつかれましたね。誰も、その気配に気づかなかったというのに」

「そうね……なぜかしら? でも、わたしにははっきりと聞こえたのよ」


 そう言いながら、彬子は西の対へとつながる渡殿わたどのの方を見遣った。

 御簾越しに晩夏の陽差しが揺らめいているのが見える。

 同じように外を見ていた葛葉は、ふと思いついたように言った。


「このお邸の様子では、今年は乞巧奠きこうでん*の宴なども行われぬでしょうね」

「……どうせ、呼ばれもせぬわたしたちには関係のないことよ」

「こちらで、簡単な準備だけいたしましょう」


 葛葉が淡々と言うのを聞きながら、彬子は几帳の陰からは見えぬ空の星を思い、それからふと、茵の下に手を差し込んだ。そして、指先に触れる石の冷たさを感じる。

 幼い日、碁石も遊び道具のひとつだった。

 かささぎのわたる橋の、とそこまで声に出さずに詠んで、彬子はふと、何かに思い当たったかのように首を傾げ、呟いた。


「鵲……?」



     ***



 桜咲く日に現れ、耀てると名乗った少年は、それから時々、彬子たちの許へやって来るようになった。

 野を走りまわる乙丸おとまるたちの後ろにそっとついてまわり、時には彬子の祖母のいおりの庭に誘われ遊ぶうちに、子どもたちは打ち解け、新たな仲間として受け入れられたのだった。

 若君、耀若君と呼ばれて時をともに過ごし、暗く怯えた様子だった耀の顔にやがて穏やかな笑みも浮かぶようになると、そのことを誰より喜んだのは彬子だった。

 顔をつき合わせ、騒ぐでもなく何かを話し、笑い合う。傍から見れば、何をしているのやらよく分からぬ二人だったけれど、どうやら気が合っているように見えたようだ。実際、言葉少なな耀と過ごす時間は優しさに満ちていて、未だ鈍色の衣のままの彬子には居心地のよいものだった。


「乞巧奠?」

「そう。楽器やお裁縫が上手になりますように、って、お空の星にお願いするの」

「……わたしは、男だもの」


 彬子と並んで庵の縁に腰掛けていた耀は、気ぜわしく楽器や五色の糸を通してひさぎの葉に刺した針などを用意している彬子の乳母めのとの讃岐の姿を目で追いながら、困ったように呟いた。


「あら、殿方だって楽器は弾くでしょう? 都では、主上おかみのいらっしゃる内裏でも天にお捧げ物をなさると聞いたわ」


 彬子が、足をぶらぶらさせながら無邪気にそう続けると、耀の視線がちらりと揺れる。


「知らない」


 短くそう答え、耀は瞳を伏せた。

 彬子は、そう? と呟き、それから口を噤んで庭にいる乳母の様子を見る。そんな言葉もない時も、なぜか耀といれば気づまりには感じない。

 ふと、耀が尋ねた。


「姫は、この歌を知ってる? ───彦星の ゆきあひを待つかささぎの 門とわたる橋を 我にかさなむ」


 耀はいつも、彬子のことを姫、と呼んだ。彬子は首を傾げる。


「うん? 古今集ではないわよね?」

「母上が教えてくれたんだ」

「耀君のお母さま?」

「そう。彦星と織女たなばたつめは、鵲が翼を広げた橋を渡って会うんだって」


 言いながら空を見上げた耀につられて、彬子もまた空を見る。

 まばゆい光が満ちるそこに、黒々とした艶やかな羽を持つ鳥が翼を広げている姿が見えた気がした。


「ふうん」


 彬子はふと何かを思いついたように、待って、と言い置いて庵のうちに姿を消した。

 やがて戻ってきた彬子は、碁石の入った碁笥ごけ*とひいなを抱えていて、今度は耀が首を小さく傾げる。


「これで、鵲の橋を作りましょ」


 要は雛遊びだ。

 耀は少し困ったように笑って、それから、いいよ、と答えた。


「鵲は黒い鳥なのでしょう? わたしは見たことがないけれど」


 縁の板の上に黒い碁石を並べ、弧を描く橋を作りながら彬子が尋ねれば、耀もまた、わたしも見たことはないよ、と答えながら石を置いた。


「……白と瑠璃の羽根を持つらしい」

「白と瑠璃の羽根がある黒い鳥? 綺麗ね」


 彬子は、ならば、と白い碁石も少しだけ足して、大きな橋が出来上がる。


「瑠璃の石はないけれど」


 そう言ってにっこりと満足げに笑った彬子を、耀は何ごとか考えているかのようにじっと見た。


「耀君が男君、彦星よ。わたしは織女たなばたつめ


 男雛をその手に押しつけられても、耀はただ、楽しげに雛遊びをする彬子を見つめ続ける。鈍色の衵はどこか寂しげに映った。


「一年に一度しか会えないのはかわいそうだって、葛葉は言うの。だけど、一年に一度でも会えるのなら、嬉しいことよね」


 そんな耀の視線も気づかぬ様子で、手にした人形ひとがたに橋を渡らせて耀の持つ人形に会わせた彬子は、ぽつりとそんなことを言った。

 それは、彬子にとってもう二度とは会えぬ母のことか、それとも、一度とて会ったこともない父のことだろうか───耀はそんな風に思ったけれど、それと同時に耀自身の心もちくりと痛む。


「……そうだね」


 それは悲しいのか嬉しいのか、どちらに頷いた返事だったか。耀もまた、橋を渡って彬子の人形に会いに行かせた。

 蝉の声も、寂しげになりつつある初秋のことだった。

 その頃には、娘を喪った悲しみに加え、夏の暑さが堪えたのか彬子の祖母もまた病を得て、庵の奥に籠もるようになっていた。褥の中から様子を見守る祖母の瞳に、二人の姿はどのように映っていたのだろう。

 その翌日、息を弾ませ彬子の許に現れた耀は、ひとつの小さいものを渡した。


「これ、あげる」

「……瑠璃*?」


 目を見開いて言う彬子に、耀は小さく、そう、と頷いた。

 それは碁石の形をした透明な深い青の瑠璃で、とても古いもののようだった。


「瑠璃なんて初めて見たわ。こんなに綺麗な青い色なのね」


 掌の上に輝くそれを見ながら、彬子は瞳を輝かせた。


「どうして、こんなものを?」


 彬子が尋ねると、耀は一瞬口ごもった。


「……それは、母上が」


 それを聞いた彬子の瞳が曇る。


「お母さまのものなの? 勝手にいただいてはいけないのではな───」

「いいんだ!」


 耀は、咄嗟に返そうとした彬子の手を押し返し、呼び止める間もなく、くるりと踵を返して走り去る。残された彬子は、しばし呆然と耀の背を見送った。

 掌に載せた瑠璃に視線を落とす。そっと指につまんで陽の光を透かし見れば、そのきらとした輝きに目を奪われ、それから小さく微笑んで、その手にぎゅっと握りしめた。

 この瑠璃のことは、それからずっと二人だけの秘密だった。



     ***



『鵲』が一の大納言家に現れて五日あまり。

 帝の容態は一進一退だとか、早う秋が深まり気温が下がれば、などという女房たちの囁きを耳にするたびに、彬子はあの日の二の姫の様子を思い出してしまう。もしも帝に万が一のことあらば、いったい二の姫の運命はどうなってしまうのか。

 当の二の姫は、あの日を境にふっつりと彬子のところに姿を見せなくなった。彬子の方から二の姫をおとなうのも憚られ、一度は文を遣わしてもみたものの、それもなしのつぶてだ。

 大方、二の姫の身を案じた北の方によって対屋たいのやのうちに留め置かれているのだろうと葛葉は言うのだが、彬子はどこか心がざわめいて仕方がない。

 あの二の姫のことだもの、『鵲』に憧れるような、そんな妙なことになっていなければいいのだけれど。

 彬子はまた、あの夜見つけた黒い碁石に目を遣った。

 まさか、妻戸の外で拾いましたよと二の姫に届けるわけにもいかず、そのまま手元に残した碁石に手を伸ばし、ふと思い立って、唐櫃からびつの奥深くに隠した瑠璃の碁石をそっと取り出した。

 あの日と変わらぬ輝きを見せるこの瑠璃のことは、葛葉にも教えていなかった。

 耀君がこの瑠璃をくれたのもちょうど乞巧奠の頃だった、そんなことを考えながら御簾の側に寄り、葛葉が簀子すのこに台を置いてその上にそうの琴や角盥つのだらいや、その他あれこれを並べているのを眺めた。


「ねえ葛葉、おまえを見ていると、そうやっていつも用意していた讃岐を思い出すわ。でもね、今日のこの空で星は見えるかしら?」


 雲の多い空の下、葛葉は振り向き、少し呆れたように口を開いた。


「咲耶さま、なんということを。こういうことは、この日にするからこそ意味があるのですから」

「それはそうだけれど……」

「ほら、咲耶さま、またそんな端近までお寄りになられて! 早く、奥に入ってくださいまし!」

「……はいはい」


 しゅると衣擦れの音をさせて、彬子は奥のしとねに戻り脇息きょうそくを引き寄せる。脇息の上の黒い碁石に瑠璃の碁石を並べて置くと、彬子は小さく呟いた。


「彦星の ゆきあひを待つかささぎの わたる橋を 我にかさなむ」


 ───彦星が一年に一度の逢瀬を待っているという鵲かける橋を、どうかわたしにも貸しておくれ。


 幼い頃には何も思わなかったけれど、なぜ耀の母はこの歌を教えたのだろうか。そもそも、耀の父はいったい誰なのか、それは嵯峨にいた頃にも、誰も知らぬことだった。

 耀はどうやら、彬子と出会った池にほど近い小さな寺に身を寄せているらしい、ということだけは分かっていた。そのこと以外決して明かそうとしない耀に、好奇心旺盛な子どもたちが寺まで押しかけたこともある。だが、そこに住まう歳老いた僧都そうずも、同じくらい歳を重ねたように見える女房も、その固い口を割ることは決してなかった。

 もとより身分の差など気にもせぬ子どもたちのこと、誰もそれ以上は知ろうともしなかったのだが。

 そこまで考えて、彬子はまたため息をついた。


「……どうして」


 もう何年も思い出すことを避けてきたあの嵯峨での日々を、こんな風に追いかけてしまうのだろう。

 そう、あの『鵲』が二の姫の許に現れてからだ、何かにつけて昔のことを思い出してしまうのは。

 ふ、と吐息を零したその時、廂の方から葛葉の声がした。


「咲耶さま、ご準備も整いましたよ。あとは日が暮れるのを待ちましょう」


 彬子は、そうね、と答えると、物思いを振り切るように小さく首を振った。




 その夜、日もとっぷりと暮れて上弦の月が空に輝く頃、彬子は葛葉の許しを得て簀子に出ていた。

 もう一刻もそこに座っているだろうか、こんなことは滅多にない。彬子は、思う存分涼しい夜気を胸に吸い込む。

 葛葉の願いが通じたのか、雲ひとつない夜空に浮かぶ星々が、月の輝きに負けじと盥の水面みなもに揺らめき映る。鵲の橋がかかったのね、と独りごち、女郎花おみなえし*の袖のうちに隠した二つの碁石を取り出すと、瑠璃の方を掲げて月の光に透かして見た。月の光を受ける瑠璃の輝きは、陽の光を受けたそれとはまた違い、冷たく澄み切っているように感じる。

 寝殿も西の対も、本来なら宴を催すはずのこの宵に、月影の下でひっそりと静まり返っていた。なんとなく、不穏な気が感じられるような宵だ。誰もがなりを潜めたかのように、早々にそれぞれの曹司や局に籠っているようだが、おかげで彬子もこうやって、しばし夜気に触れることができている。

 しかしそれもさすがに長くなってきて、葛葉がそろそろうちに、と声をかけてきた。


「咲耶さま、夜風も冷たくなって参りましたゆえ……」

「分かったわ」


 この時ばかりは彬子も従順にすぐ立ち上がった。葛葉が一刻も外にいることを許してくれたのだ、言うことを聞かねば次はないだろう。

 彬子がおとなしく御簾のうちに入るのを見届けた葛葉は、お白湯を取って参ります、と廂から妻戸をくぐって対屋を出て行った。

 その背を見るとはなしに見送ったのち、彬子は手のうちに涼やかな音を鳴らす碁石を、もう一度だけ、と月の光に透かそうとした。わずかに御簾を開けて、そこに差し込む白銀の光に指先でつまんだ瑠璃を翳す。その瞬間、もうひとつの黒い碁石が掌から滑り落ち、たん、と軽やかな音を立てて御簾の外の廂に転がり出てしまった。


「あ……」


 ため息のような声が彬子のくちびるから零れる。

 まだ、葛葉は戻ってこない。彬子は躊躇ためらいなく、つい今しがたまでいた簀子に出ようと御簾を掲げ、そして息を呑んだ。

 掲げた御簾のその目と鼻の先には、清かな月明かりを背に受ける人影。漆黒のその人影がゆらりと揺れて、ゆっくりと振り向く。

 御簾にかけた手を動かすこともできぬまま、彬子はその視線に囚われた。

 なぜ、今の今まで、その気配にすら気づかなかったのだろう。気づいていれば、御簾を開けたりしようはずもないものを。


「───鵲……?」


 喉に張りついたような声で呟くと同時に、黒い影は転がった碁石を素早く拾って彬子に一歩近づき、その口の前で指を立てた。


「貴女が勇気ある姫であることは知っています。どうかお声を立てず」


 密やかな低い艶のある声で、まるで彬子のことをよく知るかの如くそう囁くと、男はもう一歩距離を縮め、手を伸ばしてきた。あの時───二の姫の対屋で遭遇した、あの時と同じように。


「……やっ……!」


 思わず振り払おうとした手首を、男に掴まれた。振りほどこうにも男の手の力は強く、彬子にはなすすべもない。そのまま、御簾の外に連れ出され、月の光に彬子の姿が晒される。


「手荒なことはせぬゆえ、どうぞお静かに」


 男は、憎らしいほどに冷静な声でもう一度そう言うと、空いた手の甲で彬子の左の髪を掬い上げた。


「何を───」


 言いかけた彬子はそのまま、羞恥に声を呑む。

 逆光の中でも分かるほどに鋭い男の視線は、月光を浴びる彬子の首筋に注がれていた。そこにあるのは姫君にあるまじき、大きく醜い傷痕。

 恥ずかしさに声が出ない。ひどく誇りを傷つけられたような気がして、その一瞬がどれほど長く感じられたことだろう。

 男は、目を見開いたまま彬子の傷を凝視していた。それから、何かを言わんと口を薄く開いた、その瞬間。


「……姫さま!!」


 悲鳴のような葛葉の声が飛んだ。

 それと同時に男が素早く彬子の身体に手をまわして強く引き寄せ、羽交い締めするように後ろから抱き込んで葛葉の方に向き直った。

 それはほんの一瞬のことだった。

 けれど、男の顔がその時初めて、彬子にもはっきりと見えた。

 よく知るはずもない、なのにどこかで懐かしさを覚えるその顔───


「姫さまを……離しなさい!」


 恐ろしさに震えながらも必死に咎め立てする、押し殺したような葛葉の声が再び月夜の静寂を破る。

『鵲』であろう男の腕に力が籠められ、正常な判断力を失った彬子はただ呆然と絡め取られたまま、この男は誰かと考え続けていた。


「咲耶さま!!」


 逃げるそぶりすら見せぬ彬子にしびれを切らした葛葉がもう一度声をあげると、男は一度、鋭い視線を葛葉に投げかけた。それから、ばさりと御簾を掲げ、彬子もろとも半身を中に滑り入れる。


「今すぐ、格子を下ろせ」

「……!」


 男が忍び入ることを黙認せよというのか───葛葉が怒りに打ち震えるのにも構わず、男は続けた。


「明日の朝まで、誰も近づけぬよう。よいな? ……葛葉」


 思いもかけず名を呼ばれた葛葉は、虚を突かれて動くこともできぬまま、彬子が男の袖に包まれて御簾のうちに消えるのを、黙って見送るしかなかった。

丑の刻

現在の午前2時の前後2時間。


乞巧奠

五節句のひとつ。乞巧奠自体は六世紀頃の中国の記録にすでに残されている行事で、それは牽牛・織女の伝説とともに日本にも早い時期に伝わりました。万葉集などにもすでに、二星会合を詠んだ歌は数多く残されています。やがて、日本古来の『棚機津女たなばたつめ』信仰とも混ざり合い、芸事や裁縫の上達を願う行事となりました。七月七日の夜、楽器や五色の糸を通した針などを捧げ、梶の葉に歌を書きつけて遣りとりをしました。京都の冷泉家では今なお、そのような乞巧奠が催されています。


碁笥

碁石を入れるいれもののこと。


瑠璃

この時代、ガラスのことを瑠璃と呼びました。


女郎花の色目

若干緑がかった、薄い黄色のこと。七月七日からの秋の色。

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