弐
「お姉さま!」
はしゃいだ声で撫子*の細長*をひらひらさせて、押しとどめようとする女房を振り切り西北の対にやって来た二の姫は、彬子を見つけると、そのふっくりとした頬に笑みを載せ、設えられた茵にすとんと座った。
「ご機嫌よう、お姉さま。珍しい絵巻が手に入ったので、持ってきましたの」
挨拶もそこそこに早く早くと女房の手から絵巻を受け取り、嬉しげに床の上に転がし広げるその様子に、後ろに控える葛葉は醒めた視線を送ったようだけれど、彬子の口許には思わず笑みが浮かぶ。
「ご機嫌よう、二の姫。お父さまが見つけて来られたの? 素晴らしいできばえね」
二の姫と一緒に目の前に広がる絵巻を覗き込む彬子の後ろで、なぜ殿は二の姫さまにだけ、と葛葉は鼻を鳴らして憮然とし、なぜ嵯峨の姫などに見せるのか、と二の姫付きの女房も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
誰もが避ける異腹の彬子に好んで関わろうとする、この邸でただ一人の変わり者───口の悪い女房たちが、仮にも主人である二の姫のことを陰でそのように見下し言っているのを、彬子は知っていた。だからと言うわけではないが、彬子はこの二の姫を嫌いにはなれないでいる。それに、彼女の母である北の方がどれほど彬子を疎んじようとも、二の姫が彬子にとって数少ない、血の繋がった身内の一人であることに変わりはない。
二の姫は、生まれながらの妃がねとして蝶よ花よと大切に傅かれ育てられてきた。その結果、彬子とはひとつしか違わないにも関わらず、天真爛漫、純真無垢で人を疑うことを知らぬ、歳の割に幼い、とても幼い姫君に仕上がっていた。
お父さまは二の姫の育て方をお間違いになられた、と彬子も心のうちでは思っている。権謀術数渦巻く後宮に送り込む妃がねとして考えるならば、十五でこの幼さは致命的だ。
だけど、一人の姫君としての彼女を見れば、誰もが思わず微笑んでしまうほどに愛らしい。まわりの者たちがいくら躍起になって導こうとも、肝心の二の姫はいつだってふうわりと笑っている。
それが二の姫の持って生まれた資質でもあるならば、そんな彼女を入内させるなどあまりに残酷な気がするのだけど、このところの政に漂う不穏な空気を考えれば、その危惧が現実になるのではないか、と彬子は心配していた。
「……ね、この公達。こちらの姫君を垣間見ているのよ。なんて素敵なの! ああ……わたくしの許にもどなたか、素敵なお方がいらっしゃらないかしら?」
うっとりとそう呟く二の姫の後ろでは、女房が今にも倒れこみそうな風情でがっくりと肩を落としている。
恋に恋して夢見る年頃といえば聞こえはいいが、実際のところ、万が一にもそのような者が二の姫の許に忍んで来たならば、いったいどれほど大ごとになるか……そのことを、この二の姫はまったく理解できていないのだった。無邪気というには少しばかり、問題の多い姫君ではある。
「そうそう、お姉さま」
言いながら、ぽり、と唐渡りの菓子をかじった二の姫は、好奇心に満ちた瞳をくるりと動かした。
「お聞きになられて? 鵲の君のこと」
ひそめたその声に彬子はぴくりと視線を上げ、それから黙って二の姫付きの女房を見た。余計なことを耳に入れたらしい当の女房は、そ知らぬふりであらぬ方を向いている。
「さあ……誰から聞いたの? そんなお話」
「あら、お姉さまはご存じないのですか? 女房たちはみな、話しているわ」
すっかり耳年増の二の姫は、想像の中で作り上げた『鵲の君』に思いを馳せる。
「夜毎、姫君たちの許にやって来るのですって。いつか、わたくしの許にもやって来るのかしら?」
どこかわくわくしているような調子で胸に手を置く二の姫を、彬子は眩暈でも起こしそうな心地で見遣った。
「わたくしもお逢いしてみたいわ。鵲の君……どのようなお方なのでしょう? きっと、この絵巻のような貴公子でいらっしゃるのよ」
彬子は吐息をついて、それから、ゆっくりと諭すような調子で言った。
「二の姫、よろしいこと? 誰に聞いたのか知らないけれど、そのような噂ごとを軽々しく口にしてはいけません。そんな物語のようなことが、本当に起こるわけはないでしょう? それに、万が一にもそんな男が二の姫の許に忍び入るようなことになれば、お父さまも北の方さまも、どれほどお悲しみになられるか」
「なぜ? どうしてお父さまが悲しまれるの?」
ぽり、と二の姫の口許で菓子が音を立てて崩れ、さすがの彬子の心も崩折れそうになる。
「どうして、って───」
「姫さま、北の方さまがお待ちにございますれば、そろそろ」
助け舟と言うべきか、二の姫付きの女房がもうこれ以上は聞いておれぬとばかり、二人の会話に割って入り、そこも素直な二の姫のこと、分かったわ、と菓子を置いて立ち上がった。
「これ、このお菓子、お姉さまに差し上げます。……そうだわ! それから、これ……」
言いながら、二の姫は胸元に差し入れた懐紙を取り出した。
そっと開いた紙の上には、押された小さな花が二輪。
「春に作ったの。綺麗にできたから、お姉さまにと思って」
「……ありがとう。綺麗ね」
彬子の言葉ににっこりと微笑んだ二の姫が、来た時と同じように細長の裾を翻し西の対へ戻っていくと、葛葉は盛大なため息をついた。
「……なんと申しますか……わたし、あの姫君を見ているとなぜかこう、ええ失礼ながら、いらいらと……」
「お可愛らしい姫君よ。悩みも憂いもなく育てば、あんな風になれるのね」
手許に残された桜の花を見ながら、彬子はぽそりと呟いた。正直な気持ちであって、決して嫌味などではない。
あの異母妹はいったい、どれほど守られて生きてきたのだろうかと、そんな風に思うだけだ。明日の食事にすらこと欠くような、身を切る冬の寒さに凍えるような、かつての彬子が送ってきたそんな暮らしがこの世にあることすら、知らぬだろう。悪意が人の心を蝕み、病をさえ引き起こすことがあることも……あの北の方の娘でありながら知らずに今日までこられたのならば、それは幸せなことだ。だけど。
「まわりの者が本当に二の姫のことを思ってお仕えしているのか、心配だわ。あんな根も葉もない噂を、よりにもよって二の姫に聞かせるだなんて」
そう言いながら、彬子は思った。
万が一にも噂が本当で、その鵲なる男が忍んできたら、二の姫はどうなってしまうことか。人を疑うことも知らぬあの異母妹など、手練手管に長けた男には童同然に容易く手折られてしまうことだろう。
「仕方ありませんわ。いくら二の姫大事と申せ、あの北の方さまの女房たちですもの……二の姫さまがあんな風にお育ちなのが、いっそ不思議なほど」
「……嫌だわ。なんだか、とても嫌な気分」
彬子は、掌の上の小さな桜の花を見つめた。
***
ようやく桜の蕾も膨らんできた頃に世を去った彬子の母は、触れればすぐに消えてしまいそうなくらい、なよやかな女だった。
鄙にあってそのような風情の女を見たのがよほど物珍しかったのだろう。ふとしたことで彬子の母を見初めた当時少将であった父は、娶ったばかりの北の方を捨て置いて、嵯峨にある別荘に入り浸って庵に通い詰め、逢瀬を重ねた。
彬子の祖母はなんとか思いとどまらせようとしたようだったが、若い情熱の前には無力だった。父は母を別荘に迎え入れることすら提案し、だが、彬子の母がそれだけはと拒んだのは、年老いた母を独りにはできぬと、それが表向きの理由だったのだけれど、本当は北の方の心を恐れたからだ。
やがて、祖母が危惧していたとおり、彬子を身ごもると時を同じくして父の訪いは絶え、母は孤独の中で彬子を生んだ。彬子の誕生から半年が経った頃、少将の北の方にも初めての姫君が生まれたと伝え聞いた母は、その日を境に父の訪れを待つことをやめた。
それからしばらくは、表向き平穏な日々が続いた。その幸せが綻びを見せ始めたのは、彬子が七歳の頃のこと。
土地の者から届けられていた糧が、いつからか目に見えて減った。親切心から何くれとなく世話をしてくれていた者が、ついぞ来なくなった。それがやがて、彬子たちの暮らしを脅かすほどに深刻になった頃、母はすでに起き上がることは叶わぬ身となっていた。すべては彬子という娘の存在を知った北の方の、妬心からくる執拗な嫌がらせだった。
春に母が儚くなり、やがて夏が過ぎて秋も終わる頃、あとを追うように祖母も世を去ると、まだ八つだった彬子を抱えた乳母の讃岐は途方に暮れた。今や明日の食事すら覚束ない日々、冬の支度もままならぬ。
致し方なく、乳母は彬子の父を頼った。それは、たとえ北の方にひどい扱いを受けようとも野垂れ死ぬよりはまし、という生の選択だった。
***
二の姫が彬子の許を訪ねたその三日後、一の大納言邸は妙な静けさに支配されていた。
ひっきりなしに誰かが邸を訪れる気配だけが伝わるものの、いったい何が起こっているのかは覆い隠されたままだ。詳しいことは何ひとつ知らされておらぬけれど、その沈鬱な雰囲気に、いよいよ帝の病篤くなったのであろうことは彬子にも想像がついた。
申の刻*の頃には一度、まるで嵐のような夕立もあった。それを境にようやく人の出入りは落ち着いたらしい。人の気配の代わりに雨音だけが満ちる西北の対では、彬子が一人、廂の柱に凭れかかっていた。
激しい雨が音を立てながら容赦なく葵の花を打つ壺*のさまを、彬子は御簾越しに眺める。いつもは穏やかな遣水のせせらぎが、今は溢れんばかりに膨らんで、青い落ち葉を翻弄しながら勢いよく連れ去っていく。彬子の指がまた、無意識のうちに首の傷にすい寄せられた。
「いつか……」
そっと首筋に触れる彬子のくちびるから零れ落ちた呟きは、最後まで語られることはないまま、雨音に吸い込まれていった。
***
母を見送った春───あの時も桜は綺麗に咲いていた。
薄紅の花色が滲んだ鄙びた景色の映る池のほとり、やわらかな陽差しに満ちた日のこと。彬子は鈍色*の衵を身につけ、ほかの子どもたちから離れて一人、めじろが落とした花を一心に摘んでいた。
やがて花でいっぱいになった小籠を抱え、立ち上がった彬子が振り返ると、そこには見たことのない童が立っていた。こちらを窺うように半身を木陰に隠して覗いているその少年は、彬子より少しだけ年上のように見えたけれど、瞳はまるで幼子のように不安に揺れていた。
葛葉も乙丸も他の子どもたちも隠れ鬼に熱中していて、誰も少年に気づいていなかった。彬子は少しまわりの様子を窺ってから、小首を傾げてその少年に近づいた。覗いていることに気づかれた少年はびくりと肩を震わせ、なおも幹の影にその身体を縮め隠そうとする。彬子は足を止めると、ひそめた声で尋ねた。
「あなた、だあれ? どこの家の子?」
彬子の無邪気な問いにも、少年は口を開かなかった。若草*の水干*を身につけ、髪をみづらに結ったその姿は一目で貴族の子と知れたが、従者も連れていない。何より、その怯えた様子はどうだろう。
彬子はしばらく黙り込んで何ごとかを考えた。それからもう一度後ろを振り返り、葛葉たちのこちらに気づいていないことを確かめると、来て、と少年に声をかけて歩き出した。
草が生い茂り、小石の転がる道なき道を、勝手知ったる様子ですたすたと歩く彬子の後ろから、そっと草を踏む音がついてきていた。
彬子は、叢を右に折れた。伏し目がちだった少年が訝しげな視線を向けているのも構わず土手を下りれば、そこには清かな音をたてて流れる小川があった。
少年は、振り返った彬子の許へおずおずと近寄ってきた。それを見るや、彬子は言った。
「ここに花を浮かべるの。そうしたら、さっきのお池に流れ着くのよ」
そうして小脇に抱えた籠を見せにっこり微笑む彬子に、少年は小川の流れ行く先に視線を送り、それからもう一度、まっすぐな瞳で彬子を見た。
川と呼ぶにも心許ない流れの傍、蜜を吸う小鳥のしわざで根元から折られてしまった桜の花を籠の中からひとつつまみ上げると、彬子は水に向かって弾くように落とした。すると花はくるくると回りながら川面に落ち、緩やかな流れに乗っていく。
流れゆく花を二人黙って見送り、それが見えなくなると、彬子はもう一度花を落とす。
ひとつ、ふたつ……どこかで鶯の啼く声が聞こえた。
「どうぞ」
彬子は少年に花を手渡した。優しいぬくもりが、二人の指先をかすめる。
少年は、指先でつまんだ花を水面に落とした。やはり花はくるくると回り、澄んだ流れの上に落ちて運ばれていった。
「……不思議だな」
少年が小さな声で呟くと、彬子は一度にたくさんの花を川面に撒いた。
春の風に吹かれ、ひらひら、くるくると舞い落ちていく花々は、小さな流れを彩りながら流れゆく。二人で籠の中の花を全部流してしまうと、彬子は来て、と少年の手を取った。
「追いかけるの」
「え?」
戸惑う少年をよそに、彬子はぐいぐいとその手を引いて今来た道を駆け戻る。
「……ほら!」
息を切らしながら視線で指したその先に、二人で流した花が水面を彩る先ほどの池があった。
ゆらゆらと揺れながら浮かぶ花々の間に鳰鳥*が悠々と泳いでいくのを、彬子は少年の手を握ったままうっとりと眺める。少年が、繋がれたままの手に落ち着かぬ心地を持て余していることなど、気づきもせぬまま。
風が吹き、幽かな春の香りを運びながら二人の袖を揺らし、水面の花を撫でて吹き抜けていく。
頬の横で揺れる結んだ振り分け髪をもう一方の手で押さえながら、彬子はぎゅっと少年の手を握った。
「───わたしは」
少年が言いかけたその時、遠くに子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。やがて彬子たちに気づいた彼らが、わあ、と声を上げてこちらに走り寄って来るのを見ると、少年は急に彬子の手を振り払った。突然手を払われたことに驚き、振り向いた彬子の視線の先には、ばつが悪そうにそっぽを向いた少年の姿。
どうしたの? と問おうとした時、二人のまわりにわらわらと子どもたちが集まって取り囲み、驚いた鳰鳥が羽音を立てて飛び立った。
「咲耶さま、どこにいらしたの? みんな、探したんだよ!」
鳰鳥が飛んでいった先を目で振り返っていた彬子に、子どもたちは言った。そうしてすぐに、隣に立つ見知らぬ少年に気づく。
「あれえ、おまえ誰だ?」
「見ない顔だな」
「どうしてここにいるの?」
「咲耶さまに何したんだ?」
口々に言うその声に、少年は睨みつけるような視線で子どもたちを見た。警戒心を露わにしたその姿に、彬子は思わず進み出る。
「わ……私のお友だちよ! そんな風に言わないで」
少年を背に庇うように立ち、頬を膨らませる彬子に、子どもたちはようやく口を噤んだ。
「……姫さまのお友だち、ですか?」
怪訝な声でそう訊き返したのは、葛葉だ。
「そうよ、お友だちの……」
彬子はそう言って少年を振り返り、えっと……と言葉に詰まった。
彬子に問いかけるような視線を向けられて、少年はしばらく黙って俯いていた。それからふと顔を上げると、彬子の瞳をじっと見据えて言った。
「───耀」
「てる、ぎみ……?」
耀君だって? どこの若君だ? とまたもや騒ぎ立てる子どもたちの声の中、それが二人の出会いだった。
***
雨も上がり、褥につく刻となっても、雷鳴だけはまだ近く遠く鳴り続いていてどこか凶々しい雰囲気が漂う。彬子は寝入ることもできず、幾度も寝返りを繰り返していた。
遠い思い出が浮かんでは消えて、それがまた、彬子の眠りを妨げる。
なぜだろう。
その時、微かな物音を聞いた気がして、彬子は御帳台の暗闇の中で耳を澄ました。なぜだか心が騒ぐ。褥を抜け出し、御帳台から顔を覗かせて、そして気づいた。今宵は朔だ、と。
『鵲』は朔の夜に現れるのだとか───
まさか、と嫌な予感を追い払おうとしたけれど、その予感を確信に変えるような不穏な物音が、西の対の方から雷鳴の音に紛れてもう一度聞こえたような気がした。
「───二の姫!?」
衝き動かされるように御帳台を出た。誰も何も気づいていないのか、他に気配はない。
小袖の上に衾代わりの袿を羽織り、置かれていた大殿油*から手燭に火を移すと、音を立てぬように妻戸から滑り出る。遠くから僅かに届く雷の音が、袿の裾を絡げて西の対へと向かう彬子の衣擦れをかき消した。
渡殿を越え、西の対の妻戸をそっと押すと、やはりと言うべきか、掛金が外れている。
「鵲……?」
まさか、まさか、そのようなことがあるわけはない、そう心のうちに呟いた瞬間、彬子の恐怖に追いうちをかけるような雷光が閃く。
喉の奥に引っかかったような叫びをあげそうになり、思わず袖で口許を覆うと、竦みそうになる己を奮い立たせ、そっと妻戸の中に身を滑らせた。
中には燭の明かりひとつなく、闇が広がるばかり。そのまま足音を忍ばせて中に入り、二の姫が寝所としている御帳台に近づく。
幽かにぼうと灯のついている様子の御帳台のうちからは、男の気配は感じない。
間違いであろうか? でも……間違いでなかったら? 『鵲』が忍び込んでいるのだとしたら?
その時、あ……、と二の姫の声が洩れ聞こえ、彬子は堪らず声をかけた。
「───二の姫、いらっしゃる?」
その瞬間、すべての気配が消えた。
しばらくの沈黙のあと、やにわに飛び出してきた黒い影に、彬子は息を呑む。
それは、若い男だった。
話に聞いたとおりの、瑠璃*の括り緒*のついた黒い衣を身につけ、研ぎ澄まされたような空気を纏った男。
その双眸に静かな怒りのようなものを滾らせて、男ははたと彬子に視線を止めた。
二人の視線が絡んだのは、ほんの一瞬のことだったろう。それでも、その男の視線の強さに惹き込まれてしまうには充分な時間だった。
「……!」
彬子は咄嗟に手燭の火を吹き消し、顔を背けて袖で隠した。胸元で手燭を灯していたのだ。相手の姿がぼんやり見えたということは、灯に晒された彬子の顔はすっかり見られてしまっただろう。
再び訪れた漆黒の闇の中、塗籠から聞こえてくる、お姉さま? という涙まじりの二の姫の声に重なるように、男が低い声で囁いた。
「───そなた……」
そうして、彬子の方に手を伸ばしてくる気配。
怖い、怖いけれど───
彬子は顔を隠したまま、弾けたように声を上げた。
「だ……誰ぞ! 誰かある! 曲者です、早う!」
その瞬間、男はわずかに顔を歪め、伸ばした手を引っ込めた。すぐに、隣の曹司から人の気配がして、それに気づいた男はもはや何も言わず、素早く彬子の横をすり抜け妻戸から姿を消した。
入れ替わるように、反対側から二の姫付きの女房が慌てた様子で入ってきたのを目の端で捉えながら、彬子は御帳台に転がり込む。
「二の姫!」
褥の上に、小袖姿のまま呆然と座り込んでいる二の姫を、彬子は包み込むように抱きしめた。
「可哀想に、怖かったでしょう? もう大丈夫よ」
「……お姉さま……」
しがみつくようにして泣き出した二の姫の背を撫でた。見たところ、その衣に乱れはないようだ。
「何をされたの? 気持ちが落ち着いたら話してくださる?」
ひっくひっくと幾度かしゃくり上げた二の姫は、やがて彬子の胸から顔を上げ、そして言った。
「ありがとう……もう大丈夫、お姉さま……」
瞳に涙を浮かべて笑みを作ろうとする二の姫の髪を撫でながら、彬子は優しく続けた。
「怖い目に遭わなかった? 乱暴なことをされたり」
「何も……本当に、何もなさらなかったの」
彬子が眉をひそめて、本当に? と訊ねると、二の姫はこくこくと頷く。
「もちろん……目が覚めたら殿方がいて、驚いてしまったけれど。でも、怖い方ではなかったわ。わたくしの顔を見て、髪に触れて……そして」
「そして?」
そこで少し何ごとかを思い出すような表情を浮かべたあと、二の姫は言葉を続けた。
「───そしてただ、不躾なことをしてすまぬ、許せ、と。……ねえ、お姉さま、あの方が鵲の君なの?」
撫子
表が紅、裏が淡紫の、夏の色目。
細長
若い未婚の女性が着用する、唐衣の裾を細長く伸ばしたような衣。正装する時には袿の上に重ねました。
申の刻
現在の午後4時の前後2時間頃。
壺
寝殿と渡殿、対屋に囲まれた小さな庭のこと。四季折々の草花などが植えられ、時には遣水が流れていました。
鈍色
濃い鼠色のこと。喪服の色として用いられました。
若草
表が淡青(今の薄緑)、裏が濃青(今の濃緑)の、春の色目。
水干
主に元服前の男子が着用する衣。
鳰鳥
カイツブリのこと。
大殿油
宮中や貴族の邸で使った、油の灯火。
瑠璃
紫を帯びた濃い藍色。
括り緒
狩衣や水干など、活動的な衣の袖に通してある紐のこと。