登校日は二度と来ない
わたしは、肌にまとわりつくような汗の感触で目を覚ました。
首筋から背中にかけてじんわりと生ぬるく、額もうっすらと汗ばんでいるようだ。
宿題中に眠ってしまったのか、わたしは勉強机に顔をうつぶせる形で座っていた。卓上ライトの明かりもつきっぱなしで、小さな蛾が何匹か集まっている。
わたしはまだ半開きの瞼をこすりながら、とりあえず時計を見た。
……0時過ぎ、かなり中途半端な時間である。明日のことを考えると、もう一度寝た方がいいかもしれない。
でも、さっきまでのように熟睡はできなさそうだ。今日はかなりの熱帯夜らしい。
汗を吸って重たいシャツが、気持ち悪くて仕方がない。
ふと視線を横にずらすと、クローゼットに吊るされた制服が嫌でも目に入る。わたしは明日、半年ぶりにこの制服を着て学校へ行かなくてはならない。
クラスメイトたちの好奇と興味に満ちた視線が、いとも容易く想像できてしまう。
どうしてか鼻の奥がツンとして、涙が出そうになる。
そんな不安を振り払うようにして、わたしは制服をクローゼットの奥に押し込んだ。
それから服の山をかきわけ、薄手のTシャツと短パンを手に取った。とにかく今は、暑さを忘れるためにシャワーを浴びたいのだ。
わたしはそっと部屋を抜け出し、足音もなく風呂場に向かった。
特に両親の寝室前を通るときは、厳重に注意した。
母さんに見つかれば間違いなくお小言をぶつけられるだろうし、父さんとはあんまり顔を合わせたくないから。
脱衣所の脇のボイラー電源を入れると、ゴウっという獣の唸り声みたいな音が響いてくる。
今日は天気がよかったから、シャワーの温度が上がるまで時間はかからなそうだ。
わたしは着替えを脱衣所のカゴに放り込んでから、トイレに用を足しにいった。
そういえば昔、夜は一人でトイレに行けなかった時期がある。
確か、夏の特番でやっていた子供だましの――当時のわたしにしては、本当に恐ろしかった――ホラー映画を見た日からだったと思う。
わたしはしばらくの間、毎晩毎晩、あの映画の夢を見ては飛び起きていたものだ。
そして、そうやって飛び起きたとき。決まって、なぜかトイレに行きたくなっていた。
考えてみるとアレは、幽霊や怪奇現象を信じていた頃の話。つまり当時のわたしは、いるわけもないお化けの類を怖がっていたことになる。
ある意味、一種の被害妄想と言えるのかもしれない。
わたしはトイレを流そうと後ろに向き直った。そして、少しだけ鳥肌がたつ。
「ギャッ!」
完全に油断しきっていたので、思わず変な声をあげてしまった。
トイレの窓にぴったりと、ヤモリが張りついていたのだ。
真っ白な腹と足を器用によじらせ、窓を右往左往している。虫嫌いの人間には、身の毛がよだつ光景だ。
ヤモリは全身が白い虫だと勘違いしている人も多いかもしれない。事実、わたしがそうだったように。
わたしはすぐ、トイレを出た。
そうして風呂場に戻ると、ボイラーはすでに止まっていた。
わたしは嫌な汗を流すため、早々に服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
最初は冷たい水が肩を濡らしたが、徐々に温かいお湯になっていく。
暗い風呂場を、やわらかい月明かりだけが照らしている。シャワーの流れる音以外、そこには何もない。すべてがシャワーの音にかき消さる。
あまりにも静かすぎて、まるでわたし以外の人々が地球からいなくなってしまったような感覚に陥る。
今だけは、あの夏の暑さを忘れられる気がした。
シャワーを浴び終え、わたしは脱衣所に戻る。
足ふきマットを強引に踏むと、キュッキュッと乾いた音が鳴った。
わたしはすぐそばの棚からバスタオルを取り、さっと身体を拭いていく。そんな折のことだった。
――不意に、物音がした。
風呂場からではない。もっと近くから聞こえた気がする。
床がギイッ、ときしむような音。それはまるで、誰かの足音のようだった。
わたしは思わず、背後を振り返ってしまった。
しかしそこにあったのは、見慣れている脱衣所の姿だけだ。
使い古された脱衣カゴに、洗面用具がしまわれている棚。その隣には洗濯機と、鏡つきの洗面台が置かれている。
……ひどい顔。
ふいと、鏡にうつった自分の上半身を見つめてみた。
垂れさがった目じり、中途半端に開いた口、土色の頬。わたしはいつの間に、こんな情けない姿になっていたのだろう。
春ごろに登校拒否をし始めてから数か月、そういやロクに外出もせず自室に引きこもってばかりいた。
鏡なんて、もう何日も見ていない気がする。
ふとわたしは、鏡にうつる自分の首に違和感を見つけた。
なんだろう、くっきりと変な跡がついている。網目状の筋がいくつも、わたしの首を囲んでいる。何かで縛ったような、そんな跡が。
ためしに触ってみると、チクリと刺すような痛みが走った。こんな傷、前はなかったはずだ。
もしかして何かの病気? 頭の中が不安に占拠されそうになった時、わたしの感覚は驚くほどビンカンになる。
木々や葉っぱが揺れる音。どこからか聞こえてくる、消防車か救急車のサイレン。野良猫たちの激しい鳴き叫び。
意識しないと聞こえてこないような雑音が、すべてわたしの耳に入ってくるのだ。
そしてまた、あの足音。
しかも、わたしはこの足音を知らない。
母さんのドシドシとうるさい足音でも、父さんのやたらゆっくりとした重い足音でもない。わたしの知らない、誰かの足音。
わたしは、すっかり脱衣所から出るタイミングを逃してしまった。今日はここで、夜を明かすことになりそうだ。
雲が出てきたのか、脱衣所に差していた月明かりは消え失せてしまった。
まるで闇にすっぽり包まれてしまったような、言い知れぬ恐怖がこみ上げてくる。
自分の部屋で、明かりを付けずに寝転がっているときは、こんなにも怖くないのに。いざ暗闇を強制されてしまうと、途端に恐ろしさが襲ってくる。
わたしは水道水で喉を潤してから、静かに目を閉じた。
風呂場の方から、水滴の垂れる音が聞こえてくる。そして、それに合わせるように、リビングから時計の針の音が届く。
こんな経験が、昔にもあったような気がする。
この脱衣所よりもっと狭くてもっと暗い、湿ったにおいのする場所。
そう、押入れだ。たった一度だけ、まだわたしが小学生にもなっていなかったとき。
細かい経緯は忘れたが、とにかくわたしは大泣きしていたのだ。その横には珍しくオロオロしていた母さん、わたしの真ん前には鬼みたいな形相をした父さんが立っていた。
そして父さんは、無言でわたしを押入れに放り込んだ。
わたしは号泣しながら助けを求めたが、父さんは半日いっぱい押入れを開けてくれなかった記憶がある。
それ以降、父さんに叱られた記憶はまったく存在しない。
それなのにわたしは、未だに父さんに苦手意識を持っている。
もちろんわたしがこうして不自由ない生活を送れるのは父さんのおかげだし、本当はそれほど怖い人でないことも知っている。
ただ、それほどまでにあの記憶が生々しく残っているだけの話だ。
こうやって思い返してみれば、わたしは様々な記憶を失っているように感じる。
父さんを恐れる理由も、今になってようやく理解できた。実に、小さな小さな、くだらない理由だったが。
首の傷にも覚えがないし、最近の出来事もあまり思い出せない。
そもそもなぜ、わたしは登校拒否を始めたのか。その原因はおろか、キッカケすらも曖昧なのである。
何もかも中途半端で、未成熟。そんな自分に嫌気がさすことも、日常茶飯事だ。
そして今度は、女の子の泣き声が聞こえてきた。
すすり泣きのような、か細くて憂いを含んだ声。少しだけ、昔の私の声に似ている気がした。
わたしは意を決して、脱衣所から出ることにした。
もうこんなところには、居たくない。
そろりと扉を開け、一気にリビングへ飛び出した。
泣き声はキッチンの方から聞こえるが、無視して自室にダッシュする。
目の前に自室が見えてきて、わたしは慌てて急停止する。そして踵を返し、両親の寝室に向かう。
中学生にもなって情けない、そう思われたって構わない。
わたしはとにかく怖かった。もちろん、幽霊や怪奇現象が怖いという意味ではない。
自分が怖いのだ。『聞こえるはずのない』誰かの足音に怯え、『見えるはずもない』女の子の影を見てしまったこと。
『いるはずもない』ものに恐怖するなんて、これこそ本当に被害妄想ではないか。
「きっと薬の副作用よ、幻覚や幻聴症状が現れるって書いてあるんだから」
母さんはそう言っていたのを、思い出した。
わたしは不登校になってから、家に塞ぎ込むようになった。
それを心配してくれた母さんは、わたしを精神病院に連れていったのだ。お医者さんは正直言って、あまり親身に話を聞いてくれなかった記憶がある。
結局出された薬は、値段が高く副作用の強い薬。
母さんは「飲みたくないなら飲まなくてもいい」と言ってくれたが、わたしは毎日のようにそれを飲んだ。
半分はあの医者に対する反抗心で、もう半分は薬の効力で元気になれる自分がいたから。
本当のところ、どれが幻でどれが現実なのか、わたしには判別不能だ。でも、それでいい。
これが幻覚だろうが幻聴だろうが、わたしは不安で不安でたまらないのだから。
寝室は文字通り、もぬけの殻になっていた。
布団は敷きっぱなしで、タバコの吸い殻や缶ジュースやぬいぐるみが置いてある。わたしの不安は頂点に達した。
こんな夜更けに、両親が揃っていなくなるなんて。
不可解、なんて言うのは大げさかもしれないけれど。
もう自室に戻る気にもなれず、わたしは再びリビングに戻ってきた。そして、開きっぱなしになっているキッチンへの扉を見つめる。
あの子が、わたしの幻覚なのか本物なのか、確かめなくてはならない。
深呼吸をしてから、わたしはこっそりとキッチンへ足を踏み入れた。
そのキッチンは、わたしが知っていたソレとは微妙に違っていた。
冷蔵庫が、新しくなっている。ガスコンロが電気コンロになっている。料理の本が増えている。
まるでリニューアルオープンでもしたように、目にうつるもの全てが新しいものになっていた。
母さんはいつの間に、こんな大がかりな模様替えをしたのだろう。やっぱり、どこかがおかしい。でも具体的にどこがおかしいのか、わたしには分からない。
わたしが冷蔵庫を開けたり水道を出したりしていると、またか細い悲鳴がした。
今度は見失わない。食卓テーブルの真下で、全身を震わせながら女の子が泣いていたのだ。
彼女はわたしより一回り小さい、小学生くらいの子だった。
見たこともない女の子。しかしなぜか、彼女の名前だけははっきりと覚えている。
「麻衣」
わたしの声に、女の子がはっと顔をあげた。その表情は驚いているようにも、わたしを恐れているようにも見えた。
この子は、いったい誰?
麻衣(仮)は、恐る恐るテーブルの下からはい出てきた。
彼女は花柄のパジャマを着ており、かなり眠たそうにしている。
それでもよほどわたしが怖いのか、必死に目を見開いていた。
不意にわたしは、麻衣の着ているパジャマから目が離せなくなった。
これは確か、わたしが昔に着ていたものだ。
もう随分古いもののはずなのに、シミひとつない。どれほど大切に保管され、手入れされていたのかがうかがえる。
わたしが懐かしさに浸っていると、女の子がおずおずと話しかけてきた。
「どうしてわたしの名前がわかったの?」
彼女の名前は麻衣で間違いないようだ。けれどわたしは、彼女の質問に答えられなかった。
なぜなら私自身、どうして麻衣という単語が出たのか思い出せないからだ。
「あなたこそ、どうしてこんな時間に。……そんなところで震えていたの?」
本当ならもっと追求するべきところもあるのだろうが、あんまり彼女を動揺させたくない。
わたしは平静を装って、麻衣に問いかける。
すると麻衣は、見事に検討外れな答えを出してくれた。
「起きたらパパとママがいなくて。お風呂場には知らないお姉さんがいるし。怖くて怖くて」
どうやら麻衣も、わたしと同じく奇妙な経験の真っ最中らしい。が、彼女にとって一番の危機はすぐそこまで迫っていた。
「トイレ行くの、一人じゃ怖いから連れてってください!」
薄明りが漏れるトイレの前で、わたしはすることもなく立ち尽くしていた。
夜中のトイレが怖いのはよく分かるのだが、待たされるだけのこっちの身にもなってほしい。
「いますかー?」という麻衣の声がする度、わたしは「いるよ」と短く返事をした。
――あ、父さんに怒られた理由を思い出した。
わたしも昔、麻衣とまったく同じことをしていたんだ。
寝る前に水を飲みすぎるな、といつも父さんは言っていた。でもわたしはそれを聞かず、寝る前に水をたくさん飲んでいた。
そうして夜中にトイレへ行きたくなる度、わたしは父さんをたたき起こして付いてきてもらっていたのだ。
父さんも相当ストレスが溜まっていたのだろう。早朝から仕事があるというのに、毎晩のように無理やり起こされてはトイレの付き添い。
かといって付き添いを断ると、わたしが大声で泣き出す。近所迷惑になるのは目に見えている。
「今度から、トイレは一人で行きなさい!」
父さんは鬼みたいな形相でそう怒鳴り、わたしを押入れに閉じ込めた。
そしてそれ以来、わたしは一人でもトイレへ行けるようになったのだ。お化けなんかより父さんの方がよほど恐ろしい、と知ったから。
まあ、今思えば怖くもなんともないが。
そんなことだけで父さんを遠ざけていたなんて、わたしも悪い娘だった。明日、きちんと父さんに謝ろう。
「いますかー?」と麻衣。「いるよ」とわたし。
にしても長いトイレだ。ただ待つだけの時間がこんなにも長く感じるなんて。
あれ? どうしてかわたしは、強い既視感を感じた。
いつか昔も、わたしはこうやって麻衣を待っていたような記憶がある。
ただ当時の麻衣は「いますかー?」なんてしゃべることもなく、麻衣自身が「そこで待っていてください」と言ったわけでもなかった。
父さんも母さんもわたしも、自分の意志で麻衣がやってくるのを待っていた。
……違う。わたしは、わたしだけは。最後まで、麻衣を待っていられなかった。
「いますかー?」と麻衣。「いるよ」とわたし。
麻衣がふと、思い出したように「わたし実は、今日で七歳なんです!」と教えてくれた。
そうだ、今日――正確には昨日――は麻衣の誕生日。少し遅れてしまったけれど、わたしは麻衣に「お誕生日、おめでとう」と言っておいた。
記憶が泡みたいに、わたしの周りをふわふわと漂う。
少しずつ大きくなっていく母さんのお腹。
普段は無口な父さんが妙に饒舌になり、何かと母さんの手伝いをしていた。
母さんはしきりにお腹をなで、愛おしそうに名前を呼んでいた。
「ほら、芽衣もこっちに来て。お腹、触ってみな!」
薬のせいでフラフラとしていたわたしに、母さんは手招きをしてくれた。
父さんはただ、わたしと母さんのことを抱きしめてくれた。
「新しい家族ができるんだ。芽衣もお姉ちゃんになるんだぞ。……どんなに辛い状況でも、家族がいれば百人力ってな」
改めて父さんの言葉を思い出し、わたしは今になってようやく涙を流した。
母さんはお腹を撫でながら、彼女の名前を呼んだ。
「……麻衣」
ある家屋のトイレから、女の子の声がする。
「いますかー?」
誰かに返事を求めるように、女の子はしきりに叫ぶ。
だがしかし、答えようとする者はいない。
彼女は不安のあまり、泣き出しそうになる。
もう一度、彼女は声高らかに聞いた。
「いますかー!」
すると玄関のドアが開く音とともに、二人の男女が家屋に入ってきた。
そして彼らは顔を見合わせ、不思議そうな声を出した。
「どうした、麻衣? 誰に声をかけていたんだ?」
男がつぶやきながら、トイレの方に向かう。女もその後に続いた。
二人がトイレの前で待ち構えていると、やがて女の子はトイレから出てくる。
そして、彼女はキョロキョロとあたりを見回した。
「パパ、ママ! こんな時間にどこ行ってたの! し、心配したんだからあ。……あれー、あのお姉さんは?」
そう聞いてくる女の子の問いに、二人は戸惑いの表情を浮かべるしかなかった。
麻衣を待っていたお姉さんは、もうそこにはいなかったのだ。
これは私が、七歳の誕生日のときに体験した話です。
それは深夜のこと、私は唐突に目を覚ましました。
まだ一人で眠れなかった私は、両親の部屋で一緒に寝かせてもらっていたのですが。驚くことに両親がいなくなっていたのです。
私は両親を探し、家じゅうを駆け回りました。でも、父や母の影すら見当たらないのです。
そんな折、私は彼女に出会ってしまいました。
浴室でシャワーを浴びていた、半透明の彼女に。
土色の顔は明らかに生きた人間のものではなかったし、身体は恐ろしいほどに痩せていました。
そして一番驚いたのは、彼女の身体が浮いていたことです。
浮いていた、もとい、吊り下げられていた、と言った方が正しいかもしれません。
彼女は首にロープを巻き付けた格好で、シャワーを浴びていたのです。
私は恐怖のあまり、泣きながらキッチンへ身を潜めました。
でもすぐに彼女に見つかってしまって……。
「麻衣」と呼ばれたときは、本当にびっくりしました。しかし不思議と、嫌な感じはしなかったです。
結局その後、私は幽霊にトイレへ付き添ってもらうという、謎の体験をすることになりました。
それで気がついたら彼女は消えて、代わりに両親が帰ってきたのです。
後で聞いた話によると両親は、お姉ちゃん(私が生まれる前に死んでしまったそうです)の墓参りに行っていたとか。
「なぜわざわざ夜中に?」と私が聞くと両親は「さあ。……でも急に、あの子のことを思い出して、居てもたってもいられなくなった」と口を揃えて言っていました。
……最近、私はよく考えるんです。あの幽霊の正体、お姉ちゃんだったのではないかと。
そうかもしれない、というよりは、そうだったらいいなあ、という私の願望なんですけどね。
とりあえず私は、お姉ちゃんの墓参りに行くたびに、願わずにはいられないのです。
「どうか芽衣お姉ちゃんが、安らかに眠れますように」、と。