コーヒー店にて
*
「あ、待った?」
「いえ、大丈夫よ。約束の時間通りに来たし」
「そう?だったらいいけど」
あたしの真向かいの席に、彼氏の諄が座る。そしてやってきたウエイターにアイスコーヒーを一杯頼み、ネクタイを緩めて、椅子の背凭れに凭れ掛かった。ゆっくりと呼吸し続ける。多分スーツは暑いのだろう。だけどサラリーマンである以上、勤務時はスーツ着用が原則だった。
「奈々」
「何?」
「俺、今昼飯食った後で、午後からまた仕事があるんだ」
「そう?忙しいのね?」
「ああ。だけど、近いうちにまた会わない?君の部屋で」
「ええ、大丈夫よ。あたしも休日は予定空けてるし」
「じゃあ、また連絡するから。今日は短時間で済まないね」
彼がそう言って、持ってこられたアイスコーヒーをグラスに半分ほど飲んだ後、立ち上がる。そしてカバンを持ち、歩き出した。その後ろ姿をじっと見守る。独りでコーヒーを飲みながら食事休憩の時間を楽しんだ。さっきランチ店で日替わりを食べた後、この馴染みのコーヒー店に来る前に諄のスマホに連絡を入れ、ここで待ち合わせていたのである。
コーヒーを砂糖やミルクなしでブラックのまま啜り取りながら、しばらく店外の光景を見続ける。そしてスマホのキーを叩いた。彼にメールを打ったのである。<今度の休日はどう?会える?>と。
すぐに返信があった。<ああ、大丈夫だよ。その日はゆっくり出来るから。また連絡する。じゃあね>と打ってある。スマホを仕舞い込み、席を立って歩き出す。コーヒー店でのデートは空振りに終わったのだが、後日ゆっくり出来ると思うと楽しみだ。
*
あたしも普通に会社の一女性社員である。三十代でまだ肩書きはなかったのだが、高校卒業と同時に今の会社に入社したから、勤続年数は十年を優に超えていた。
「佐倉さん」
「はい」
「君の打ったこの企画書、誤字・脱字が多いから作り直して」
「分かりました。今からやります」
あたしを呼びつけたのは所属している企画部主任の小見山だ。結構いろいろと言ってくる。一々気に掛けずに淡々とやっていたのだが、小見山だけでなく、他の上の人間たちもあたしたちをこき使うのだ。こき使われていても、別に気にしてない。単にちゃんと仕事をしていれば済む話だと思っていて……。
「奈々」
「何?」
「あんた、彼氏いるんでしょ?確か星倉諄さんだったっけ?」
「ええ。……それがどうかしたの?」
「いや。あたしも彼氏欲しくてね」
同僚の中井景子は結構、男に拘る。景子も今は彼氏がいないらしい。ずっと付き合っていた元カレと別れて、今現在彼氏を探しているようだ。あたしも景子の尻軽さには呆れていた。その元カレとも、付き合って三年で別れたからだ。男をとっかえひっかえする女性である。外見だけで、中身には何の魅力も感じない。
「中井さんも佐倉さんも仕事して」
小見山が発破を掛ける。ちゃんとパソコンに向かいキーを叩き続けた。別に仕事自体、特別なものは何らないのである。刺激もなければ、退屈しかしない日常だ。そう思って日々過ごし続けた。オフィスに詰めているだけでも、景子のように給料泥棒に程近い人間もいるのだから……。
*
会社が休みの日の昼前、諄からスマホに連絡があった。すでに洗顔とメイクを済ませていて、部屋の掃除をし、準備を整えている。連絡を受けた後、待ち続けた。ニンジンやジャガイモ、玉ねぎなどの野菜と豚肉を切り、カレールーを溶かしてカレーを作ってである。作り終えてから鍋に蓋をし、待ち続けた。パソコンを立ち上げて、ネットをしながら、だ。
昼過ぎ、玄関先で物音がした。彼だろうと思い、玄関口に行って、扉越しに一応、
「どなた?」
と訊いてみる。
「俺。諄」
「ああ、今開けるわ」
そう言ってロックを解除すると、諄が顔を見せた。そして室内へと入ってくる。
「まだエアコン効かせてるんだね?」
「ええ。夏も終わりだけど、まだ蒸し暑いからね」
「俺も今年冷房病になっちゃっててさ。熱帯夜も続いたし」
「じゃあ疲れてるの?」
「いくらかね。でも大丈夫。夏ももうすぐ終わるし」
彼も将来のことに関しては、楽観的に考えているらしい。あたしも安心していた。ずっと続く苦しみなどないのである。人間は生きているうちに、全ての苦痛と悩み事が解消されるように出来ているのだ。そう思っていた。勤務先で営業職にいる諄と、企画部にいるあたしとではやっていることがまるで違うのだが、それも踏まえて付き合い続けている。
やがて夕食の時間になり、揃ってカレーを食べ、その後ベッドの上でゆっくりしていた。寄り添って性交する。遠慮なしに愛し合った。躊躇いなどない。ずっとそんなことを感じながら、休日を丸々一日一緒に過ごした。
性行為の後、混浴する。髪や体を洗い合うと、体に溜まっていたストレスや疲労が取れた。入浴後、タオルで髪を拭き、ドライヤーで乾かす。顔に乳液などを付け、綺麗にしてしまってから、諄と一緒のベッドに寝転がる。この間、コーヒー店ではあまり話せなかったことを覚えているのだが、今は別に気にしてない。一緒に居続けた。ゆっくりしながら普段のことを話す。いつもその繰り返しだった。だけど気にしてない。単に休日はいつもこんな感じだと思っていて……。
そしてまた抱き合うことで愛は徐々に深まっていく。いくら交際して長いとは言っても、極めてゆっくりと、だった。体が重なり合うたびに愛情が湧き出てくる。零れんばかりに。
(了)