猪々子、一刀たちに不意をつかれる
「良正様、いかがいたしましか?」
「ん?ああ、悪いね。ちょっと考えごとしてた」
馬に横乗りして後ろの方を眺めたまま進軍を続けていた猪々子は、配下からの声を聞くと、前方へと振り返った。決して安定しているとはいえぬ馬上の鞍に倒立すると、片手を離して、くるりと回り、再び鞍に座り直すという曲芸じみた動きであったが、彼女の周りにいた武士たちは、それがまるで朝になれば日が昇る程度の出来事であるかのように無反応であった。
実際、これくらいの行動は彼らの主人にとっては日常茶飯事なのだ。あまり落ち着きないが彼女は、馬での移動という一歩間違えれば死につながる行動の最中であろうと、飽きれば馬に乗ったまま座り方を変えたり、ときには鞍の上に立ち上がったりするのである。
にも関わらず、彼らの一人が問いを発したのは、後ろの方に視線を向けたまま、珍しく猪々子が一時間以上も次の動きを見せなかったからであった。
「考え事ですか、これは珍しいこともあったものだ」
おそらく配下の中でも一番長い付き合いであるだろう好々爺然とした男がそう軽口を叩くと、他の武士たちも彼の発言に同意するように笑い声を上げた。
「何だよ、あたいだってたまには頭を使うことだってあるさ」
「良兼殿のことですかな?」
口を尖らせかけた猪々子は、重ねられた質問に、今度は眉をひそめた。
「まあね、あたいの読みだと、斗詩の挙兵まで遅くて三日ってとこだったんだけど」
「今日でもう六日ですか」
「あたいほどの達人でも読みを外すとは、まったく斗詩道は奥が深いぜ」
考えようによっては、主力から見捨てられたとも言える状況であったが、猪々子の声に翳りのようなものは存在していなかった。そもそも、彼女が無断で斗詩の元を去ったのは、直感的に己の存在が相手の判断の邪魔になっていると悟ったからである。
その結果として、斗詩が自分の読みとは違う判断を下したのであれば、それはそれで猪々子としては満足のいく成り行きなのだ。
「戻りますか?」
一人で先行すれば4日で斗詩の膝枕か、そりゃ悪くない選択だな。猪々子はそう思ったが、首は動きは横であった。
「まさか、あたいは上総介である平良兼殿から将門への書状を預かった身だぜ。もちろん届けるさ。それにどうやら聞こえてくる噂じゃ、将門は大荷物と一緒に上洛の最中なんだろ」
「そうようですな」
「どう思う?」
猪々子の問いに、皺だらけの男の口角がぐいっと釣り上がった。不思議とより深く皺が顔に刻まれた男の顔は、何処かしら虎のそれに似ていた。
「格好の的かと」
その答えに、猪々子もまた獰猛に笑った。
「都じゃ、手紙一つ渡すのにも、しちめんどくさい作法があるけど」
「わしらは無骨な武士ですからな」
猪々子と男が太い笑い声を上げ始めると、それに唱和するように周りもまた笑い始めたのだった。
───
──
─
「まったく、一刀さまは。いつ何時、良正の襲撃があるかも分からないのに」
天幕からこそこそ出ると、スマホの明かりを頼りに小川へと続く小道に入った男の姿を見ながら、凪は小さくため息を吐いた。
「たとえ小用であっても陣から離れるときは傍に誰かつけるようにと、夕餉のときに進言したばかりなんですけどね」
今この場で、一刀を諌めるべきだろうか。凪は一瞬だけ思考をめぐらせたが、その案をすぐに否決した。
人間誰しも一人になりたいときというのはあるものだ。まして昼間、”天の御使い”として食料を配ったり、相談を聞いたり、崇められたりしている人なら尚更である。何かあれば駆けつけられる距離にさえいれば十分だろう。そう結論すると、彼女は気配を消し、一刀の背中を影のように追跡し始めた。
小川までの距離はそれほどなかった。
水が水に落ちる音を耳の端で捉えながら、凪は平家の武将というのは敵に回すと、何ともやっかいなものだなと改めて思った。今現在、彼女たちは平良正からの不定期の襲撃にひどく頭を悩ませていた。
凪たちの本隊は鈴々たちを除けば、残りは都の貴族への献上品を積んだ牛車の御者たちだけという、攻めてくださいと言わんばかりの編成だったが、それとは別に七乃の手勢からなる分隊が存在していた。
本隊の護衛、斥候、情報収集などの裏仕事を一手に担う分隊の総数がいくらになるかは、凪たちには知らされていなかったものの、七乃が鈴々の護衛に兵を惜しむ理由もない。数からしても錬度からしても十分な兵が連れてこられているはずである。
その兵たちが、陽動など担う別働隊はあるにしても良正本人を含むたったの三人の武士にいいようやられたという報告を聞いたとき、凪は最初、七乃の冗談かと思い、次いで祭に良正の神技を問いただした。
疲れない能力。良正の<健身>をそう説明されたとき、凪は正直、拍子抜けした気分であった。
身体を鋼の如き硬さに変える<鉄身>や、骨折すら瞬時に治してみせる<快癒>といった他の反則じみた平家の武将の神技に比べれば、なるほど似た系統なのだろうが疲労の回復という能力は、あまりに地味に思えたし、そんな力では現状を説明できないとも思ったからだ。
だがそんな考えは、次の襲撃の際、馬では到底走れぬ道を鎧を着たまま全力で疾走しながらも息一つきれない良正が、こちらに向かってきた瞬間にあっけなく消し飛んだ。なにせそれだけでも十分にありえないのに、その両肩には鎧に身を包んだ大の男が左右に一人ずつ担がれているのである。
「押し潰されるかもと思いましたね」
あまりにも無様な死に方を想像して凪はぶるりと身体を震わせた。そのときは七乃の兵が包囲陣を敷こうとしていることを察した良正の方が、急に方向を転換したからよかったが、直進されていたら間違いなく死んでいただろうという確信が彼女にはあった。
体当たりは避けられるかもしれない。しかし、疲労を知らぬ良正と死合って勝つためには、最初の一撃で相手に痛手を負わせる実力が必要なのだ。凪にはそれが欠如していた。
「姉さんたちと三人なら、手数もありますし勝てなくはないでしょうが」
あれだけの機動力を誇る相手が、わざわざ自分たち三人に包囲されてくれるわけないか。凪は自分の負け惜しみを鼻で笑うと、ちょうど水音が切れたこともあって、一刀の方に意識を戻した。
小水を出し終えたはずの一刀は何故かその場で動かなかった。
凪はその姿を怪訝に思ったが、次の瞬間には彼の方へと駆け出していた。一刀の身体が小刻みに上下に揺れ始めたからだ。
「一刀さまっ!」
叫びながら一刀に走りよった凪の脳内にあった、可能性は二つ。一つは不覚にも気づかなかったが川の向こう岸から彼が弓で射られたということ、もう一つは何処かのタイミングで毒を盛られたということだった。
結論から言えば、そのどちらも正解からは程遠かった。
一刀はただ自分のいちもつを上下に擦っていただけだったのだ。
「えっ?」
「えっ」
沈黙。
「すいません、一刀さま」
我に返ってとりあえずズボンの中に自分のものを仕舞おうとした一刀に対して、凪は深々と頭を下げた。
「謝らないでよ。凪に言われたのに一人で出歩いた俺が悪いんだし」
幻滅されたよな。一刀は心の中で身悶えしながら、表面上は何でもなさそうな顔で凪を取り成した。もちろん、言外のニュアンスは明白である。謝るべきなのは、彼が彼女に無断で一人歩きしたことなのだ。
しかし、男性のそういう微妙な強がりを察せされるほど、凪には経験というものがなかった。彼女は愚直に、彼の行動にフォローを入れた。
「いえ、襲撃からこちら、せわしなくなって一刀さまはずっと一人寝ですし。仕方がないのではないかと」
いたまれないってこういう感情を言うんだろうな。一刀があまりにも真っ直ぐな凪に対してどう答えるべきか窮していると、彼女の方は何を思ったのか口早に言葉を続けた。
「あの、もしよろしければ、続きをなさって下さい。なるべく遠くの方で見ていますので」
一刀は凪の顔をまじまじと見たが、どうやら完全に善意の発言らしいと悟ると、小さく首を横に振った。
「気持ちだけもらっとくよ。そう言われて、すぐにどうこうなるもんでもないしさ」
「そういうものなんですか」
「うん、まあ、わりとそういうものだよね。じゃあ、俺寝るか──」
そう言ってその場を去ろうとする一刀の制服の袖を、凪は右手でぎゅっと掴んだ。その顔は紅に染まっていたが、幸か不幸か夜の闇と彼女の褐色の肌の色が、一刀からその事実を完全に隠蔽してしまっていた。
「わ、わたしに何かお手伝い出来ないでしょうか?」
あれ?俺、なんかイラっときてるな。一刀は頭の片隅で、自分の心理状態が常ならぬ方向に導かれていることを把握したが、口の方の既に動き始めてしまっていた。
「手伝うって、凪、何するか分かってるの?」
「いえ、その、教えて頂ければ出来るではないかと」
一刀の声に篭った圧のようなものを感じたのか、凪の声には弱弱しい響きがあった。普段の彼であれば、これだけで調子に乗ったと平謝りしてしまいそうところであったが、今の彼はそれを聞いても心の中にあった黒々としたものが燃え上がるだけであった。
一刀は先ほど慌ててしまった愚息を、改めて外に出した。
「じゃあ、触ってくれるかな?」
「は、はい」
何やってんだろうな、俺。おずおずと近づいてきた凪が上目つかいにこちらを見ながら、己のものをそっと掴んだ感覚に軽く震えを覚えつつも、一刀にはまた自分の行動をいぶかしむ余裕が残っていた。彼の中では、キス一つしないでいきなり性器を触らせるというのは、かなり逸脱的な手順だったからだ。
しかし、結局のところ、性欲に負けた。一度の中断を経て、じっとりと腰の深いところに溜まった快楽の予感を無視できるほど、彼も枯れてはいなかった。それになんとなく、この方向性で間違っていないような気もしたのだ。
「どう?触ってみた感想は?」
「熱いです、とても」
何処かおびえのようなものを含んだ凪の声音に、一刀はさぐるように問いを発した。
「何が?」
その問いかけに、凪が言葉にならぬ声を数度出した後、下を向いてしまった。
調子に乗り過ぎたかな。一刀は一瞬だけそう思った後、すぐに自分の考えを否定した。まだ凪の手は自分のものを包む込むようにしっかりと置かれていたからだ。
一刀はあえて問いを重ねるようなことはせず、自分のものを握っている凪の手の上に自分の手を乗せると、彼女の手を使って先ほどまで自分がしていた行為を再開した。
沈黙の中、肌と体液とが奏でる淫靡な水音だけが、二人の間に響き、一度目の堰が簡単に切れた。それでも一刀は何も言わず、まだ衰えぬことを知らぬ剛直と凪の手を使って、先ほどより粘度の増した音を奏で続けた。
自分の手が一刀に侵食され、熱を持った何か別のものに作り変えられたかのような錯覚が、凪の脳みそを沸騰させる。手に生じている高熱はいつの間にか、腕へと、そこから上半身、そして下半身へと広がっていくように彼女に思えた。
もし凪に経験かあるいは知識というものがあったなら、己がこの異常に状況に酷く発情しているのだということが分かっただろう。
少なくとも一刀はこの時点で、自分の中にあった予感のようなものを、確信へと変えていた。
「あ、あの──」
凪のあえぐような声を、一刀の感情のこもらない言葉が切り捨てた。
「何がかな?」
嗚呼、言わなくてはいけないんだ。それ以上強制されるでもなく、凪は先ほどは口にしなかった言葉を、小さくしかしはっきりと口にのせた。
「───です」
喜んでくれるだろうか。そんな凪の予想は、一刀のため息であっけなく蹴散らされた。
「そんな言葉を口にするなんて、凪って、いやらしいんだね」
「わたしは、ちがっ」
「違わないよ」
言葉と共に、一刀は重ねていた凪の手をより強く握りこんだのだった。二度目の射精は、彼の意図した通り、全て彼女の手の中に叩きつけられた。
「あっ」
そのあまりの熱さが凪の脳みそを真っ白にして、それ以上の言葉を紡がせなかった。そして、そんな彼女の頭に、一刀の言葉はまるで暗示のようにするりと入り込んだ。
「川を見てみればいい。凪がどんなにいやらしい顔してるか分かるから」
光源のない夜に水面が人の姿を映すいわれはない。
だが凪の瞳は確かに、川の中に自分のみたい顔を見たのだった。
とてもいやらしい牝の表情を
───
──
─
「凪ちゃんが叫んだから何かと思って、走ってきてみたらなの」
「いや、まったく二人とも少しは状況ってやつを考えて欲しいわ」
「そうだよな、あんなの見せ付けられちゃ、男日照りの身にはつらいぜ」
現在、三人の目の前では、一刀が凪を熱烈に愛している真っ最中であった。その後背位による獣もかくやという激しい交わりに、見ている側は三者三様のリアクションを示した。
「ちょっと羨ましいの。あのお尻叩くのはどうかと思うけど」
「羨ましいって、沙和は大概やね。わいはちょっと怖くなってしもうたんやけど」
「けど、あれだろ?声の感じからすると、やられてる方も満更でもないみたいだし。二人がそれでいいなら、いいんじゃね?」
その言葉に呼応するように、抑えても抑えきれぬとでも言わんばかりの低い切れ切れの嬌声が、また凪の口からこぼれ落ちた。三人はそれぞれに少しばかり身体をくねらせたが、そこは気づかないのがマナーというものである。何事も無かったかのように会話を再開した。
「まぞって、やつなの。苛められて喜ぶ人のことを天の国ではそういうらしいの」
「まさか、凪にそんな癖があったとはなぁ。けど確かに考えてみると、あの子ちょっかい掛けられ待ちみたいなとこ、無くは無いか」
「その、まぞってやつはやく分からないけどさ。あの子のそういうの、あたいは別に分からなくはないよ。弱いところも認めて欲しいってことだろ。やっぱ、そういう相手は必要だと思うぜ。人生にはさ」
何処か遠くを想うようなそのセリフに、真桜と沙和は良いこと言うなぁという風に、深く頷いた。
「そういう意味では、一刀さまは適任なの。あの凪ちゃんに自分のやつがついた手を舐めさせるところとか、情け容赦なくって、見てるこっちまでゾクゾクきたの」
「そこから、ご褒美とでも言わんばかりに、何のためらいくもない舌入れて接吻やもんな。怖いお人やで」
「二人とも、よく見てんなー。わたしそこまで夜目利かないわ」
「冗談きついの。凪ちゃんの神技が一番こういう状況に向いて──」
「どうしたんや、沙──あっ」
「えっ?」
二人の視線が三人目へと向けられた。そこにいたのは当たり前の話だが、現在進行で一刀に抱きに抱かれている凪ではなかった。
「つかぬことをお聞きしますがなの」
「おたくさん、誰や?」
やばい、これで捕まったら、斗詩にどうやって言い訳しよう。猪々子は一目散に逃げ出したのだった。
何か、違うんですよね。二次創作の難しさを噛み締めております。




