斗詩、猪々子と道をたがえる
エタらせない。
「寝っ転がるなら自分の部屋でしてくれない?」
「なんだよ、そんな他人行儀に。あたいと斗詩の仲だろ」
いちよう私、平家の棟梁なんだけどなぁ。先ほどからこれ見よがしに机の前に座っている自分の目の前でゴロゴロと右に左に転がり続けていた平良正こと猪々子が、ローリングを止めるでもなく返事をしてきたのを眺めながら、斗詩はすっかり癖になってしまったため息をついた。
「あのね、文ちゃん。見れば分かるでしょ、私、仕事してるんだけど」
「けど、それだって、どうせ返事来ないんだろ」
自分でも薄々そうなるのではないかと思っていたことをズバリと言われて、斗詩はかすかに眉をひそめた。
「文ちゃんさ、わたしが怒って、何かするとか考えたりしないの?」
確かにあたいのとこぐらいなら、やろうとすれば簡単に飲み込めるだろうな。血の気の多い一門の者からは優柔不断だの臆病者だの陰口を叩かれたりもするが、平の棟梁を継いでから幾星霜、堅実に関東での地盤を固めてきた斗詩の勢力は決して侮れるものではない。そのことは彼女の努力を誰よりも近くで見ていた猪々子が一番良く知っていた。
「まあ、斗詩があたいのことをまた真名で呼ぶようになったら考えるよ」
その言葉に、話しながらも先ほどから動き続けていた斗詩の筆がぴたりと止まった。
文ちゃんというのは、猪々子が子供の頃に名乗っていた幼名である文から来ていて、本来であれば、真名を許しあった間柄であろうと、気安く使っていいような名前ではない。というより、わざわざ幼名を使うということは、その相手のことを一人前だと認めていないということであって、一般的には侮辱以外の何ものでもなかったからだ。
まったく、これだから斗詩はなぁ。少し血の気の引いた顔をしている親友を見て、猪々子はため息とともに立ち上がると、相手の横に立ち、その短く切り揃えられた美しい黒髪をポンポンと叩いた。
「あのな、斗詩。あたいの性格を考えろよ。ほんとに嫌だったら嫌って言うから」
「けど、文ちゃんだって本当はやめた方がいいと思ってるんでしょ?」
「さっきも言ったけどさ、あたいと斗詩の仲だろ」
袖を掴んでくる手をほぐすように撫でながら、猪々子は意識して優しい口調で話しかけた。
「そりゃ確かに、斗詩が急にあたいのことを文ちゃんって呼んできたときは吃驚したけど」
親友を改めて祝おうと、棟梁の襲名から一ヶ月ほど後にふらりとこの屋敷を訪ねたときのことを思い出して、猪々子は少しばかり苦いものを感じた。
突然現れた彼女を、斗詩は配下の者たちがいる前で、童のようなあどけない笑顔を浮かべたまま「文ちゃん」と呼んだのだ。勘が鈍いことに定評のある彼女だったが、このときばかりは自分が親友が新しい平の長として限界まで引き伸ばしていた精神の糸を無造作に切ってしまったことを悟らざるえなかった。
幸いというべきか、斗詩の乱調はその一点だけで、他の面では普段と変わらなかったため、表立ってはそれ以上は問題にならなかったが、武家である平一門の中で、そういった振る舞いが良しとされる訳もない。なまじ斗詩が有能であるからこそ、下卑た中傷の類は常に彼女たちを取り巻いて絶えることはなかった。
「ごめんね、文ちゃん」
「別にあたいは謝られるようなことされてないよ」
「うん、ありがとう」
一段落つき、筆がまた動きだしたところで、猪々子は最初に話題に戻った。そもそも斗詩がかもしだす空気に負けてだらけてしまったが、今後の方針を確認することが、この部屋を訪ねた目的だったのである。
「でさ、そろそろ色々とはっきりさせようぜ。なし崩しで戦ったりしたら、勝てるもんも勝てなくなる」
斗詩の配下たちは主人の人柄を反映して、馬鹿みたいに血の気が多い者は少なかったが、それでも武士は武士、戦いを嫌うような者はいなかったし、事が平将門と平国香の争いに発する以上、棟梁として断固とした態度を取るべきだという意見も多かった。
それを斗詩が事実を確認するのが先だと言って抑えていたのだが、いくら文を出しても返事はなく、聞こえてくる噂は将門の悪逆非道を訴えるものばかりの状況とあっては、日に日に斗詩の立場が弱くなるのは避けらない事態だった。
「偵察にいかせた奴どころか、文を持たせた使者も返ってこないんだぜ。後ろ暗いところがあると思うのが普通だろ?」
配下の大半の意見は要約するとこれに尽きた。正当な理由がないからこそ、黙んまりを決め込むしかないというわけである。しかし、この意見を取るには斗詩には智謀がありすぎた。
「それが変なんだね。そりゃ侮られてのかもしれないけど、わたしは平の棟梁だよ。弁明の一つくらい書き送ったところで、損になることなんて絶対に無いんだし」
「けど実際に送って来ないわけだしなー」
だから不気味なのだ。斗詩は評定の場で何度もそう力説したが、猪々子を含め彼女の懸念を理解した者は誰もいなかった。
実際、彼女もそれ以上のことは何も言えないのだ。頭の中には、相互の連絡を妨げいる第三者の可能性がちらついていたが、それはあまりに馬鹿げた説のように彼女には思えた。互いの仲違いを誘うならともかく、これでは精々が今のような膠着状態が限度である。策によって得られる効果と、そのための必要な労力があまりにもちぐはくなのだ。
普通に考えれば、文は間違いなく届いており、その上で文は握りつぶされ、使者は殺されている。それが意味するのは平将門はとてつもない馬鹿か気が狂っているという結論だった。
「いっそのこと、誰か一戦交えてくれれば楽なんだけどね」
斗詩の口からポロリと本音がもれた。彼女がここまで静観を決め込んだ背景として、後継者を三人殺されたとされる源護が先に動いてくれないだろうかという思惑があった。あわよくば漁夫の利を狙ってのことだったが、物事はそうそう上手く運ぶものではなく、むしろ源護が都に送ったされる訴状の件で、斗詩の立場は苦しくなっていた。
もし都が将門の非を認めた場合、一門の棟梁として何もしなかった彼女の資質が問われることは確実だからだ。それまでに将門を非難するなり、あるいは支持するなり立場を決めておかねばならないのだが、彼女はまだ表立っては態度を決めるには至っていなかった。
実のところ斗詩としては、聞こえてくる噂が全て本当であったとしても、きちんと交渉が出来る相手ならば将門を許す心積もりであった。確かに叔母の殺害は褒められたことではないが、結局のところ平家は武門である。勝者はただ勝者であるだけで讃えられるに価するし、身内同士で争って、これ以上兵を減らすことに意味があるとは思えなかったからだ。
だが、許すにしても形というものがある。仮に斗詩が相手の方まで出向いて、叔母の殺害を不問に処すといった沙汰を下せば、世間の人間は将門の武に平の棟梁が恐れをなしたと見るだろう。このような評判は、将門を含めた平の家の者全員に不利益になりかねない。
なぜなら、平の棟梁の地位は、何よりも都からやってきた平高望の血が持つ高貴さに支えられたものだからだ。それが武力によって脅かされるものだと認識されることは、関東における平家の影響力の基盤を叩き壊すことになる。
それだけは是が非でも避けなくてはならない。とはいえ、これ以上領地にこもって相手の出方を見ることが本当に正解なのだろうか。彼女が文の最後に花押を描きながらそんな物思いに耽っていると
「斗詩もやっぱ、そう思うよな」
猪々子の妙に溌剌とした声が、それを打ち破った。
「えっと、ごめん、文ちゃん、何が?」
「いや、斗詩は色々と複雑に考えすぎだと思ってさ」
自分の黒髪を優しく撫でてくる手を払いのけながら、斗詩の相手の言葉に少しだけ口を尖らせた。
「あのねぇ、文ちゃんが、何も考えなさ過ぎなの!」
「いや、あたいだってこう見えて色々と考えてるんだぜ」
「例えば?」
「今日の夕飯は何かなとか」
「他には?」
「明日の朝──」
「もういいよ、文ちゃんに聞いたわたしが馬鹿でした」
笑いそうになる自分を隠すように、わざとらしくため息を吐くと、斗詩は大きく一つの伸びをした。
「まっ、確かに考えたってしょうがないことってあるよね。もしかしたら、これも将門の思うツボなのかな」
「そうだぜ、斗詩はあたいらの大将らしくドーンと構えてくれてりゃ、それでいいんだよ」
文ちゃん、さっきと言ってることが全然違うんだけどなぁ。斗詩は少しだけ違和感を覚えたが、別に口に出したりはしなかった。彼女の親友の言ってることが割と支離滅裂なのは、今に始まったことではなかったからだ。
「ところで斗詩、その手紙書き終わったなら、あたいが渡しとこうか?」
「えっ?悪いよ、文ちゃんにそんな小間使いみたいな真似」
「気にすんなって、あたいと斗詩の仲だろ」
「もう、何それ」
胸を張ってそう主張する猪々子の様子が面白くて、斗詩は手元にあった手紙を笑いながら友に渡した。これが二人の運命を大きく分けることになるとは、このときの彼女は知る由もないのだった。
───
──
─
翌朝。
斗詩は、慌しく廊下をかけてくる誰かの足音で意識を覚醒させると、枕元にあった刀に素早く手を伸ばした。
「何事か!」
彼女の吼えるような一声に、今まさに部屋の戸を空けようとしていた小姓は、雷に打たれたかのように動きをやめた。
「良兼様、良正殿が出奔なされました!」
思いがけない言葉に、斗詩の頭の中は一瞬真っ白になりかけたが、すんでのところで次の問いが口から滑り出した。
「数は?」
「良正殿の手勢を全て連れて、将門の領地の方へ脇目も振らずに駆けていったということです!」
あの、馬鹿っ。小姓の言葉を頭に収めながら、彼女は猪々子との昨日の会話を思い出して、ほぼ正確に友の突然の出奔の理由を掴んでいた。
「──をここに」
斗詩は叫びだしそうになる自分を務めて抑制すると、次の使者を努めることが決まっていたとある武士の三男坊の名前を抑揚のない声で、小姓に告げた。
しばらくして、突然の呼び出しと騒然する屋敷の空気に、真っ青な顔をしている若武者に斗詩は端的に事実を尋ねた。
「手紙は?」
「はっ?何のことでしょうか?」
「もういい。下がりなさい」
「いや、しか──」
「下がれと言っているのが、聞こえなかったんですか?」
斗詩の凍えるような目に睨まれて、日ごろから今の平家の棟梁など恐れるに足りないと豪語していた彼は、追い散らかされる鼠のような無様さでその場を辞した。
”あたいが渡しとこうか?”ね、まさか文ちゃんに一本取られるなんて思ってもなかったな。斗詩は己の迂闊さに自嘲の念を抱きながら、冷静に次に打つべき手を思案していた。
平良正を使者に立てるという策自体は悪くない。平家の中でも正面から彼女を倒せるのは将門と国香ぐらいのものだろうし、斗詩との昵懇な関係が家の者の中では周知の事実であることを考えれば、良正に手をかけた時点で、交渉の余地は全く存在しないということと同義だからだ。
現在の煮詰まった状況を打開する手としては有りだけど、捨石なんて絶対に認めないよ、文ちゃん。斗詩の頭の中で数百の策が浮かんで、その全てが却下された。どの策を選んだところで、高い確率で猪々子の命が失われるからだ。もちろん、希望的予測も存在する。だが、そんなものに身を任せるのは彼女の性ではなかった。
何もせずとも最良の結果が与えられるほど、この世界は彼女に甘くはない。そこまで考えたところで、斗詩は自分が一体何を勘違いしていたのか悟った。
「そっか、わたしが惜しんでたのは平家の名なんかじゃなくて──」
文ちゃんの命だったんだ。言葉は最後まで音になることはなかった。それは世界中で斗詩と猪々子だけが分かっていればいいことだったからだ。
相手の出方が分からないなら、文ちゃんの行動が無意味になるくらい挑発すればいい話だよね。小さく口角を上げると、斗詩は心配げに声をかけてきた小姓に、おもだった配下を自分の部屋に集めるように命令した。
走っていく小姓の背を見ながら、斗詩はこれから自分がしようとしていることを思った。客観的に見て、現在の自分の結論が間違ってはいないはずだ。勝ちにいこうとするなら、むしろ行動に出るのが遅すぎたとすら言える。ただ主観的に見て、それはたった一人の人間のために、多くの人間の命を捨てるかもしれない選択だった。
「結局、わたしって棟梁に向いてなかったんだろうな」
自嘲交じりにそう呟いた斗詩の顔に、少しばかり怪訝な表情が浮かんだ。先ほど廊下の角を曲がって視界から消えたばかりの小姓が、また視界に映ったかと思うと、こちらに向かって全力で走ってきたからだ。
「何か?」
「良兼様、平貞盛殿が屋敷を訪ねておいでです」
斗詩の背筋にとてつもなく嫌な感じがよぎった。ただ、それを信じて行動するには、彼女はあまりにも現実主義者だった。
「ここまで通しなさい」
こうして、しばしの間、二人の道はたがえたのだった。
去年から書いてはいたのですが、どうにもしっくりこないまま、ずるずると来て今に至りました。
とりあえず、ことよろということで。