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「気の利いたことは言えない」と言う旦那様を毎朝ひとつ褒めていたら、褒めるところが毎朝増えていきます

作者: みれいぬ
掲載日:2026/10/20

「先に言っておく。私は、気の利いたことは言えない」


 王都の教会で式を挙げて三時間。ハロウェイ伯爵領へ向かう馬車の中で、私の旦那様になったばかりのオーウェン・ハロウェイ伯爵は、窓の外の麦畑を見たまま、そう言った。


(知っています)


 と、私は心の中で答えた。今日、祭壇の前で旦那様が口にしたのは、「誓う」と「はい」と、指輪を落としかけた私への「大丈夫だ」の三つだけだった。王都で一度だけあった顔合わせの日も、似たようなものだった。


 旦那様は二十六歳。三年前に家督を継いだ伯爵で、背が高く、黒髪で、灰色の目をしている。顔のどこもほとんど動かない。縁談は私の前に三度あって、三度とも相手のご令嬢のほうから断ったそうだ。理由はそろって「何を考えていらっしゃるのか分からない」だったと、仲立ちをしてくださった旦那様の叔母様から聞いている。


 私はエルシー。ダンフォード子爵家の次女で、二十歳。今朝から、ハロウェイ伯爵夫人になった。


「だから」と旦那様は続けた。「君を退屈させると思う。それは先に詫びておく」


 詫びると言いながら、旦那様の顔は窓のほうを向いたままだった。


「旦那様。うちの両親の話をしてもいいですか」


「……ああ」


「父と母は、毎朝、朝食の席で、相手のいいところをひとつ口に出すんです。結婚した次の朝から二十四年間、一日も欠かさずに」


 旦那様が、ようやくこちらを見た。灰色の目が、何を言われたのかを確かめるように一度まばたきをする。


「決まりが三つあります。本当のことだけ。お世辞は数えません。具体的に。『素敵』や『お優しい』だけでは数えません。それから、同じことは二度言わない」


 私は指を三本折って見せた。


「今朝、父は母に、『君は紅茶を注ぐとき、私のカップから先に注ぐ。二十四年、一度も間違えない』と言いました。母は父に、『あなたは娘の結婚式の朝なのに、いつもどおりに手紙を読むふりをしている。同じ一通を、もう三回読んでいる』と」


 旦那様は黙っていた。


「母が言うには、父も昔は、ほとんど口をきかない人だったそうです」


 車輪が石を踏んで、馬車が小さく揺れた。


「ですから、気の利いたことは、私が言います。毎朝ひとつ」


 しばらく、車輪の音だけがした。


「……私は、返せない」


「返さなくていいんです。私が勝手に見つけて、勝手に言います。これは私の家の決まりで、旦那様に守っていただくものではありませんから」


 旦那様はまた、窓の外へ顔を戻した。麦畑が途切れて、なだらかな丘に羊が散らばり始めていた。


「……好きにしてくれ」


(はい。好きにします)


◇


 屋敷に着いたのは、夕方だった。


 石造りの三階建ての前に、使用人たちが並んで待っていた。白髪をきっちり撫でつけた年配の男性が、一歩前に出る。


「お帰りなさいませ、旦那様。奥様、ようこそハロウェイ家へお越しくださいました。執事のボドリーでございます」


 旦那様は馬車を降りると、並んだ使用人の前を端から順に歩いた。


「ボドリー。マーサ。トム」


 一人ずつ名前を呼んで、短く頷く。それだけだったけれど、呼ばれた人は皆、背筋を伸ばして嬉しそうに頭を下げた。厨房の下働きの少女も、厩番の若者も、腰の曲がった庭師頭も。二十一人の名前を、旦那様は一度もつかえずに呼び終えた。


(明後日のひとつが、決まった)


 それから旦那様は、私の手を取って、正面の石段を上った。


 婚礼のドレスは裾が長い。誰かと並んで階段を上ると、必ず一度は踏まれる。今朝も教会で、父に二度踏まれた。


 旦那様は二段目で足を止めると、私の手を離して後ろへ回り、引きずっていた裾の端を片手で持ち上げた。それから、私より一段下を歩いた。私が一段上がるのを待ってから、自分も一段上がる。最後の段まで、ずっとそうだった。裾は一度も踏まれなかった。


(明日のひとつも、決まった)


◇


 一日目の朝、食堂の大きな窓から、南の庭に朝日が差していた。


 八時ちょうどに旦那様が入ってきて、向かいの席に座った。給仕は執事のボドリーと、昨日名前を呼ばれていた若い従僕のトム。焼きたてのパンと卵と、薄く切ったハムが並ぶ。旦那様には珈琲、私には紅茶。


 旦那様が匙を手に取ったところで、私は言った。


「旦那様。今日のひとつです」


 匙が止まった。


「昨日、正面の石段で、私の裾を持って、最後の段までずっと一段下を歩いてくださいました。長い裾で並んで歩くと、必ず一度は踏まれるんです。昨日は一度も踏まれませんでした」


 旦那様は匙を持ったまま、動かなくなった。


 ボドリーの手が、珈琲のポットを傾けたところで止まっている。トムは目を丸くして、旦那様の顔と私の顔を見比べていた。


 長い間があった。窓の外で、庭師が熊手を動かす音がした。


「……そうか」


 それだけ言って、旦那様は卵を食べ始めた。顔はいつもどおり、どこも動いていない。ただ、黒い髪からのぞく耳の先が、さっきより赤かった。


(お返事を、いただきました)


 旦那様はあっという間に食べ終え、珈琲を一息に飲み干して席を立った。扉のところで一度振り返りかけて、そのまま出ていった。ボドリーがようやく、ポットの傾きを戻した。


 昼過ぎ、荷ほどきを手伝ってくれていた侍女のペグが、声をひそめて言った。ペグは実家から一緒に来てくれた、五年来の付き合いの侍女だ。


「奥様、聞いてくださいよ。厨房じゃもう、旦那様の耳の話で持ちきりです」


「もう?」


「マーサさんが言うには、旦那様の耳があんなに赤くなったのは、坊ちゃまの頃に樫の木から落ちたとき以来だそうで」


(木から落ちても、耳は赤くなるのね)


◇


 二日目のひとつは、「使用人に挨拶するとき、必ず名前を呼びます。屋敷に着いた日は二十一人、一度もつかえませんでした」。


「……そうか」


 三日目は、「インク壺の蓋を、使うたびに閉めます」。屋敷を案内してもらったとき、旦那様は書斎で手紙を一通書く間に、蓋を四回開けて四回閉めていた。


「……そうか」


 五日目は、「ヒューゴと歩くとき、歩幅を半分にしています」。ヒューゴは先代の頃からいる十二歳の猟犬で、後ろ脚が弱って速く歩けない。朝、庭の小道で、背の高い旦那様が老犬に合わせて小股に歩いているのを、私は二階の窓から見ていた。


「……そうか」


 十四日目は雨だった。「雨の日は、御者に先に外套を着せてから、馬車に乗ります」。


 二十日目は、「苦手なディルを、料理長に言わずに全部食べています」。この日は、空いた皿を下げにきた料理長のマーサが、厨房に戻る前に皿をじっと見て、何も言わずに戻っていった。翌日から、旦那様の皿にだけディルが載らなくなった。


 旦那様の返事は、毎回「……そうか」だった。


 変わったのは、時刻のほうだ。


 一日目、旦那様は八時ちょうどに食堂に来た。十日目には、七時五十分に来ていた。二十日目、私が八時の五分前に入ると、旦那様はもう席に着いていて、まだ何も載っていない皿の前で背筋を伸ばしていた。


「旦那様は、七時四十分からお待ちでございます」


 ボドリーが私の椅子を引きながら、小さな声で教えてくれた。


(待っていらっしゃる? 今日のひとつを?)


 二十五日目の夕方、庭でヒューゴの散歩に行き合った。旦那様が小股で歩き、その後ろを老犬がのそのそとついていく。私が隣に並ぶと、旦那様はもう少し歩幅を狭めた。二人と一匹で、庭の奥の樫の木のところまで歩いた。


「君の父上は」


 樫の木の下で、旦那様が言った。旦那様のほうから話しかけられたのは、馬車の中のあの一言以来だった。


「二十四年で、困った朝はなかったのか」


「ありました。母が風邪で三日寝込んだときは、寝室の扉の前で言ったそうです。私が生まれた朝は何も思いつかなくて、『君は、今朝もちゃんと君だ』と言ったとか」


「……それは、数えるのか」


「母は、数えたそうです。母が言うには、困った朝の父の顔が、いちばん好きなんですって」


 旦那様は、何かを考えるように黙った。ヒューゴが私の靴の匂いを嗅いで、満足したように足元に座りこんだ。


「……そうか」


 旦那様はそれだけ言って、ヒューゴの頭を撫でた。


 そのころには、屋敷の使用人たちが毎朝、ペグのところへ今日のひとつを聞きにくるようになっていた。洗濯場の女中も、厩番も、ペグの顔を見るなり「今日のは?」と聞くらしい。


「雨の日の外套の話をしたら、御者のじいさんが『あれは本当だ。わしが濡れてると、旦那様は乗ってくださらねえんだ』って、えらく得意そうでしたよ」


 旦那様のいいところは、屋敷の誰もが前から知っていたらしい。ただ、誰も口に出したことがなかっただけで。


 そして三十日目の朝、食堂の扉の前で、私は気がついた。


 目に付くいいところは、もう全部言ってしまった。


 その朝は扉の前で十五分考えて、「旦那様は、珈琲に砂糖を入れません」と言った。旦那様は「……そうか」と言った。言ってから、それはいいところなのかと、自分でも思った。


◇


 三十一日目は、夜明け前に起きた。


 ペグに燭台を持ってもらって、屋敷の廊下を端から歩く。旦那様は毎朝六時に起きて、馬で領地を一回りしてくる。その前に、旦那様が昨日通った場所に何か落ちていないかを探すのだ。いいところが、という意味で。


 書斎の前、階段の踊り場、二階の東の廊下。角に来るたびに立ち止まって、考えて、また立ち止まって、もう一度考える。


「奥様、また三回止まりました」


「数えないで」


 東の廊下の窓から、薄明るい南の庭が見えた。花壇のそばで、庭師頭のホッブズが腰を伸ばしていて、窓越しに目が合った。私は慌てて会釈をした。


 六時を少し過ぎたころ、階段の下を、乗馬の支度をした旦那様が通っていった。黒い髪の左側だけが、ぴょこんと跳ねていた。旦那様は歩きながら片手でそこを押さえつけ、玄関を出るころには、すっかり直っていた。


 その朝のひとつは、こうなった。


「旦那様は、寝癖が左にだけつきます」


 旦那様の匙が止まった。


「……それは、いいところなのか」


 朝食の席で、「……そうか」以外の返事を聞いたのは初めてだった。


「本当のことではあります。それに、馬に乗る前には、ちゃんと直していらっしゃいます」


「…………」


 トムが、盆で顔を隠した。


 三十三日目は、「笑うとき、右の眉が先に動きます」だった。


「笑っていない」


「動きました。昨日の夕食で、ヒューゴがくしゃみをしたときに」


 旦那様は黙ってパンをちぎった。


 三十四日目は、食堂の扉の前で三度立ち止まってから、ようやく見つけた。


「椅子を引くとき、音を立てません」


「……そうか」


 言いながら、私は少し恥ずかしかった。両親は二十四年続けている。私はひと月で、もう廊下の角で立ち止まっている。


◇


 ところが三十五日目の朝、私は困らなかった。


 部屋を出るとき、扉が鳴らなかったのだ。私の部屋の扉は、嫁いできた日からずっと、開けるたびにきいっと軋んでいた。


「ペグ。扉が鳴らないわ」


「ああ、それ」とペグは言った。「旦那様が、今朝の夜明けに、ご自分で油を差していかれたそうですよ。トムが見てたって。油差しを片手に、こう、蝶番にちょんちょんと」


 ペグはそれを、一度もつかえずに言った。前もって練習してきたみたいに、すらすらと。


 その朝のひとつは、「私の部屋の扉の軋みを、ご自分で直してくださいました」。


「……そうか」


 旦那様の耳が、赤くなった。


 三十八日目には、庭の樫の木の下に、木の長椅子がひとつ置かれていた。朝の散歩に出ると、ホッブズがそこに腰を下ろしていた。


「旦那様がね、トムと二人で担いでこられまして。わしの膝のためだそうで」


「旦那様が、担いで?」


「ええ、奥様。旦那様は子どもの頃から、先代のお言いつけで、領地の男衆と柵だの水車だのを直してこられましたから。長椅子のひとつくらい、なんでもねえです」


 ホッブズは膝をさすりながら、二階の東の廊下の窓を見上げた。


「あそこの窓からも、よう見えましたでしょう」


 見えなかった。けれど、ホッブズがそう言うので、私も一緒に窓を見上げた。窓は、少しだけ開いていた。


 四十二日目には、実家の母から手紙が届いた。


 ハロウェイ伯爵様から、丁寧なお手紙をいただきました。あなたが毎朝元気にしていること、屋敷の皆さんとすぐに打ち解けたこと、朝食の席がにぎやかになったこと。お父様は三回読み返して、四回目は声に出して読んでいました。


 その朝、私は手紙を胸に抱えたまま食堂に入った。


「旦那様。私の両親に、手紙を書いてくださいました」


「……そうか」


 旦那様は珈琲のカップで、顔を半分隠した。


 四十七日目の紅茶は、実家の味がした。


 嫁ぐときに持ってきた、薔薇の香りを少し混ぜた茶葉。湯の温度と蒸らす時間で、味がまるで変わる。母の淹れ方を知っているのは、母と私と、ペグだけのはずだった。


 カップを置いたところへ、パンの籠を運んできたマーサが、大きな声を精一杯ひそめて言った。


「旦那様がね、三晩、厨房で湯を沸かしておいででしたよ。ペグさんに淹れ方を聞いて、砂時計をひっくり返しては、一口飲んで首をひねって」


 旦那様は、窓の外を見ていた。


「旦那様。私の母の紅茶を、淹れられるようになりました」


「……そうか」


 五十日目には、食堂の卓の真ん中に、庭の花が活けてあった。芍薬と矢車菊と、名前を知らない白い小花。どの花も、定規で測ったように同じ高さにそろっていた。


 マーサが、パンの籠を置きながら、私の耳元でささやいた。


「旦那様です。ご自分で」


(でしょうね)


 花瓶の向こうで、旦那様は珈琲を飲んでいた。いつもより、ほんの少し背筋が伸びていた。


「旦那様。食堂の花を、ご自分で活けてくださいました。……全部、同じ高さにそろっています」


「……そろえた」


「はい。一本も、はみ出していません」


 本当のことだった。


 ほかの朝も、何かしら見つかった。困る朝は、もうなかった。


 ボドリーは毎朝、私が部屋を出る前に、「奥様、今朝は東の廊下からお回りになってはいかがでしょう」とか、「今朝は厨房の前をお通りになるとよろしいかと存じます」とか言うようになった。トムは、私が食堂に入ると、なぜか旦那様より先に私の顔を見る。ペグは朝の身支度のとき、やたらに窓の外を気にする。


(皆、親切ね)


 嫁いで、ひと月半。私の目も、ようやくこの屋敷に慣れてきたらしい。見ようとすれば、ちゃんと見つかる。


 五十六日目の朝は、旦那様が先に口を開いた。


「おはよう、エルシー」


 私は、持ち上げかけたカップを置いた。結婚してから、旦那様は私を「君」と呼んできた。名前で呼ばれたのは、初めてだった。


「……おはようございます、旦那様」


 その朝のひとつは、考えるまでもなかった。


「名前を、呼んでくださいました」


「……そうか」


 旦那様の耳は、もう毎朝赤い。


◇


 五十八日目は、六時前に目が覚めた。


 このところ見つからない朝はないのに、早起きが癖になってしまったらしい。ペグを起こすのは悪いので、肩掛けを羽織って、一人で廊下に出た。屋敷の中なら、もう迷わない。


 東の廊下の窓が、少し開いていた。


 五月の終わりの、湿った土の匂いがする。下の花壇から、低い声が聞こえた。


「これで、明日の分になるだろうか」


 旦那様の声だった。


 私は窓の脇の壁に背中をつけて、そっと下をのぞいた。


 花壇の前に、旦那様が膝をついていた。上着を脱いでシャツの袖をまくり、土で汚れた手で、苗を植えている。隣では、ホッブズが杖に体を預けて立っていた。


 淡い緑の、細い蔓のある苗。スイートピーだった。


 王都の顔合わせの日、旦那様がほとんど話さなかったので、私は十五分、庭の話をした。いちばん好きな花はスイートピーだと言った。旦那様は「……そうか」と言っただけだった。


「奥様のお歩きになる東の廊下の窓から、この花壇はよう見えますので」とホッブズが言った。「蔓が伸びて支柱に巻きつくのも、毎朝見えましょう」


「明日の朝、気づいてくれるかどうかだ」


「気づかれますよ。あの方は、廊下の角で三度立ち止まる方ですから」


 旦那様は、植えたばかりの苗の根元を、指で軽く押さえた。


「扉の油、長椅子、手紙、紅茶。……明後日の分を、まだ考えていない」


「それは今夜、ボドリーさんも入れて考えましょう、旦那様」


 私は、窓から離れた。


 扉の油。長椅子。手紙。紅茶。花。名前。


 廊下を歩きながら、指を折って数えた。三十五日目からのいいところは、全部、私のために用意されていたのだ。


 毎朝六時に起きて領地を回る旦那様が、それより早く起きて扉に油を差し、長椅子を担ぎ、三晩も厨房で湯を沸かしていた。ボドリーもペグもトムもマーサもホッブズも、それを知っていて、私がどの廊下を通るかを気にしていた。


 部屋に戻って、寝台の端に座った。


 勝手に見つけて勝手に言うと言ったのは、私だ。返さなくていいと言ったのも、私だ。それなのに旦那様は、見つからない朝に私が困らないよう、夜明け前に起きて、いいところを一つずつ増やしていた。


 しばらくして、ペグが身支度の湯を運んできた。寝台に座っている私の顔を見るなり、ペグは盥を置いて、そっと扉を閉めた。


「奥様。……もしかして、見ちゃいました?」


「皆、知っていたのね」


「旦那様が、奥様には内緒にしてくれって。扉の油の朝に、私、練習までさせられたんですよ。トムが見てたって言うところを、三回」


 ペグは申し訳なさそうに、でもどこか誇らしそうに言った。


「でも奥様、旦那様は――」


「言わないで、ペグ」


 ペグは口を閉じた。


 私の家の決まりが、旦那様の荷物になっていた。


◇


 八時。食堂に入ると、旦那様はもう席にいた。爪の間に、洗いきれなかった土が少しだけ残っていた。


 パンが並び、紅茶が注がれる。トムが盆を胸に抱えて、私の口元を見ている。旦那様が、匙を手に取った。


「旦那様」


 匙が止まった。


「今朝は、言いません」


 食堂から、音がなくなった。ボドリーのポットが傾いたまま止まり、トムが盆を抱え直す。旦那様の灰色の目が、ゆっくり私のほうを向いた。


「……見つからなかったか」


「見ました。東の廊下の窓から。スイートピーを」


 旦那様の指から匙が落ちて、皿の縁で小さな音を立てた。


「もう、増やさなくていいんです。夜明けに起きて、油を差したり、長椅子を担いだりしなくていい。返さなくていいって、私、馬車の中で言いました。それなのに、私が勝手に始めた決まりで、旦那様に早起きをさせて、ボドリーたちまで巻きこんで……」


 言いながら、声が細くなっていくのが自分でも分かった。


 旦那様は、窓の外を見た。


 困ったとき、言葉に詰まったとき、旦那様は窓の外を見る。馬車の中でもそうだった。私はそれを、この五十八日のあいだに覚えた。


 長い間があった。庭のほうで、鳥が鳴いた。


「父は」


 旦那様が、窓の外を見たまま言った。


「人を褒めない人だった。褒めるのは甘やかすことだと考えていた。この家の食卓は、私が子どもの頃からずっと静かだった。だから私は、自分に、人が口に出すようないいところがあるとは、考えたことがなかった」


 ボドリーが、ポットをそっと台に置いた。


「一日目の朝、君は石段のことを言った。私は、何と返せばいいか分からなかった。二日目も、三日目も分からなかった。分からないまま、毎朝、八時が待ち遠しくなった」


「七時四十分から、お待ちでしたね」


「……ボドリーか」


「申し訳ございません、旦那様」


 ボドリーは、少しも申し訳なくなさそうな声で言った。


「ひと月を過ぎたころ、ホッブズから聞いた。奥様が夜明け前に廊下を歩いて、角に来るたびに三度立ち止まっている、と」


 旦那様は、ようやくこちらを見た。


「寝癖の話をした朝の君は、いいところが見つからないまま、廊下を歩き回ってきた顔をしていた。君の母上は、困った朝の父上の顔がいちばん好きだそうだが……私は、君のその顔を、もう見たくなかった。それに」


 旦那様の耳が、赤くなった。


「聞きたかった。毎朝」


 私は、膝の上で両手を握った。


「だから、増やした。君が見つけられるように。油も、長椅子も、手紙も、紅茶も、私が自分でした。嘘はひとつもない。君の決まりには、反していないはずだ」


 反していない。全部、本当に旦那様がしたことだ。


「王都で顔合わせをした日」と旦那様は続けた。「私は、ほとんど何も言えなかった。君は困った顔をしないで、十五分、庭の話をした。いちばん好きな花はスイートピーだと言った。あの日、この人と結婚したいと思った。何も言えない私の前で、困った顔をしない人と」


 トムが、盆を持ったまま動かなくなっていた。


 旦那様はテーブルの上で指を組んで、ほどいて、一度息を吸った。


「今朝、君が言わないなら、私が言う」


「旦那様が?」


「返せないと言った。だが、ひとつなら言える。五十八日、考えていた」


 灰色の目が、まっすぐ私を見た。


「君は、見つからない朝にも、お世辞で済ませなかった。寝癖でも、眉でも、椅子の音でも、本当のことを探してきた。私は、そういう人と結婚した」


 具体的だった。本当のことで、私が今まで一度も言われたことのないことだった。決まりの三つを、全部守っていた。


 目の奥が熱くなった。それから、気がついた。


 今朝のひとつが、まだだ。


「旦那様。やっぱり、今日のひとつを言います」


「……言わないと言った」


「撤回します。見つけたので」


 私は背筋を伸ばした。


「旦那様は、私が困らないように、毎朝いいところをひとつ増やしてくださる方です」


 旦那様が、まばたきをした。


「それは」


「本当のことです。具体的です。今まで一度も言っていません」


 私は、指を三本折って見せた。馬車の中と同じように。


「それに、これだけは、旦那様にも作れませんよね」


 旦那様の顔が、動いた。


 右の眉が先に上がって、それから口の端が、ゆっくりと上がった。


「……笑っていらっしゃいます」


「笑っていない」


「動きました。右の眉が先に」


 ボドリーが、窓のほうを向いた。トムは盆で顔を半分隠していたけれど、隠しきれていなかった。


 旦那様はテーブル越しに手を伸ばして、私の手を取った。指先から、まだ少し土の匂いがした。


「エルシー」


「はい」


「明日の朝も、言ってくれるか」


「毎朝です。二十四年でも、その先でも」


 旦那様は私の手を握ったまま、また窓の外を見た。耳の先まで、真っ赤だった。


* * *


 一年後の春。


 食堂の大きな窓の向こうで、花壇のスイートピーが咲いている。去年の夏に旦那様とホッブズが種を採り、秋に蒔き直したので、今年は花壇の端から端まで、薄紅と白と淡い紫が並んだ。樫の木の下の長椅子では、ホッブズとヒューゴが並んで日向ぼっこをしている。


 八時。旦那様は、もう席にいる。


「エルシー。今日のひとつだ」


 旦那様は、今もひとつしか言わない。そのかわり、とても具体的だ。


「君は、スイートピーの蔓が支柱にひと巻きするたびに、書斎まで私に知らせに来る。昨日で、三十二巻きだった」


「……それは、いいところなんですか」


「本当のことだ」


 トムが、盆で顔を隠した。


 私のほうは、あの朝から一度も困っていない。旦那様は今も毎朝、少しずつ何かをしている。ただ、もう隠れてはしない。ボドリーもペグも、私がどの廊下を通るかを気にしなくなった。


「旦那様。今日のひとつです。昨日、王都の学院にいるネイサン様の手紙に、三枚も返事を書いていらっしゃいました。去年の旦那様なら、三行でした」


「……そうか」


 旦那様の耳が赤くなる。それから、右の眉が先に上がる。


 旦那様は今も、気の利いたことは言えない。


 けれど、本当のことなら、毎朝ひとつ言ってくれる。

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《御礼状》の物語からε=ε=(ノ≧∇≦)ノ 来ちゃった♪ こ!コレゎ!後味がなんとも!甘酸っぱ♡♡♡
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