霧の向こうのわんこ
窓辺で霧吹きを使うのが、習慣になったわけではない。
ただ、なんとなく散らした霧が朝の光を受けて、虹のように見えたのが心地よかっただけだ。
最初はそれだけのことだった。
ある朝、ふわりと散った霧の向こうに、小さな犬の姿が見えた。
白いような、茶色いような曖昧な色で、輪郭は霧に溶けて揺れている。
それでも、その姿を見た瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
懐かしい――そう思った。
昔もこんなふうに、この子を見ていた気がする。
名前も、鳴き声も、どんな仕草をしていたのかも曖昧なのに、
胸の奥だけが強く反応する。
忘れていた記憶が、霧の下から少しだけ顔を出したようだった。
もう一度、あの犬に会いたい。
ただそれだけの気持ちで、私は霧吹きを握りなおした。
霧を散らすたび虹が浮かび、その中心に犬が現れる。
じっとこちらを見て、尻尾が揺れているように見えた。
ほんの少し首をかしげて「また会えたね」と言っているようだった。
その仕草が懐かしくて、涙が出そうになった。
ここにいるのが自然な気がした。
この子は、ずっと私のそばにいたのだと――そんな錯覚すら覚えた。
その日から、私は毎朝霧吹きを使うようになった。
部屋の湿度はどんどん上がり、窓枠は常に濡れている。
壁紙は波打ち、黒いカビがじわじわと広がり始めた。
さすがにまずいとは思う。
でも、霧吹きを手に取ることをやめられなかった。
犬は日を追うごとに少しずつ輪郭を濃くしていく。
最初は霞のようだったのに、今では耳の形までわかる。
瞳も、こちらを見ている。
まるで私を呼んでいるように。
ある朝、犬が一歩近づいたように見えた。
虹の中で淡く滲むようにして。
それは光の加減かもしれない。
けれど私は反射的に霧をもう一度吹いていた。
もっとはっきり見たくて。
部屋はぐっしょりと濡れ、足元の床まで湿っている。
カーテンは乾く気配もなく、触るとひやっとした。
空気は重く、水のにおいがまとわりつく。
それでも霧吹きを振ると、心が落ち着く。
あの犬に会えるから。
私は犬を飼っていた――そんな気がしていた。
記憶の形は曖昧でも、懐かしさだけは確かだと思っていた。
けれど、霧の向こうの犬を見つめているうちに、
ふと胸の奥が冷えた。
――おかしい。
私は、犬なんて飼ったことがない。
そう思った瞬間、犬の姿がひどく鮮明になった気がした。
その瞳が、虹の外へ滲み出てくるように見える。
私は震える手で、もう一度霧吹きを握りしめた。




