知らないコップ
ある日、食器棚の奥に見慣れないコップがあった。
透明なガラスで、口の縁が少し厚い。どこにでもありそうな形なのに、どうしても手放せない気配がある。誰が買ったのか家族に聞いても、全員が首を振った。
「誰かが置いていったんじゃない?」
母が笑って言ったが、そんな客の心当たりもない。
最初は気にしなかった。だが、ある晩、喉が渇いてそのコップを使った時に気づいた。
冷蔵庫の水を注いだはずなのに、口の中に微かな鉄の味が広がる。
蛇口の水が悪いのかと別のグラスで試してみたが、そちらはただの水だった。
問題はコップの方だった。
次の日、ジュースを注いでみた。オレンジのはずなのに、香りも甘さも薄れて、やっぱり血の味がする。
紅茶も、牛乳も、同じ。飲み干した後の舌に、鉄の渋みだけが残った。
気味が悪くなって、その夜コップを新聞紙に包み、ゴミ袋に入れて外の集積場に出した。
胸の奥が少し軽くなった気がして、風呂に入って寝た。
翌朝、台所に行くと――棚の中に、また同じコップがあった。
昨日とまったく同じ位置、同じ角度で。
底の方にわずかに水滴がついていて、それが赤く見えた。
さすがに気味が悪くなって、今度はハンマーで割った。ガラスが弾け、欠片が床に散る。
片付けようとしたとき、指先が切れて血が滲んだ。
それが破片に落ちた瞬間、赤がすっと吸い込まれて消えた。
――それきり、コップは消えた。
棚にも、床にも、欠片ひとつ残らなかった。
ただ数日後、隣の家の奥さんが言っていた。
「この間ね、棚の奥から変なコップが出てきたの。どんな飲み物を入れても、少し血の味がするのよ」
彼女の笑い声の向こうで、食器棚の中のガラスが、かすかに鳴った気がした。




