向こうの煙
その家では、毎晩、線香を一本焚くのが習わしだった。
夕食を終えて灯りを落とすと、彼女は机の端に小さな香炉を置く。
火をつけると、細い煙が立ちのぼり、ゆらゆらと天井へ消えていった。
家族はそれを特別気にも留めず、ただの日課として過ごしていた。
けれど、その夏から、少しずつおかしなことが起きた。
ある夜、彼女は気づいた。
線香の煙が、真っすぐに立たなくなっている。
風もないのに、壁の一点へ向かって流れていた。
まるで、そこに誰かが息をしているかのように。
翌日も、翌々日も、煙は同じ方向を指した。
不思議に思いながらも、彼女は手を合わせるだけで、深く考えないようにしていた。
けれど、線香の燃える速さが少しずつ遅くなっていることに気づく。
煙の先で、何かが吸い込んでいるようだった。
ある晩、夫が寝静まったあと、彼女はそっと灯を消した。
闇の中で、煙だけが細い糸のように伸びている。
壁の方へ、まっすぐ。
彼女は立ち上がり、その流れを目で追った。
煙が薄れていく。
あと少しで火が消える——その瞬間だった。
壁の向こうに、もうひとつの部屋が見えた。
家具の配置も、灯りの色も、この部屋とまったく同じ。
ただひとつ違ったのは、そこに誰かがいたこと。
その「誰か」は、線香に火をつけていた。
こちらと同じように。
そして煙を、こちらに向かって立てていた。
彼女は息を止めた。
線香が燃え尽き、煙が消えた瞬間、部屋はいつもの静けさに戻った。
翌朝、夫が線香を立てた。
灰の上には、夜のうちに誰かが火をつけた跡があった。




