眼鏡の時間
昔から、眼鏡を外しては拭き、かけ直す癖がある。指紋がついていなくても、なんとなく曇っているような気がして、布で磨かずにはいられない。眼鏡を通さなければ世界がはっきり見えないのだから、その些細な違和感は放っておけなかった。
その日も同じように、会話の途中で眼鏡を外し、ハンカチで丁寧に磨いてから耳にかけ直した。目の前の相手はちょうど言葉を発しているところだった。
だが、どういうわけか、レンズ越しの口元はまだ動いていなかった。ほんの一瞬、時差があるように感じたのだ。
「聞いてる?」と相手が笑う。
慌てて頷きながら、心の中では妙な引っかかりを覚えていた。
気のせいだろう。目を酷使しすぎたせいで、映像が遅れて頭に届いたに違いない。そう思い直して、その場は流した。
だが、その後も同じことが続いた。
眼鏡を拭いてかけ直すたび、相手の動きが一瞬だけ遅れて見える。指先の動き、瞬き、口の動き。裸眼で確かめれば問題はない。おかしいのは、レンズを通した世界だけだった。
「疲れてるのかもな」
独りごちてはみるが、眼鏡を外さずにはいられない。
そしてまた拭き、かけ直す。
遅れは少しずつ大きくなっていった。
半拍、そして一拍。やがて、数秒。
目の前で話しているはずの相手が、レンズの奥ではまだ笑顔のまま、口を開いていなかった。
奇妙な汗が背中を伝う。
眼鏡を外す。音と映像はぴたりと一致していた。
再びかける。レンズの奥では、まだ。
心臓が早鐘のように打ち始める。
もう一度だけ、と深く息を吸い、眼鏡を外して拭いた。曇りはない。何度も確認する。慎重にかけ直す。
――目の前の相手の口は、やっと動き出した。
けれど耳に届く声は、すでに次の話題を語っていた。




