ヘアピン
夜、風呂上がりに洗面所の鏡を拭いていると、床に小さな音が落ちた。しゃらん、と乾いた金属音。視線を下げると、銀色のヘアピンが一本転がっていた。
「……誰のだ?」
一人暮らしだ。部屋にヘアピンを使うような相手が出入りした覚えはない。落ちていた場所も不自然だった。洗面台の前で外す機会なんてあるだろうか。首をひねりながら拾い上げ、しばらく指先で弄んでから、洗面台の端に置いた。
その夜は特に気にせず眠った。
翌朝。鏡に映る自分の髪が、奇妙に整っていることに気付いた。右側の前髪がきれいに留められている。そこには、あの銀色のヘアピンが差さっていた。
「……え?」
慌てて手で探る。しかし触れてもピンの感触はない。頭皮にも髪にも、何も留まっていない。なのに鏡の中の自分は、確かにそれで髪をまとめている。
怖さよりも混乱が勝ち、何度も鏡を見返した。角度を変え、照明をつけ、顔を近づける。鏡の中のピンは外れることなく、きっちりと髪を押さえている。
ふと気付いた。洗面台の端に置いたはずのピンが、消えているのだ。
「……」
背筋が冷たくなった。慌てて鏡の中の自分に手を伸ばす。ガラス越しに触れることなどできない。けれど映っている“それ”は確かにここにはない。
翌日から、鏡の中の髪型は日ごとに変わり始めた。夜には見慣れぬアレンジが施されている。リボンのようにねじり上げられたり、編み込まれていたり。だが、実際の自分の髪は何もいじられていない。映っているのは“もう一人の自分”の頭だけだった。
数日後、職場で同僚に言われた。 「最近、髪留めかわいいね。どこで買ったの?」
心臓が跳ねた。鏡の中だけじゃなかったのか。慌ててトイレの鏡で確認すると、やはりそこには銀色のヘアピンが差さっていた。だが指先には何も触れられない。外そうとしても、ただ髪を握るだけで空を掴むようだった。
帰宅すると、洗面台の上に新しいピンが一本転がっていた。昨日までなかったはずの、真新しい黒いヘアピン。
恐る恐る拾い上げる。鏡の中の自分は、にやりと笑った気がした。




