「暗闇の中」④
またか。そう思い目を開けてみるとそこは前にも来た光も通さないような真っ暗な空間。そんな中で俺は浮いている。海の中にでもいるような感覚で。
最初は息ができないのかもしれないと慌てて口を閉じてやり過ごそうとしてみたが無駄だった。諦めて口を開けてみると入ってくる空気。どうやら、周りには空気はあるようだった。そのようなことを知ったものだからもう何回目か分からない今回も慌てずに深呼吸をする。
真っ暗な空間だから最初は不気味だったが、なんだか現実から離れたような気がしてこの空間が好きになっていた。誰にも縛られることのないこの時間。だけれども、自分が入りたいときにこの空間に入れるわけでもない。それさえできればいいのになあと不可能そうなことを考えながらまるで海の中を沈んでいくような感覚に身を任せる。最初はこれも怖かったが、少し経てば現実に戻れると知ってからは何も怖くなくなっていた。どちらかと言えば、安心感さえ湧いてきた。
でも、このとき自分は気づいていなかった。周りの様子が日に日に黒くなっていることに。最初から黒い空間なのだから気づけというほうが難しいのだが、まだあの頃は光が差し込んでいるようにも感じられた。しかし、それに手を伸ばすことなく、沈んでいく暗黒の海に身を任せた方が身が楽になっていくからそんなことさえ考えなかった。このことに気づいたのはもう数年後のことだった。
日々の疲れを取り除くように暗黒の海に身をあずけていると急に視界が眩しくなった。どうやら、今日もこの時間は終わりのようだ。
そうして、再び現実に戻ってくる俺。この現象がいつでも体験できるのであれば楽なのになあという叶いそうもない願いを持ちながら、明日の学校の準備を続ける。それが終われば、塾の準備だ。
別に俺の通っている塾自体、雰囲気が悪いわけでは無いのだが、これも親が塾に頼んだ影響なのだろうか。どうやら、周りの同学年もしくはそれより上の学年の人よりも要求されることが高いようにも感じる。別にそれを感じたところで俺にどうすることもできないのだが。
特別、塾に持っていかなければならないものは無く、塾用の鞄に家と塾でしか使わない筆記用具と親が用意した教材を入れて自分の部屋を出る。小学校のうちはシャープペンシルを使ったらだめという訳のわからない決まりのせいで鉛筆を削るのがめんどくさいが、家での勉強や塾では関係ないのでそこら辺だけは楽なのかもしれない。
そうして、自分の部屋を出てドアを閉めるが、やっぱりまだ家には誰も帰ってきていないようだった。両親は言わずもがな教師なのでこの時間には帰ってこないだろうが、兄も部活プラス塾という俺にとってみればハードスケジュールをなんなくこなしている。ちょっと前までは自分がおかしいのかなと思っていたがよく考えてみれば、家族のほうがおかしいのだろうと思うことにした。
そうこうしているうちに、玄関に行き、靴を履きドアを開けて外に出る。ちゃんとカギをかけたことだけを確認して、自転車に乗って塾へ向かい始める。
塾というのは大体主要道路と言っていいのか分からないが、ある程度交通量のある大きな道路に面したところにあることが多いだろう。俺が行くところも同じようなところだ。そのため、そこへ行くまでには少々、小道を進んで行かなければないのだが、その途中で公園がある。今の時代、ゲーム機が普及して早い家庭だとスマホを持っている子もいる中で外で遊ぶわんぱく小僧はいないだろうと思っているのだが、どうやらそうとも限らないみたいだ。
塾へ行く道は塾に行き始めてから変更したことは無いのだが、晴れている日は大抵同じような奴らが元気よく遊んでいる。いつも同じような遊びをしてよく飽きないなあと思うのだが、自分も飽きずに机に向かったり、塾に行き続けているのだから変わらないのだろう。ただ、彼らと違うのはそれが自分の意思によるものかどうかだ。彼らは自分の意志で遊ぶと決めて外で遊んでいるだろうが、一方自分はどうなのであろうか。親に言われたのだからこの生活を続けているに過ぎない。だけれども、この生活が知らず知らずのうちに染みついてしまっているのだから、これ以外の生き方を知らないのだろう。他人から見ればなんとも悲しい生活なのだと言われるのかもしれない。だけれど、それが俺の家族にとってみれば普通なのだから変わっていかないのだろう。そうして、考えてもどうしようもないことを考えているうちに景色は変わって大通りに出てくる。学校に行くときや帰るときの集団での移動に比べて一人だし、自転車だから速いのも当たり前だが、やっぱり楽だな。周りを気にしなくていいのは。
そうこうしていると、塾についた。どうやら、まだ他の塾生は来ていなく一番乗りのようだ。それはそうだろう。この時期に塾に通う奴って偏見かもしれないが、よっぽど学校の勉強についていくことができないか、親が教育熱心だからなのだろう。どちらにせよ、個人の意思は無いのだから授業開始より早く来てやるという、やる気のある奴のほうが少ないだろう。
決められた場所に自転車を止め、鍵をかけたことを確認して塾の自動ドアの前に立つ。そうすると当たり前だがドアが開くのだが、入っていくと右に塾長が座っているのだ。この時間は授業が無いからな。些細な問題なのだが、この時間は「こんにちは」なのか「こんばんは」なのかどっちなのだろうと塾に入りたての頃は思っていたのだが、その時に塾長が「こんにちは」と返したからなのか、自分の中でも「こんにちは」で統一することになった。
そんなことを思い出しながら、丁度開いた自動ドアに気づいて塾に入っていく。
「塾長、こんにちは。」
「こんにちは、和真君。今日も早いね。」
「まあ、そうですね。家にいても誰もいませんしね。」
「そっか。」
そういうと、塾長は複雑そうな顔をして、いつもの業務に取り掛かるようだった。それを見て会話が終了したのかなと思い、靴箱に靴を入れ、塾内用のスリッパに履き替える。そうして塾長の座っている前の機械にカードをかざして出席の登録を済ませる。
ここの塾は個別指導の塾なので、机が仕切りで区分けされている。そのため、いつも同じ席に座るということは無い。今日はどの席なのかなとホワイトボードに貼ってある席表を見ると、入口付近の席に自分の名前があったのでそこにもう座ることにした。
授業時間が始まるまであと15分以上あるので、親がやれと言っていた勉強を進めることにする。学校でやるのは流石に周りに引かれるかもしれないが、ここなら周りを気にする必要も無いので集中して取り組むことにする。
キーンコーンカーンコーン。
そうこうしているうちに、どうやら授業時間になったみたいだ。この時間帯を選ぶ人は同年代しかほぼいないので仕方が無いのだが俺以外に誰も生徒が塾に来ていないというのはどういうことなんだと不思議に思いながらも、それは今に始まったことではない。まあ、別に自分に関係することではないしいいかと思っていると塾長がやってきた。それを見て、親が用意していた俺用の教材をしまう。
「うーん。結局今日も和真君だけですか。とりあえず、和真君は始めますか。」
「はい、塾長お願いします。」
「はい、よろしく。そうはいってもいつも通り君は問題を解くだけだから私は楽なんだけれどね。これプリントね。解けたら教えてね。」
「分かりました。」
そういって、いつも通り塾での授業というか問題演習が始まる。兄も小学校時代はこの塾に通っていたらしいから、両親とのつながりもこの塾長は強いのだろう。だからだろうか。親が俺用に用意しておいた宿題と塾で出される問題はリンクしている確率がかなり高い。両親は俺をどこにもっていきたいのだろうと思うのだが、今更このレールから自分から進んで離れようとするのは難しい。とりあえず、いろいろ思うところはあるのだが、目の前にある問題を解くしかないのだ。
解き始めて、大体3分の2ぐらいの内容が終わった頃だろうか。入り口前がうるさくなった。
「えー、お母さん塾行きたくないよー。」
「仕方ないでしょ。あなた、塾行かないと学校の勉強ついていけないのだから。」
「そうだけどさ、勉強したくないよ。嫌いだもん。何が楽しいの、あんなの?」
「楽しいとか、楽しくないとかじゃなくてやるの!」
そう言われながら、無理やり連れてこられた感満載の子がやってきた。
「やっと来たか。」
そう小さな声で言う塾長。
「康介君、こんにちは。さあ、勉強やろうか。」
なんだか俺の時よりも無理やり柔らかい雰囲気を作って接しているんだなと近くで見ていて感じてしまうが気にしていると自分のやらなければいけないことが終わらないので、無視して進めようとする。
「えー、塾長、勉強するのめんどくさいよ。」
「それでも、とりあえず、スリッパに履き替えて出席の確認だけ取ってね。」
「はーい。」
無駄に両者ともに声が大きいのもあるので無視しようと思っても、自然と気になってしまう。普段はこんな奴同じ時間にいないはずなのにと思いながら無理やり集中しようとしてみる。ただ、それもどうやら難しそうだった。
「塾長珍しいね、同じ時間帯にもう一人しかいないのは。」
「まあ、そういう日もあるよ。さあ、決められた席に座って。」
そう言われ、渋々座る康介君。かと思えば、隣か。こんなうるさそうなのが隣だと集中できないんだけど。そう塾長に抗議したくなるが、言ったところで変わらないだろうし、この子のタイプも分からないからあまり関わりたくない。
そう思っていると、
「ねえねえ、俺康介って言うんだけど、君なんていう名前なの?」
そう話しかけてきた。どうしようかと思っているが、塾長はどうやらすぐにはやって来ないみたいだ。
「和真。」
関わってもめんどくさそうだし、そう素っ気なく答える。こうすれば興味も失って関わって来ないだろうと思っているがどうやらそうも世界は上手くいかないようだ。
「へー、和真君って言うんだ。何年生?俺は3年生。」
まじか。同い年なのかと驚愕すると同時に会話も続くのかと絶望を感じていた。プリントの内容は親も協力しているのか本来小学校3年生が解くようなレベルのものじゃないため、こんな相手をしながら解けるものでもない。まったく塾長は何をしているんだ、そう思いながらも片手間で一応対応することを決めた。先ほどの親とのやり取りを見ていると機嫌を損ねると何をしだすか分からないから。
「同じ3年生。」
「ええ、そうなの。なんだか大人な感じがしたからもう少し上なのかと思った。よろしくね。」
「よろしく。」
上だと思うのならそう馴れ馴れしく接してくるなよと思うのだが、そう思ったところで無駄なタイプだと少ない会話の中ではあるがそう思った。
「どこの小学校なの?俺北小。」
まだ、この会話続くのか。いい加減塾長は何しているんだと思ってきたが大人に何か期待したところで意味が無いということは自分の親を見ていれば分かるので、とにかくこの子との会話を穏便に済ませることに集中することにした。じゃないと、目の前のプリントも終わらないし、それで家でやることも増えるし、災難でしかない。
「俺は西小。康介君だっけ?ここに来てから俺としか話してないけれど勉強しなくていいの?」
「ええ、勉強?そんなめんどくさいことやりたくないよ。ここにも嫌々来ているんだし。塾長からやれって怒られない限りやらないつもり。そういう和真君は何でここで勉強しているの?」
「親に行けって言われたからっていうのと、兄も昔ここに通っていたから。」
「結局、親に行けって言われて来ているところは同じか。でもさ、勉強したところで何かなるの?俺それが分かんないんだよね。でも、誰に聞いても納得いく説明してくれる人いないんだ。聞いた瞬間口答えせずにやれ!だって。なんなんだろうね。」
それには、俺は答えられないでいた。ただ、そんなこと今までも考えたことも無かったことだから。それまで、勉強することを親にプログラムされていた俺にとってその反抗心というのは事前に取り除かれていたのかもしれない。
そう返答に困っていると塾長がやっとやってきた。遅いよと言いたくなるが、何か事情があるのだろう。
「康介君、授業中に話しかけないの!人の邪魔になるでしょ。はい、授業の準備して。ただでさえ、遅刻してきているんだから、その時間取り戻すよ。」
何だかうるさくなりそうだから、なんとなく左手で左耳をふさいで目の前のプリントに集中できるようにする。いつもなら、もう先生にチェックしてもらっている時間だろうなと思うのだが、康介君の「勉強したところで何になるのか」という疑問に俺の心も揺らぎ始めた。しかし、これも今考えたところで答えは出ないだろうと思い、手を動かし始めた。