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第8話:月明かりの舟(現代もの)

 蒼白い月の光が、窓辺に横たわる老婆の顔をそっと照らしていた。彼女の名前は、桜井美智子。若い頃は美しい黒髪と凛とした眼差しで知られ、穏やかな笑顔を絶やさなかったという。だが今はその黒髪も雪のように白くなり、瞳もまどろむように薄れている。彼女は長い人生を生き、今夜はその最後の一歩を踏み出そうとしているのだった。


 部屋は静寂に包まれ、家族は皆、彼女の眠る部屋の外でひそやかに祈りを捧げている。窓から差し込む月の光は、淡い蒼さを湛え、まるで夢の中へ誘うかのようだった。そんな光を浴びながら、美智子の唇が微かに動き、つぶやきが漏れた。


「……もう、迎えが来るかしら……」


 その声はほとんど誰の耳にも届かないほど小さなものだったが、まるでその言葉に応えるかのように、部屋の空気がわずかに揺らめいた。


 すると、不思議なことが起きた。美智子の目の前に、ゆらりと蒼い舟が現れたのだ。月の光を纏ったその舟は、誰が漕ぐでもなく、ただ静かに宙を漂っていた。美智子は自然とその舟に視線を向け、ゆっくりと手を伸ばす。


「そう……あなたが、私を連れていくのね」


 美智子は、まるで旧知の友に語りかけるかのように呟き、そっと舟に足をかけた。すると足元がふわりと浮かび上がり、彼女の体は軽やかに舟の上に滑り込んでいった。驚くべきことに、彼女の体はそのまま寝台に残っているように見えたが、意識だけが舟に乗っているような感覚だった。


 舟は音もなく、夜空の中を滑り始めた。下を見下ろせば、美智子の家や庭が、まるで小さな模型のように遠ざかっていく。風はなく、ただ静かに月光が辺りを照らし、彼女の周囲は幻想的な青い光に包まれていた。どこからか、懐かしい歌声が聞こえてくるような気がした。


 舟の先には、見覚えのある人々が微笑んで立っていた。若い頃に亡くなった兄、幼い頃の友人、そして、何十年も前にこの世を去った最愛の夫……。皆が柔らかな表情で、美智子に手を振っている。


「皆、待っていてくれたのね……」


 美智子は小さな声でそう言うと、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。今までの人生が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、数え切れないほどの思い出が心の中で花開く。楽しかったこと、悲しかったこと、愛しい人々との別れ……全てが、美しい旋律のように彼女の胸に響いていた。


 その時、舟がふと止まり、眼前に広大な湖が現れた。湖は鏡のように穏やかで、青い月が水面に揺れていた。その光景はあまりに美しく、現世のものとは思えないほど幻想的だった。


「ここが、終わりの場所なのね」


 美智子は静かに目を閉じ、深い安堵の息をついた。心に宿るすべての痛みも、不安も、何もかもが溶けていくような感覚だった。月明かりに包まれ、彼女の魂はゆっくりと湖の中へと溶け込んでいく。


 やがて、蒼い舟も消え、辺りには再び静寂が訪れた。部屋に残された美智子の顔は穏やかな微笑みを浮かべており、その表情には、何かから解放されたような清らかな安らぎが宿っていた。


 その夜、月は静かに美智子の家を照らし続け、誰にも気づかれることなく、一人の魂がこの世から旅立ったのであった。


次は若い頃の美智子の話につなげます。

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