第5話:最後の手紙(SF)
古書店「夢想堂」の奥の棚。一冊の古びた本『星影の詩集』に手を伸ばした時、横から別の手が伸びてきた。指先が触れ合う。
「あ、すみません」
振り返ると、白髪の老婦人が立っていた。八十を過ぎているだろうか。品の良さそうな着物姿だ。
「いいえ、私こそ」
私は手を引っ込める。老婦人は詩集を手に取り、表紙を撫でるように見つめた。
「懐かしい本ですね。私の姉も、この詩集が好きでした」
老婦人の目が遠くを見つめる。
「もしよろしければ、お譲りします」
私がそう言うと、老婦人は首を横に振った。
「ありがとう。でも、これは運命なのかもしれません」
その日から、老婦人――藤堂千代さんとの文通が始まった。最初の手紙が届いたのは、その一週間後だった。
*
拝啓
突然の手紙、お許しください。あの日、出会った詩集のことで、どうしてもお伝えしたいことがございます。
六十年前。私の姉・典子は、その詩集を手に持ったまま、失踪しました。警察は親身になって捜査してくれましたが、手がかりすら見つかりませんでした。
でも、最近になって、ある可能性に思い至りました。その詩集には、ある暗号が隠されているのではないかと。
あなたは古書に詳しいとうかがいました。その詩集を一緒に調べていただけないでしょうか。
敬具
*
私は返信した。そして、古書店で見た詩集の初版本を探し始めた。一ヶ月後、千代さんから二通目が届く。
*
拝啓
お心遣い、ありがとうございます。実は、もう一つ重要なことがございます。
姉が失踪した日、近所の空き家で火災がありました。焼け跡から、身元不明の遺体が見つかったのです。でも、それが姉だとは誰も思いませんでした。
なぜなら、遺体の年齢は六十代前後。姉は当時二十歳だったのですから。
敬具
*
私は詩集を徹底的に調べ始めた。そして、ある事実に行き着く。この詩集には確かに暗号が隠されていた。しかも、それは……。
最後の手紙が届いたのは、冬の終わりだった。
*
拝啓
全てお見通しのことと存じます。
あの火災で見つかった遺体。あれは、四十年後の姉だったのです。そう、姉は時を遡ったのです。若かった姉は、老いた自分と出会い……二人で全てを終わらせることを選んだようです。
その暗号は、姉が過去の自分に残したものです。私にも気付かれないように。
ですが、今となっては、もう秘密を守る必要はありません。姉は、愛する人の元に行くために、時を遡ったのです。そして、その愛する人と一緒に……。
私も、もう長くはありません。どうか、この手紙を最後に、全てを忘れてください。
あの日、本屋であなたとお会いできて、本当に良かった。
敬具
*
その日以来、藤堂千代さんからの手紙は途絶えた。
古書店に行くと、あの詩集は消えていた。棚には、一輪の白い花が置かれていた。まるで、誰かが置いていったように。
私が当時書いたその時のメモを最後に付記したい。
●『星影の詩集』暗号解読メモ
問題の詩集は1962年発行の『星影の詩集』(著:佐伯月子)。全47篇の短詩からなる初版本である。
1.暗号の第一層:配置による暗号
- 各ページの最初の文字を順に拾うと「あさがおのさくろうかにて」(朝顔の桜楼下にて)という文が完成する。
- これは失踪当時、典子が住んでいた下宿屋の名前と判明。
2.暗号の第二層:句読点の配置
- 詩集全体の句読点の打ち方が不自然。
- 句読点をモールス信号に見立てると以下の数字が浮かび上がる。
1962・8・15・23・45
- この数字は失踪した日時と、事件後に遺体が発見された空き家の番地。
3.暗号の第三層:歌の構造
- 全47篇のうち、12篇に「時」という文字が登場。
- これらの詩は全て「環」をテーマにしている。
例:
「時は巡りて また戻る
幾重の輪を 描きつつ」
- 12篇の詩の配置を時計に見立てると、針が指す方向に意味のある文章が浮かび上がる。
4.暗号の最深部:欄外の痕跡
- 詩集の各ページの余白に、微細な点が打たれている。
- 虫食いのように見えるが、実は計画的な配置。
- これらの点を原子の軌道になぞらえると、二重螺旋状の模様が現れる。
- 二重螺旋は「同一人物の時間的二重存在」を示唆。
5.詩の内容による暗示
- 表題作「星影」の一節:
わたしは わたしを 探している
鏡の中で もう一人の
わたしが わたしを 見つめている
- これは単なる詩的表現ではなく、文字通りの状況を示していた。
6.最終的な解読
- 全ての層を重ね合わせると以下の事実が浮かび上がる:
1. 典子は1962年8月15日23時45分、桜楼下宿で「未来の自分」と出会う
2. 二人は共に空き家(45番地)に向かう
3. 時を超えた「環」が完成する瞬間、二人は消滅
4. 遺された「痕跡」だけが、詩集の中に暗号として残される
特筆すべきは、これらの暗号が詩集の文学的価値を損なうことなく、むしろ作品の深みを増す形で組み込まれている点だろう。佐伯月子の詩人としての技量がなければ、これほど精緻な暗号は成立しなかったと思われる。
また、暗号は発見されることを意図して作られたというよりも、「記録」として残されたという性質が強い。それは、妹である千代さんにさえ気付かれることのない、極めて個人的な「記録」だった可能性が強い。
ここから「暗号」という要素を取り出して次につなげます。