第42話:「彼岸花の庭」(ファンタジー)
全身に違和感を覚えた。体が軽い。頭が冴えている。まるで、昨日までの自分ではないみたいだ。
少年、いや、「かつて少年だった」僕は、草原に立っていた。目の前には、真っ赤な彼岸花が一面に咲き乱れている。風が吹くと、花々がそよいで、まるで生き物のようにうごめく。けれど、空気はやけに静かで、ただ僕の心臓の鼓動だけが耳に響いていた。
どうして、ここにいるんだろう? そもそも「ここ」はどこなのだろう?
「ここは“最後の場所”だよ」
背後から声がした。振り返ると、そこには小さな少女が立っていた。真っ白なワンピースを着た彼女は、僕と同じくらいの年齢に見える。つぶらな瞳に、微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「君は……誰?」
「私は“案内人”だよ。この場所に来る人を、向こう側へ連れていく役目を持ってるの」
彼女は柔らかい声で答えた。その声はどこか懐かしく、心に響くものがあった。
「向こう側……?」
「そう。みんなが“戻れない場所”」
その言葉が妙に引っかかった。僕はふと、昨日の記憶をたどってみたが、なぜかそこには何も思い出せなかった。何をしていたのか、誰といたのかすらも。ただ、この草原で目覚めた感覚だけが鮮明に残っている。
「……何も覚えてないの?」
彼女は首をかしげて、少し寂しそうに笑った。手にした白いリボンを弄びながら、彼岸花の庭の中に立つ彼女の姿は、どこかこの場所に似つかわしくないほど透明感があった。
「僕は……君のことも、ここに来た理由も、何もわからない」
「それでいいのかもしれない。忘れられたほうが、楽になることもあるよ」
彼女はそう言って、僕に向かって手を差し伸べた。小さくて、温もりのある手。その手を握った瞬間、僕の胸に鋭い痛みが走った。何か、大切なものを思い出すような予感がしたのだ。
### 失われた記憶
気がつくと、僕は別の景色の中に立っていた。そこは、薄暗い病院の一室だった。白いシーツの上に横たわる人影がある。よく見れば、それは……
「……僕?」
シーツに覆われた体の顔をよく見ると、確かにそれは僕だった。まぶたを閉じて、冷たく、動かない。自分の体が、まるで別人のようにそこに横たわっているのを見て、背筋が凍った。
「君は、もうこの世にはいないんだよ」
さっきの少女が、また隣に立っていた。彼女の言葉に、僕は心臓が締めつけられるような感覚を覚えた。
「でも、なぜだか、君の心だけがここに残ってしまったみたい」
彼女は淡々と語る。僕の混乱する心をよそに、ただ淡々と。
「僕は……死んだの?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「だけど、心残りがあるから、こうしてここに来たんだよ」
何かが引っかかる。何か、大切なものを思い出さなければならない気がした。彼岸花の庭で、案内人の彼女と共に歩きながら、僕は記憶を手繰り寄せようとした。
### 記憶のかけら
やがて、断片的な記憶が蘇ってきた。僕には、たったひとり、守りたい人がいた。小さな妹だった。幼い彼女は病にかかっており、僕はずっとそばにいて、彼女を励ましていた。
しかし、ある日、病院で彼女の様子を見に行く途中、僕は事故に遭ってしまったのだ。気がついた時には、彼女の病室にはもう戻れなくなっていた。
「……妹が、ひとり残されたんだ」
涙が溢れた。僕は、彼女を置き去りにしてしまったのだ。最後までそばにいると誓ったのに、その約束を守ることができなかった。
少女は静かに僕の涙を見つめていた。
「君がここに残っているのは、その後悔が理由なんだね」
僕はただ黙って頷くことしかできなかった。彼女に会いたい。せめて、最後にもう一度だけ彼女に言葉をかけられたら、それだけでいいのに。
### もうひとつの道
「君がどうしても望むのなら、ほんの一瞬だけ、彼女のもとに戻る方法があるよ」
少女がそう言うと、彼岸花の庭に一本の道が現れた。霞んで見えにくいその道の向こう側には、かすかに病室の光景が浮かんでいた。
「この道を通って、彼女に会いに行きなさい。でも、約束して。心残りを解消したら、ちゃんとここに戻ってくるって」
僕は少女に深く頷いた。彼女に最後の言葉を伝えられるなら、僕はきっとこの先へ進める気がした。
### 病室での別れ
目の前に病室の光景が広がり、妹がベッドで静かに眠っているのが見えた。彼女は小さな手を握りしめ、うつろな目で天井を見つめていた。
「お兄ちゃん……どうしていなくなっちゃったの?」
彼女の小さな声が痛いほど響いた。僕はそっと彼女の耳元に近づき、言葉にならない声で囁いた。
「ごめんね。君を一人にしてしまって……」
彼女は僕の存在を感じ取ったのか、かすかに微笑んで、目を閉じた。僕は彼女の手をそっと握りしめ、最後の温もりを感じながら、自分の魂が再び彼岸花の庭へと引き戻されるのを感じた。
### 終章:輪廻の庭
再び彼岸花の庭に戻ってきた僕は、少女が静かに待っているのを見つけた。
「もう、後悔はない?」
「うん……ありがとう」
彼女は微笑み、僕に別れを告げるように静かに手を振った。僕の体が徐々に光に包まれ、意識が遠のいていく。すべてが消えていく中で、ただひとつ、妹の微笑みだけが心に残った。
それは、再び会うことができた喜びと、最後の別れの証だった。
このお話から「彼岸花」と「妹」を取り出して次につなげます。




