第4話:量子もつれの恋(SF)
研究室の窓から、夕暮れが染み出していた。私、量子人類学者の久遠木アキラは、机に散らばった論文の束から顔を上げる。「出汁の定理」を発表してから三ヶ月。あの頃は、まだ彼女に出会う前だった。
「先生、まだいらしたんですね」
振り返ると、研究助手の空木マユが立っていた。彼女は地球外文明研究科の修士課程の学生で、私の「出汁の定理」に興味を持って研究室に参加した。
「ああ……データの整理をしていてね」
私は慌てて散らかった机を片付けようとする。が、手が震えて論文を落としてしまう。
「あ、私が」
マユが屈んで論文を拾おうとした時、私も同じように身を屈める。指先が触れ合う。
その瞬間、不思議な感覚が走った。まるで、量子もつれのように。
「先生?」
「ごめん。量子人類学者のくせに、こんな基本的なことにも気づいてなかったなんて……」
「基本的なこと?」
「そう。二つの粒子が出会った時、それらは互いに影響し合って、もつれ合う。それは距離が離れても続く。でも、観測された瞬間に、その状態は……」
「崩壊する」
マユが言葉を継ぐ。彼女の瞳が、夕暮れに揺れている。
「先生は、人の心も量子状態だと思いますか?」
「それは……」
私は言葉に詰まる。人の心を量子状態として捉えることは、量子人類学の大きなテーマの一つだ。しかし、今の私には、それが単なる学術的な問いには思えない。
「もし、そうだとしたら」
マユが続ける。
「二つの心が出会った時、それらはもつれ合う。そして、誰かが『観測』するまで、その状態は続く……」
研究室に沈黙が降りる。夕暮れが私たちを包み込んでいく。
「でも」
私は静かに言う。
「量子もつれには、もう一つ重要な特徴がある」
「何ですか?」
「もつれ合った粒子は、『重ね合わせ』の状態になる。つまり、複数の状態を同時に持つことができる」
マユの瞳孔が少し大きくなる。
「先生の言いたいことは……」
「そう。私たちは、先生と学生であり、研究者と助手であり、そして……」
言葉が途切れる。夕暮れが深まっていく。
「それは、シュレーディンガーの猫の実験みたいですね」
マユが小さく笑う。
「箱を開けるまで、猫は生きているか死んでいるか分からない。でも、それは『分からない』のではなく、両方の状態が同時に存在している」
「そうだね」
「じゃあ、私たちも……」
マユの言葉が宙に浮かぶ。
その時、廊下から足音が聞こえた。誰かが研究室に近づいてくる。観測者の接近。私たちは慌てて距離を取る。
量子状態は、観測された瞬間に一つの状態に収束する。でも、その前の「重ね合わせ」は、確かに実在していた。それは、科学的な事実だ。
「マユさん」
「はい?」
「明日も、私たちの量子もつれの研究を続けましょう」
夕暮れの中で、マユがそっと頷いた。彼女の笑顔が、夕陽に溶けていく。
(了)
このショートストーリーから「同じものを取ろうとしてお互いの手が触れ合う」シチュエーションを取り出して次につなげます。