第2話:極楽のおでん(人情もの)
春の宵、下町の路地に佇むおでん屋「極楽」の暖簾をくぐると、いつものように温かい湯気が立ち込めていた。
「っしゃっせ~!」
声の主は、八十を過ぎた大将・幸太郎だ。愛想のいい笑顔と威勢のいい掛け声の奥に、今日もどこか寂しげな影を宿している。
「あら、珍しい!」
常連の小梅さんが、私の隣の席に腰を下ろした。彼女は近所で古本屋を営む七十五歳の女将さんだ。
「この前の『完全な幸福の見つけ方』って本、面白かったわよ」
小梅さんは私に本を勧めるのが趣味だった。
「へえ、完全な幸福かあ」
大将が大根を切りながら、ぽつりと呟く。
「あっしはね、完全な幸福なんてもんは、おでんと一緒だと思うんですよ」
唐突な大将の言葉に、店内がしんとする。
「だって、おでんの出汁ってのは、完璧なバランスを目指して作るでしょ。でもね……」
大将は鍋から大根を取り出し、丁寧に器に盛る。
「毎日同じように作っても、その日の気温や湿度で味が変わる。具材の仕込み加減で変わる。そりゃあもう、神経を使いますよ」
私の前に置かれた大根は、とろりと柔らかそうだ。
「でもね、その不完全さがまた味わいになる。お客さんの好みも千差万別。ある人は堅めがいい、ある人は軟らかめがいい。だからこそ、毎日が勉強なんですわ」
小梅さんが静かに頷く。
「そうそう。私なんかね、主人が元気な頃は、毎晩ここで一杯やってたのよ。主人は固めの大根が好きでね。でも私は柔らかいのが好き。そんな些細なことで、よく言い合いになったものよ」
小梅さんの目が潤んでいる。
「でもね、今じゃそんな言い合いができた日々が、完全な幸福だったんだって思うの。もちろんその当時はそんなこと思いもしないわよ」
大将は黙って頷き、新しい大根を鍋に入れる。その仕草には、五十年の経験が詰まっていた。
「旦那様が……お亡くなりになって、もう十年になりますかね」
「ええ。でもね……」
小梅さんは私に向き直る。
「この店の大根を食べると、あの頃に戻れるの。固めの大根を頼むと、主人の好みを思い出す。柔らかい大根を頼むと、私との言い合いを思い出す。そうやって、大根一つで二つの幸せを味わえる」
大将は静かに包丁を置いた。
「毎日、同じように仕込んで、同じように煮込んで……。それでも、決して同じ味にはならない。でもね、それでいいんですよ」
大将は私に向かって微笑む。
「完全な幸福ってのは、その不完全さを愛おしむ心から生まれるもんじゃないでしょうかね?」
湯気の向こうで、大将の目が優しく笑っていた。私は思わず、大根を一口。とろけるような柔らかさの中に、確かな芯の強さを感じた。
(了)
このショートストーリーから「おでん」を取り出して次につなげます。
冬の寒い日はやっぱりおでんですよね。
私は大根、玉子、じゃがいも、ちくわぶ、スジが好きです。
おでんのスジが、関西と関東でまったく別物なのはご存知ですか?