第7話 伊藤
伊藤
――胡桃は抜け殻のような顔をして、看護士に付き添われながら部屋から出て行った。
「いやあ、やはりこういった方法は好きじゃないよ」
私は疲弊しながらそんな言葉を漏らした。まるで心に泥を塗られたような、とても、嫌な気分だ。思わず深い溜め息を吐いていた。
「私も、いい気持ちはしません」
小林さんが憂鬱な顔をしてそれに応じる。心優しく、ナイーブな彼女にとって、今回の試みは精神的ダメージが大きかったようだ。
「だよねえ。だってこれって、ただの人格否定、人格破壊だものねえ」
「しかし、上からの提案なので・・・」
石川くんがそんなことを言う。しかし、その言葉にはやり切れない感情が込められていた。
「でも、こんなやり方していたらこっちが先にまいっちゃうよ。上に文句つけとこう」
私はくたびれた表情を隠そうともせずに、若い二人の医師に愚痴を言う。
「上はそんなこと聞いちゃくれませんよ」
石川くんが怒るように吐き捨てた。
「まあねえ。でもそこはね、うまいこと言うさ。一応、私はそこそこ偉いからね」
私は何とか明るく振舞おうと、彼にウインクをしてみせた。石川君はそんな僕の意図を察してか、無理に微笑んでみせてくれた。
やはり、みんな優しい子だ。この研究には向かないくらいだ。
ーー私を含めてね。
「しかし、参ったねぇ。『まだ4回目ですよね』なんて言われちゃったよ」
「予想はしていましたけどね」
小林さんがノートパソコンを閉じて、ノートに今日のカウンセリングの終了時間を書き込む。
「彼女のカウンセリングを始めて、かれこれ10年近くになりますがねえ」
「ねえ。しかも週に6回も会っているんだよ。私なんてここに住み込んでまでいるのに。彼女とは自分の家族なんかよりずっと会っているよ」
「だから娘さんに嫌われるんですよ」
石川くんがちくりと毒を吐いた。
「あー、それ言われるときついなあ」
僕もそれに軽口で応じる。
しかし、彼も自分の子どもとはあまり遊べていないはずだ。私の娘はもうとっくに成人を過ぎた。少しくらい嫌われてもある程度はあきらめがつく。
しかし、彼の子どもはまだ幼い。
今度、石川くんには休暇をあげよう、と私は研究スケジュールを頭で組み直した。
「でも僕たちは、彼女が8歳のときから診ていますからね。研究対象者に感情移入をしてはいけないとわかっていますが、ここまでくると・・・」
「そうだねえ。もう彼女は家族みたいなもんさ。もう僕がお父さんで小林さんがお母さん、そんで石川くんがおじさんだよ」
「伊藤先生はおじいさんでしょう」
小林さんがばっさりと言い捨てた。
「ひどいなあ」
私がそう言って机に突っ伏すと、2人もやっと笑ってくれた。
――胡桃について。
胡桃はカウンセリングのとき以外は、自分の世界に閉じこもってしまっている。そして、自分の世界で眠るときだけ、こちらの世界に戻ってくる。
つまり、この現実は彼女にとって夢の中の出来事でしかない。
胡桃の生きている世界と、この現実の世界の間には大きな隔たりが存在している。
そして、その2つの世界は決して交わることはない。
しかし特例として、なぜかカウンセリングの時間に限っては、私たちは彼女の世界と繋がることができる。
この世界は彼女にとって幻のような存在なのに、なぜか私たちだけは彼女の世界に存在することを許されているのだ。
それがなぜなのかはわからない。
それは胡桃が、私たちのことを近しい存在として受け入れてくれている証なのだろうか。
私はもう一度、葉巻に火をつけた。
「彼女の現実はこの世界ではないのさ。彼女の脳内には、恐らくこの国と同じくらい、1億人以上の人格がいて、それぞれの人格が思い思いに生活したり、会話したりしているんだから」
石川くんが黙って、私に淹れたてのコーヒーを差し出した。
「それにこの世界だって誰かが作っているわけだからね。みんなが一つの夢を見ているのかもしれない。実際にはここが現実だなんてことは、誰も証明できないからねえ」
私はそう言って、コーヒーをゆっくりとすする。
すると小林さんが、差し入れでもらったクッキーを私に渡しながら言う。
「でも、いまだに信じられません。というよりも信じきれません。先生の仮説のように、本当に彼女の中にはそれだけの膨大な数の人格が存在するのでしょうか」
小林さんは綺麗な顔を、少し困ったようにしかめながら私の目をみた。
「そうだねぇ。10年続けて約15万3千人ちょっとの人格があることは確認できたけど、それだけじゃあ確定はできないかもね。でもね、胡桃ちゃんの話を聞く限りじゃあその可能性は高いよ」
私はクッキーをほお張りながらのんびりと返した。
「私だって先生たちと10年も一緒に研究しているんです。頭では先生の仮説が正しいと思っています。でも1億人以上の人格なんて確認できませんよ」
小林さんはうつむきながら小さく嘆いた。彼女の髪の毛がさらりと下に流れる。
「まず、無理だろうね」
私は途方もないその数を、頭の中で計算してみる。
「それなら、この研究に意味はあるのでしょうか」
石川君が、改めて私に問う。
「意味ならあるよ。彼女の為さ」
私はきっぱりと答えた。
「それに、わかってきたこともあるじゃないか。人格同士はひとつの世界を共有している。そして彼女の世界にはどういうわけか、『親』という概念がない」
今まで出会った人格に尋ねてきたが、誰も『親』という存在を知らなかったのだ。そもそも、その言葉の意味すらも。
現実の胡桃には親がいない。親類と呼べる者も。それが何か関係しているのだろうか。
「それと同時に『戦争』、『殺人』、『罪』や『罰』なんて概念もない。とても美しい世界さ。私らの世界なんかよりよっぽど素晴らしいよ」
私はこの世界を皮肉るように褒めてみせた。
「これからも、続けていくんですよね?彼女の人生が終わるまで」
石川君が尋ねる。
「うーん、続けるしかないだろうね。私達が彼女と外の世界を繋ぐ唯一の接点だから」
私はそう答える。しかし、彼の中でその答えは出ているのだ。私もこの2人も、すでにその覚悟を決めているのだから。
「いつか胡桃の本当の人格に会える日がくるでしょうか?」
小林さんが純粋な好奇心からか、そんなことを聞く。
「そう信じてやっていくしかないだろうね。もう治療は無理だよ。正直な話」
何をもって治療というのかは私にもわからないけどね。
「なあに、嫌になったら誰かに引き継ぎを探して、みんなで飲みにでもいこうよ」
「僕たちがこの案件から降りたら、それこそ過激派の連中がここぞとばかりにでしゃばってきますよ。ただでさえ僕たちのやり方は甘いと疎まれているんですから」
石川君が怒るようにたしなめた。
確かにそうなっては胡桃も人間として扱われることはないだろう。それは、私たちが最も恐れていることだ。
「キミ達はやさしいね。そう思っている時点で、やはり僕たちは胡桃の家族みたいなものなのさ。彼女を見捨てることなんて絶対にできない。だから、このまま研究を続けていくしかないんだよ」
そのまま、私たちは沈黙した。その間に、私はコーヒーに角砂糖を4粒入れて、スプーンでかき混ぜた。
「彼女の人生の終わりというのは、果たしてどこにあるのでしょうか」
ふと、小林さんがそう呟いた。
「難しい問題だね。でもきっと彼女はもう長くはないよ。哀しいけどね。あれだけの人格を抱えているんだ。脳、精神、つまり心にいつか限界がくる」
そう。いつか、胡桃の心の糸がぷつりと切れるときがくるだろう。
それは明日か明後日の話かもしれない。もしくは数年後か、数十年後の話かもしれない。
しかし、その時は必ずくるのだ。
「――それを見届けることが、僕達の役目さ」