第5話 ゆうご2
153026人目・ユウゴ
「僕にはいまいち理解ができません」
僕は納得ができない、ということをはっきりと態度に出して言った。
「それは、キミが――多重人格者だということについてかい?」
そんな僕に対しても、伊藤さんは自分のペースを乱すことなく、のんびりとした口調で呟いた。
「・・・はい」
「うーん、だろうねえ。でもそれは実証済みなんだよねえ。キミ、私と会うのは今日で何回目かな?」
伊藤さんは持っているボールペンで頭をこつこつと叩きながら尋ねた。そのフランクな言い方とは対照的に、声には淡々とした色が含まれている。
「え・・・。確か、4回目・・・ですよね?」
その質問の意図がわからないまま、僕は答えた。なんでそんなことをわざわざ聞くのだろう。
「うん、うん。キミとはそうかもしれないね。キミという人格と会うのは」
伊藤さんは疲れたように溜め息を漏らした。それは長い間に蓄積されてきた、精神的な疲労を思わせるような重い溜め息だった。
「・・・どういう意味ですか?」
すると伊藤さんは上目遣いでこちらを見据えた。その鋭い視線に、僕は思わずぞくりとする。
「つまり私らは、もっとたくさん、長い年数、それこそ数え切れないほど会っているということだよ」
「何を、言ってるんですか?」
僕は石川さんと小林さんに視線を送る。すると二人は、緊張した表情でこちらを見返した。
「キミの世界には、学校があり、動物園があり、友達がいて、見知らぬ他人もいて、犬や猫もいる。山だってあるし、海だってある。風だって吹くし、星だって月だって、太陽だってある」
キミの世界?どういう意味だ。
「それは・・・当たり前のことです」
「そう。当たり前だ。でもね、キミの言うその『当たり前』のことが、こちらからしたらとんでもないことなんだよねえ」
伊藤さんはそう言って葉巻と大きなマッチ箱を取り出すと、慎重に火をつけた。甘ったるい、独特の香りが部屋中に充満し始める。
そういえば伊藤さんが葉巻なんて吸うところ、今まで見たことがない。
もしかして、伊藤さんも緊張しているのだろうか?
「大抵、多重人格者の人格の数なんてたかが知れてるんだよ。まあ、稀に3桁の人格数を持っていた人もいたらしいけどね」
伊藤さんはゆっくりと葉巻をふかしながら、調子を変えずに話し続ける。そして、葉巻の先を僕に向けた。
「でもね、キミの場合はその比じゃないんだよね」
「その比じゃない?」
僕は火のついた葉巻の先端を見つめた。
「そう。単純に、キミが保有している人格の数がね、我々の常識というか、想像をはるかに超えているんだよ」
どういうことだ。多重人格なんていうのは、せいぜい数人分の人格しか持っていないものなんだろ?それだって、思い込みが大多数だっていうじゃないか。
まさか僕の人格が、数十人分あるとでも言うのか?
この人はさっきから、何を言っているんだ?
「キミ、前に小林さんがキミに見せたたくさんの名前を覚えているかい?」
「あの、パソコンで見せてくれたやつですよね?」
ノートパソコンの画面に、まるで暗号のようにびっしりと書かれていた、数え切れないほどの名前。どれも身に覚えも聞いた覚えもない、僕にとってはただの記号でしかなかったものだ。
「そうそう。それだ。そして最初のカウンセリングの時に、キミに『胡桃』という名前について尋ねたよね?それも覚えているかな?」
「はい、覚えています」
胡桃・・・。その名前を聞いたとき、なぜかとても懐かしい気持ちになった。その響きには不思議な安心感があった。
そう、あの日から「胡桃」という言葉は、僕に絶対的な存在感を与えていた。
「その『胡桃』という名前に、覚えがあるかい?」
「前も言ったじゃないですか。知っている気はするけど、覚えていないって」
僕は挑むように答えた。さきほどから続く遠まわしなやりとりに、僕はかなりの苛立ちを感じていた。
「うん、そう言っていたね。ちゃんと記録もとってあるよ」
「だから、何が言いたいんですか?」
伊藤さんはマウスを動かしながら、画面に映る何かを目で追っている。
「――キミの名前は?」
「は・・・?」
唐突なその質問に、僕は呆気にとられた。しかし、伊藤さんは大真面目な顔で僕の目を見据えている。
「キミの名前だよ。あ、下の名前だけで結構」
「ユウゴ・・・です」
ここまできて何を言うかと思ったら、自分の名前だと?
これは悪ふざけだと言ってくれ。タチの悪いジョークだと。
しかし、伊藤さんは人差し指で机をとん、と叩き、今まで見たことのない真剣な表情を浮かべていた。
「そう。キミは、ユウゴという『人格』だ」
そう言って伊藤さんは少し沈黙した。
「でもね、キミの本当の名前はそうじゃない」
この人は何か、取り返しのつかないことを言うつもりだと、僕は直感した。
――これを聞いたら、後戻りができなくなる。聞かない方がいい。
しかし、伊藤さんはそんな僕の意思などお構いなしに、覚悟を決めたような顔をして言った。
「『胡桃』というのはね、キミの本当の名前だよ。正しくは、キミの主人格の名前だ」