第4話 つかさ
8563人目・つかさ
「母親ぁ?」
つかさは僕の問いにオウム返しで尋ねながら、こちらにボールを蹴って寄こした。
「そう。覚えてない?」
俺も彼女にボールを蹴り返しながら、重ねて聞き返す。
ここは病棟の裏にある運動場だ。大きさはテニスコート二面ほど。少し体を動かす分にはちょうどいい広さだ。
つかさはサッカーが得意だというので、こうして一緒にカウンセリングの気晴らしを兼ねて、運動をすることにしているのだ。
「うーん、よくわからないなぁ」
つかさは難しそうな顔をしながら人差し指で頬をかいた。
「そっか。じゃあお父さんは?」
俺はジェスチャーでこちらにボールを蹴るように促す。
「お父さん・・・うーん」
つかさは戸惑うように苦笑いを浮かべた。そして、「わかんないやぁ」と困ったようにボールを高く浮かせて俺に渡す。
「そうか」
俺はそのボールを胸でトラップして、そのまま腿を使ってリフティングを始めた。
「それより、石川さんはどうなのぉ?奥さんとかいるのぉ?」
つかさはボールの行方を見守りながら尋ねる。
「ああ、いるよ。子どもも二人いる」
「へえ。男の子ぉ?」
「男の子と女の子が一人ずつ」
俺はそう答えながら、自分の子どもの顔を思い浮かべた。
「いくつぅ?」
「四歳と三歳」
この時間だと、二人はまだ保育園で遊んでいることだろう。
俺はリフティングで上がったボールをダイレクトで浮かして渡す。
「ふぅん」
つかさも俺に対抗するように、それをダイレクトで蹴り返したが、方向が逸れてボールは俺の後ろに飛んでいった。
「あ、ごめぇん」
つかさは軽い調子で両手を合わせて謝る。俺は「いいさ」と言って小走りでボールを取りに行った。
「そういえばさぁ、さっき小林さんって人がパソコンで見せてくれた、あのすごい数の名前って何なのぉ?」
つかさが思い出したかのように尋ねてきた。
「ああ。あれはちょっとした心理テスト・・・みたいなものだよ」
俺はしゃがんでボールを取りながら、少し大きな声で言い返す。
「ふぅん」
つかさは納得していないように呟いた。俺がごまかしたことに気づいているようだ。
「じゃあ、胡桃っていうのはぁ?重要な人の名前なわけぇ?」
つかさはつまらなさそうな口調で更に質問を重ねる。
「まあ、ね。でも知らないなら別にいいんだよ」
俺はなんてことないという風を装って明るく答えた。そしてまた拾ったボールを蹴る。
「石川さんはいい人だねぇ。私を庇ってくれてるんだぁ」
つかさは小さく笑いながらそんなことを言った。
やはりこの子、勘が良い。
「そんなつもりは・・・多少ある」
「ふふふ。やっぱり。てゆーか、伊藤さんも小林さんも優しいよねぇ」
「そりゃそうさ。俺たちは、君のことを誰よりも大事に思っているんだよ」
俺はそこの部分を強調して伝えた。そうだ、それだけはこの子にわかってほしい。
俺は・・・いや、伊藤さんと小林さんも。この子たちには随分と強い思い入れがある。この子たちに出会った時から俺たちの生活は、この子たちを中心にまわっているのだ。
そして、それによって自分の家族には相当に寂しい思いをさせてしまっている。この研究のおかげで、自分の子どもとはまともに遊べたことがなかった。
しかし、妻はそのことに理解を持ってくれている。妻と結婚した一年後にこの研究が始まった。この間に十一回目の結婚記念日を迎えていたが、彼女には本当に頭が上がらない。
「私も幸せモンだねぇ」
つかさはそんな俺の考えていることを見透かすように、皮肉っぽい笑いを浮かべた。
しかしその様子から、俺の言葉を嬉しく思ってくれているのも伝わる。
つかさがボールの上に座ったので、俺もその場で座り込んだ。
「私はぁ、さっきの伊藤さんが話してくれたこと・・・信じるよぉ」
「本当かい?」
僕は驚いて聞き返した。
「あれぇ?意外だったのぉ?」
つかさはそんな俺の反応を面白がるように笑った。
「今まで、どの子に話しても信じてもらえなかったんだ。君が初めてだよ」
俺がそう言うと、つかさは両手の指を絡ませて、思い切り伸びをした。
「まぁ、自覚はないんだけどねぇ。でも石川さんたちが言うならそうなんだろうねぇ」
そう呟きながら、つかさは淋しそうに微笑んだ。
俺は思い切って尋ねてみることにした。
「君の世界には、戦争はあるのかい?」
「・・・戦争?何それ?」
つかさはきょとんとしながら首を傾げる。その反応には、嘘をついたり、とぼけていたりしている様子は微塵も感じられない。
「じゃあ、殺人や、強盗なんかは?」
僕は背中に冷や汗をかきながら聞いた。
「サツジン?ゴォトオ?石川さぁん、さっきから何を言ってるのか、わかんないよぉ」