第3話 ひより
153704人目・ひより
「では、これを見て下さい」
私はノートパソコンの画面をひよりちゃんに見せる。そこには何千人にも及ぶ膨大な名前が書き込まれている。ひよりちゃんはその画面を虚ろな目で見つめた。
「これらの名前に覚えがありますか?」
私はゆっくりと画面をスクロールしていく。ひよりちゃんは黒目を移動させながらそれらの名前を追っている。
「・・・・・・」
「誰か一人でもいいんです。どうですか?」
私は再度、穏やかに尋ねる。
「名前が・・・多くて」
ひよりちゃんは困ったように呟いた。
「あ、そうですよね。ごめんなさい。ゆっくり見て下さい」
私は慌てて言い直す。
「ピンとくる名前があったら教えてくださいね」
「・・・うん」
私はそれ以上のことは言わないことにした。この子はとても繊細な子だ。答えを急かすようなことはまず控えなければならない。
この子は男性が極度に苦手で、私にしか心を開かないのだ。伊藤さんや石川くんが話し掛けても、彼女は一言も喋らない。
だから、この子がこうして声を出すだけでも、とても珍しいことなのだ。
なので、彼女が来ている間だけは、私が伊藤さんに代わってカウンセリングを担当している。その間、二人は黙って後ろに控えているので、部屋内には何とも違和感のある雰囲気が出来上がっていた。
なにせ、あのおしゃべり好きな伊藤さんが、ひたすら黙って座っているのだ。恐らく、伊藤さんはこの時間をかなり苦痛に感じていることだろう。
しかし、このまま彼女の発言を待っていては、らちがあかないこともわかっている。彼女は自発的な行動をすることがないからだ。
しばらくの間、部屋は沈黙に支配された。
彼女が名前を見始めて三十分が経とうとしていた。
そろそろ、こちらから発言を促していった方が良い頃合だろう。そうしなければ一回目の時のように、無言のままカウンセリングの時間が終わることになる。
あの時は、伊藤さんが珍しくお手上げといった様子で困っていた。これは後々に、私たちの笑い種となっている。
「そうですね。では・・・ナツメさんという名前に心当たりはないでしょうか?」
「・・・ない」
ひよりは淡々と答える。
「では『胡桃』、という名前には?」
「・・・聞いたことがある気がする」
やはり、そうか。この答えは今までの統計から予想ができていた。
「それと・・・この、ユウゴって人も知ってる」
ふいにひよりちゃんが、そんなことを小声で呟いた。
「本当ですか?」
その発言に、私は思わず身を乗り出して声をあげた。するとひよりは、怯えるように体を引っ込める。その反応を見て、しまった、と私は思った。
「うん。同じ・・・学校だから。あと・・・同じクラス」
しかし、ひよりちゃんの口からは更に驚くべき事実が告げられた。後ろで伊藤さんと石川くんが息をのむのが気配でわかった。
「何という学校名ですか?」
ひよりちゃんは学校名を言う。私はそれを急いでタイピングした。
「クラスには他に誰がいます?名前を挙げてください」
そうして私は、ひよりちゃんが挙げていく名前を片っ端からパソコンで検索する。
その結果、ユウゴ君の他に二人の名前がヒットした。
「なるほど。ありがとうございます」
私が優しく微笑みかけると、ひよりちゃんは安堵するようにそっと息を吐いた。
「その、ユウゴ君とは話したことがありますか」
「・・・うん」
「どんな話をしましたか?」
「え・・・。覚えてない。大したことは話してない」
「彼はクラスでいじめられていませんか?」
「いじめられてない。人気はある方、だと思う」
そうですか、と私は返した。十分過ぎるほどの話が聞けた。これは想定外だ。
「どうでしょう?伊藤先生」
私は後ろを振り向いて、伊藤さんに声を掛けた。伊藤さんは真剣な表情で自分のあご髭を撫でる。
「うん、そうだね。久しぶりの、珍しいケースだ」