第1話 ゆうご 1
153026人目・ユウゴ
僕は今日も、病院へ行く。
病院といっても、僕はけがなんてしていないし、風邪をひいているわけでもない。僕が病院へ行くのは、そうした多くの人達が病院へ行くような理由によるものではないのだ。
どうやら僕は、精神病らしい。
自覚はなかった。ただ、自分は話す相手によって態度が変わっているな、とは感じていた。
そしてそれを「僕は人と付き合うことが上手な、気分屋」なんだと勝手に思っていたのだ。
しかし、僕の周りの人間はそうは思っていなかったらしい。
学校では、ころころと態度が急変する僕を気味悪がる子も大勢いたという。僕の部屋には全くジャンルの違う漫画や衣服が並んでいて、その中には明らかに女の子が着るような服や装飾品もあったそうだ。
そして、そんな僕を心よく思っていなかったクラスメイトが、僕に暴力を振るったことがあったみたいだ。
そのことをきっかけに翌日からは僕に対するいじめ、とよばれるものが始まったらしい。
詳しいことは覚えていないが、毎日ボロボロになって、行きには履いていた靴や、持っていた筆箱なんかを失くして帰ってきていたそうだ。
そんな僕をみて、誰かが僕を学校へ通わせるのをやめさせたらしい。そしてその代わりに、僕をこの精神科の病院へ連れて行ったのだと聞いている。
しかし、僕にはその話の全てが実感としてない。
今でも僕は毎日学校に通っている。前に、そのような夢を見たような気もするが、実際では僕の身にそんなことなんて起こっていないはずなのだ。
そう、それらの話は全て、聞いた話でしかない。
しかし、その話を誰に聞いたのかは、全く思い出せなかった。
僕は精神科に対してどこか重苦しいイメージを抱いていたのだが、行ってみるとそのオープンな雰囲気に驚いた。
今では精神病というのは一般的な病として定着しているのだな、と変な感慨すら覚え、そしてその事実にぞっとした。
精神病が珍しくもないこの社会は狂っている。そうなるまで仕事をしたり、学校にいったり、人と付き合ったりしている。
そこまでして生きていくことに意味はあるのだろうか。以前まではそんなことを考えてしまうこともあったが、今では疑問にも思わなくなった。
僕のカウンセリングをしてくれたのは、白いひげを生やして銀縁の丸眼鏡をかけた、恰幅の良いおじさん医師と、短髪の似合ういかにもスポーツマンといった感じの男性医師、そして黒い髪をショートに切り揃え、いつもパソコンで何かを打ち込んでいる美人な女性医師の三人だった。
「やあ、こりゃどうもどうも。初めまして」
一見するとサンタクロースのようなおじさん医師は、初めて会った時から馴れ馴れしく話しかけてきた。しかし、僕はそれを不思議と不快には感じなかった。
なぜか僕も、この人とはまるで昔からの知り合いのような気がしたのだ。
「・・・はじめまして。ユウゴです。よろしくお願いします」
僕はとりあえずそう言って軽く会釈をした。
するとその先生は、さみしそうな色を含ませながら目を細め、静かに微笑んだ。心なしか、その笑顔には疲労感がただよっていた。
「ユウゴくんね。えーっと、私は伊藤と言いまーす。で、私の隣にいるこの子は石川君ね」
伊藤と名乗る医師に紹介された石川さんという人は、明るい笑顔を僕に見せ、「石川です。よろしく」と爽やかに言った。
「彼、サッカーが趣味だから。キミ、サッカー好き?」
伊藤さんはまるで親戚の子どもに話しかけるように尋ねた。
「いえ、特には。普通です。水泳はやっていましたが」
僕は伊藤さんの会話のペースに戸惑いながら答えた。
「ふーん、そりゃ結構結構。で、彼女が小林さんね」
伊藤さんは興味がないかのように僕の話を聞き流して、紹介を続けた。自分から話をふったのに、と僕は少し不満を感じた。デリカシーのない人なのだろうか。
少し離れた席に腰掛けていた小林という女性医師が立ち上がり、僕に向かって丁寧にお辞儀をした。その整った顔立ちからは何の感情も読み取れない。
「小林さんって何かやっていたっけ?」
伊藤さんが雑に問いかけた。
「学生時代に陸上をやっていました」
小林さんは立ったまま答える。
「ふーん、種目は?」
「短距離です。一応国体にも出ました」
「あらま。そりゃすごいね」
伊藤さんは本当にすごいと思っているのかいないのか、そんな安っぽい感想を漏らした。それを聞いた小林さんは控えめに小さく笑った。どうやらこの人も悪い人ではなさそうだ。
そうして、僕のカウンセリングは始まった。
「――ところでキミは、自分が精神病だという自覚はないんだよね?」
簡単な世間話の後、伊藤さんは唐突にそんなことを聞いてきた。
「え、ええ。全く」
僕はまたも戸惑いながら答えた。
今日で三回目のカウンセリングになるが、伊藤さんのそのずけずけとした物言いにまだ慣れることができずにいた。
「ふーん」
伊藤さんはカルテのようなものをペラ、とめくった。
「前も聞いたかもしれないけど、普段は何をしているの?」
「普段・・・」
僕は返答に困る。普段、僕は何をしているのだろうか。
「・・・学校に通ってますよ。あとは家に帰ったらパソコンを見たりとか、本を読んだりとか」
「そりゃ結構。休みの日なんかは?」
「外をぶらぶらしたり、友達と遊びに行ったりとかですかね。普通ですよ」
「ふうん」
伊藤さんは頭をぼりぼりと掻いた。小林さんが無表情にパソコンに何かを打ち込む。
「ええっと、キミは学校でいじめられていたと聞いているけど、今はどうなの?」
伊藤さんは他愛のない話をしているかのような口調でそんなことを言った。
僕はその質問に、困惑しながら答える。
「いや、僕にはそんな覚えがないんですよ。友達とは上手くいっていますし・・・。何でそんな風に言われているのかもわからないんです」
「つまり、記憶にないってこと?」
「というより、身に覚えがないんです。別に記憶がないわけじゃないです。今までのこともよく覚えていますし」
「ふうむ」
そこで伊藤さんは考え込んだ。そして思わせぶりに石川さんの方に視線を送る。
「確かに、彼には記憶の連続性が認められます。記憶を失った期間があるようには思えませんね」
石川さんは伊藤さんの視線に応えるように説明した。
「なるほどなるほど。じゃあ、何でそんな話があるんだろうねえ」
伊藤さんはのんびりと呟いた。
「さあ」
「キミは一時期、いじめられている夢をよく見ていたそうじゃない。最近はどう?そんな夢とかみたりする?」
「いえ、今は全く」
すると伊藤さんはへら、と笑った。
「そりゃ良かったね。キミは、夢自体はよく見る方なのかな?」
「そうですね。よく見る方、なのかな。わかりません」
周りの人と比べたことがないのだから、そんなことわかるわけがない。
「そうかい。例えば・・・今はどんな夢を見るわけ?」
そこで僕は少し考えた。
「最近は、白い部屋にいる夢をよく見ます」
「白い部屋?」
その言葉に伊藤さんの目の色が少し変わった。
「はい」
「そこで何しているの?」
「別に、そこでベッドに座ってぼーっとしているだけです」
僕はいつも見るその夢の内容を思い出した。白い壁に囲まれ、格子の付いた窓が一つ。白いカーテン、白いベッドカバー、白い椅子、そして机。その部屋の全ては無垢に染まっている。
そこで僕は、きっと夢遊病者のように虚ろな瞳をして、ただぼうっと座っているのだ。
「それは、いつも同じ夢なのかな?」
「そうですね。夢を見るときは毎回その夢です」
「ふうむ。なるほどなるほど」
そこで小林さんと石川さんが思わせぶりに目を合わせた。
「何か、それに意味があるんですか」
僕は気になって尋ねた。
「いやね、心理学には、夢の内容を重視していた時代があったんだよ。人の深層心理は夢に現れるってね。まあ私はあまり信じていないけど」
「そうですか」
「ユングとか、フロイトとか、聞いたことない?」
「名前くらいは・・・」
伊藤さんは「有名だものねえ」と嬉しそうに笑った。どうやらあまり信じてはいないけれど、好きなようだ。
「まあ、夢分析とはいってもこの二人は解釈が全く異なるんだけどね。でも、今のキミの話はとても参考になったよ」
そう言って伊藤さんは満足気に頷いた。
「ところで、キミは『胡桃』という名前に心当たりはないかな?」
その名前を出したとき、どことなく部屋の空気がピリ、と緊張した。
「え、胡桃・・・ですか?」
僕はその名前を聞いて、なぜかとても大きな懐かしさを感じた。
――なぜだろう。僕はこの名前を知っている気がする。どこかでそんな名前の子と会ったことがある気がする。
――でも、思い出せない。
「心当たりはないです。でも、なんだか聞いたことがあるような気もします」
「うーん。そうかい」
気がつくと、いつの間にか小林さんがノートパソコンを閉じていた。
「まあ、また思い出したら教えてよ」