別視点
ヴァレット視点です
宝石店の店主に報酬を渡しにいくと言っていた主人は、庶民が使用する店で美味しそうに焼き菓子を頬張っていた。宝石店まではたどり着いたのだ。たどり着いたのだが、たまたま店の向こうに美味しそうな菓子店を見つけてしまった。食べたいと言い始めた主人を止められる者はここにはいない。結局俺たちはリスのように頬を膨らませる主人を静かに見つめていた。
「ヴァレット、さっき店に客がいた。もう居ないか見てきてくれ」
食べ終わってからゆっくり向かえばいいものを。そう思ったが、従わなければいけないだろう。呆れを表情に出さず、俺は先ほど通り過ぎた宝石店へ向かった。
外から店を覗き見ると、まだ客はいるようだ。だが、その客は宝石を買いに来たようには見えない。それに彼女と親しげに笑い合っていた。
すぐに主人の元へ戻って、まだ客がいる、と伝えなければいけないのに、俺はそこから動くことができなかった。
思ったより早く話が終わったようだ。男が店先に出てくると、警戒の眼差しをこちらにむける。俺のような男が宝石店に用などあるように見えないのだろう。
少しピリついた空気を、遅れて入り口に現れた店主が収める。今は日が登っているので彼女は何も見えていないだろうに、声で俺だと判別してくれたことが少し嬉しい。
彼女の店御用達の職人だという男は、最初よりはいくらか警戒を解いて去っていった。彼女から、あの男の店のことを教えられたが、俺が利用することは一生ないだろう。
店に入らないのか、と聞かれた時、そういえば主人を呼びにいかなければいけないのだったと思い出した。
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先日の社交会での苦労も虚しく、主人は気にいる女性を見つけることができなかった。
報告するために宝石店に来ていたが、彼女も主人の発言や行動に呆れが勝ったのか、主人に対する態度がどんどん素になってきている気がする。最初の営業スマイルは今やもう無い。
その場は、主人の本質に合わせてアドバイスをしていく、という結論で落ち着いたのだが、それからが大変だった。毎日のように主事が宝石店へ通うのだ。結婚相手を探しているのに、先に変な噂が出回ってしまわないか護衛たちは内心ヒヤヒヤしていた。
だが主人にここまで正直な意見をぶつけられる人材は貴重だ。これで少しでも主人が成長してくれないかと期待してしまうのもしょうがないことだった。
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「気に入った女がいなかったんだ!しょうがないだろう!」
「だからあ!!!」
何度目かわからない怒号が飛び交う。2人とも熱が入ってどれだけ自分たちの声量が上がっているかわかっていないようだ。
気分を落ち着けようと主人と彼女が一息ついた時、彼女が俺たちにも席に座ってほしいと提案した。今まで気になってはいたが、主人と気安く話せるようになったので提案してくれたのだろう。そんなことを言われたことがないので少し躊躇ったが、主人の許可も降りたのでありがたく座らせてもらう。今は立場など関係ないので、主人と同じ卓についても問題ないだろう。
リックだけは座ることに抵抗していたが、主人の一言で大人しく座らされていた。こう言う扱いは上手い。
これからどうして行こうかと皆んなで頭を悩ませていると、店主が閃いたと声を上げた。計画としては、仮面を各社交会参加者に配る、と言うシンプルなものなのだがそれが案外手間がかかる。社交会主催者に許可を取り、町中の仮面やベールをかき集めなくてはいけない。それに奔走するのは俺たちなのだが、主人の我がままに振り回されるのももうすぐで終わると思えば頑張る甲斐がある。
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「グレイ様。先方からお返事が」
デイビーがグレイに華美な便箋を手渡す。例の計画を進めるためには社交会主催者に許可をもらうことが必須だったのだが、その許可取が何よりも手がかかった。それもそうだろう。開催は近いと言うのに、いきなり仮面を配らせてくれと言われても戸惑うのは当たり前だ。
裏など無いと納得してもらうのに数日を要してしまった。
「よし、仮面の準備も粗方終わっているから、これでひとまず安心だな」
特に何もしていない主人が、ホッと胸を撫で下ろす。基本走り回って準備を進めていたのはデイビー、リック、俺を含む主人の部下たちだ。
「店主に一応報告しておいてくれ」
主人の目がハッキリと俺を捉えた。自然と俺が宝石店へ行く流れになる。
日が傾き始めた頃、店に着くと店主が快く迎えてくれた。だが彼女の態度は俺の主人に向けるものとは違い、表情も少し硬い。
一応報告に来たと告げると、彼女はまるで自分の事のように上手くいくかどうかを思案し始めた。その様子が面白くてつい眺める。あ、と思った時には店主のサングラスが床に落ちていた。反射で彼女より早く拾ってしまい、手渡そうと手を伸ばすが彼女はなぜか顔を手で覆っている。
「……なぜ隠す」
純粋な疑問でそう尋ねれば、気持ち悪いから、と言うよく分からない答えが返ってきた。何が気持ち悪いのだろうか。気分が悪いようには見えないし、それで顔を隠すのはよくわからない。
そこで俺ははたと、原因は自分かもと思い至った。お前は顔が怖いのだから笑え、と良く主人に言われていたのだ。女子供を怯えさせてしまうことも多々ある。
素直に、俺が原因なのかと問うと彼女は慌てて否定した。俯く彼女の髪の毛から覗く耳が赤い。それを見ているとなぜか胸がざわざわする。
誤魔化すように、再度問うてみた。では何が気持ち悪いのかと。返ってきたのは思いもしない言葉だった。彼女の言葉を全力で否定したいのと同時に、彼女にそんな心ない言葉を投げつけたのは誰なのかと眉間に皺が寄りそうになる。
だが俺が踏み込むことではない。それはわかっていた。なのでただただ自分が感じていることを言葉にする。
「君の目は綺麗だ」
心からの言葉だった。絵画を見た感想のような。貴賎のない思い。
「ふっ……うう……」
想像していなかった彼女の涙に、俺は握っていたサングラスを取り落としそうになった。店主を泣かせてしまった。傷つけてしまったのだろうか。
俺はどうしたらいいか分からず身動きができなかった。泣いている女性の慰め方など教わっていない。
どうしたら泣き止んでくれるだろうかと逡巡していると、彼女は嬉しいのだと俺に伝えた。家族や友達以外に褒められたことがないと。
悲しませたわけでは無かったことに安堵し、俺は彼女にサングラスを返し早々に店を後にした。
道すがら、自問自答する。
なぜ彼女を前にすると自制が効かなくなるのか。周りから見れば無感情を貫けているように見えているだろうが、常に無い感情が自分の中でざわざわと音を立てているのは自覚していた。主人の元へ戻るまで自問自答は続いたが、結局答えが出ることは無かった。
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社交会当日ギリギリに準備が終わり、護衛三人は少々ぐったりしていたが、特に問題もなく社交会を終えた。
帰りの馬車を手配し主人を迎えにいくと、なんだか元気がない様に見えた。仮面を付けているので顔色までは伺えないが、いつもと様子が違う。2人の隣にはなぜかすらりとした男性が。シンプルだが顔のほとんどを覆うような仮面を付けているので誰かはわからない。
先ほどまで主人に付いていたリックも同様に思案顔だ。何かがあったのだと察しはしたが、主人が説明する気配はない。無理に聞く必要も無いかと、全員で馬車に乗り込む。主人に気取られないように観察するが、何か思い詰めたような雰囲気だ。何の紹介もなく一緒に乗り込んだ男も特にしゃべろうとしない。馬車内は思い沈黙に包まれていた。
「降りる」
社交会の会場を出発してから一言も発さなかった主人が、辛うじて聞き取れるほどの声でボソリと呟く。
「えっ、ここでですか?」
焦ったデイビーが確認するが、主人は自分の手で馬車の天井を2回強く叩き馬車を止めてしまった。呼び止めるも返事さえしない。まるで追手を振り切るかのように素早い身のこなしで、主人は馬車の扉をサッと開け飛び出して行ってしまった。外は雨が降っていると言うのに。
「俺が行く」
戸惑うリックとデイビーを残して俺は主人を追った。何があったか知っているだろうリックは追おうともしないし、デイビーは大人しく座っている名も知らぬ客人と、主人が去って行った方向を交互に見てどちらを優先すべきか悩んでいた。俺が行くしか無いだろう。
馬車を出ると数秒で頭からずぶ濡れになる。あっという間に小さくなる背中を追っていると、見慣れた道に出た。
ここは確か。
大きい道に出たせいで主人の姿を見失ってしまったが、行く場所は予想ができた。
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「好きな人でも出来たんですか?話なら後で聞きますから、まずは乾かさないと」
「俺を!……俺を見てくれ……」
店にたどり着いた瞬間、会話が耳に飛び込んでくる。主人のこんな声を聞いたのは初めてだ。胸に熱が溜まり、掠れたような声。
主人の背中越しに、店内に彼女がいるのが見えた。自分を見てくれという声に答え、ゆっくりとこちらに歩み出す。何か作業中だったのか、サングラスはしていなかった。
近くまでくると、彼女が主人の顔を見つめ柔らかく、それは愛おしそうに微笑んだ。今まで見てきた笑顔とは違う。
それは、まるで好きでたまらない恋人に向けるような表情で。俺の胸がドクリと大きく音を立てた。
彼女はさらに主人の方に歩み寄り、両腕をゆっくりと広げた。主人は躊躇うことなくその腕に飛び込み、声をあげて泣いている。今まで子供のような人だと思っていたが、泣いたところは見たことがなかった。それがこんなにも素直に。
主人の願いが思いもよらぬところで叶ったのだ。そう考えると単純に良かった、という感情が湧いた。だが同時に、胸のどこかが酷く痛む。抱き合っている2人を見ているのが辛い。すぐにでも目を逸らしこの場を去ってしまいたい、そう思っている自分に気づいた。
無意識に胸のあたりをグッと掴む。
俺は気付かぬうちに、彼女に、ジルに恋をしていたのだ。恋を自覚すると同時の失恋。
だが気づいたところでもう意味がない。この2人のこれからの幸せを祈る。それだけが俺にできることだった。
ありがとうございました!