全 紫釉《チュアン シユ》に潜む影のもの
爛 梓豪と別れた全 紫釉は、ひとりで町外れに来ていた。
そこは花街のようにきらびやかでもなければ、市のように人々で溢れているわけでもない。
薄暗く、汚れた場所。柄の悪い者たちが集い、窃盗などの犯罪が常習化した、治安の悪い地区だった。
そして治安の悪さに拍車をかけるように、衛生管理も壊滅的だった。
屋根という屋根があってないような建物は、壁すらもボロボロだ。百足虫や蜘蛛などもいて、生ゴミが散乱している。
地面に藁を敷いて寝ている者、女に至っては体を売って白昼堂々男と交わっていた。
そんな場所を、全 紫釉は黒い衣を被りながら歩く。見た目が怪しい格好の彼は、これまた不審者たちに眺められていった。
──矛盾してるなぁ。まあ、いいか。情報を得られるのなら、どこにだって出向いてやる。
普段の礼儀正しい言葉遣いはなく、舌打ちすらしていた。けれどその舌打ちがいけなかったようで、この場にいる柄の悪い男たちを集めてしまう。
いつの間にか囲まれてしまっていた彼は「あれ?」と、きょとんとした。
「おい、あんた! 無理やり身ぐるみ剥がされたくなかったら、金目のもん置いていけ!」
男たちが小刀をちらつかせる。
それでも全 紫釉は動揺どころか、騒ぐことすらしなかった。
「へ、へへ。ビビってんのか? だったら大人しく、金目の物を置いて……へ?」
集団のうちのひとり、金目の物に執着している男が言葉を失った。なぜなら男、そして周囲の柄の悪い者たちの足元……そこには、この場には相応しくない蒼い花があったからだ。
直前まで何もなかった地に、音もなく現れたそれ。
当然男たちは悲鳴をあげ、花を踏み潰そうとした。けれど花は踏み潰すことができず、むしろ元気になっていった。
「な、何だこりゃ!?」
「ひいっ!」
男たちの、見苦しくも醜い声が響く。
──何をそんなに慌てているのやら。たんに、花が生まれただけだというのに。
踏んでもすぐに起き上がる花たちを、何度も足蹴にする男へと向き直った。衣を深く被ったまま、ため息をつく。
「別に驚くことはないでしょう? そんな要素、どこにもありませんが?」
突然現れ、すぐに背を伸ばす花が普通だと言った。小首を傾げながら、ちょっとだけ唸る。
怯える男たちへと近づき、腰を曲げて花びらを撫でた。花びらはツルツルとしていて、とてもいい香りがする。
その香りや手触りに頬を緩ませた。
「私は、この花……彼岸花が大好きなんです。それを踏み潰す者も、壊そうとする者も、好きではありません」
花びらを一枚だけ取る。それを口に入れ、ふふっと妖艶に微笑した。深紅の瞳が濁ることなく、男たちを見据えていく。
男たちは小さな悲鳴をあげた。
けれど全 紫釉はそんなことはどうでもいいと言った様子で、ほくそ笑む。指をパチンっと鳴らせば、花たちは一瞬で地面へと潜っていった。
彼は、それを何でもないといった瞳で見つめる。
「……ば、化け物」
「私が、ですか? ……まあ、別に慣れてますからいいんですけどね」
あっけらかんとした言葉で返した。黒い衣の隙間から銀髪がさらり、さらりと流れる。
それを目で追った後、男たちを直視した。
「それはそれとして、聞きたいことがあります」
透明な川のように透き通る声で語る。
男たちは互いの顔を見合せた。全 紫釉に怯えながら「な、何だよ!?」と、後ろへと下がる。先ほどまでの大きな態度とは違い、生まれたての小鹿のように震えていた。
「……ある店で働いていた女性が、鼻血を出して倒れたという噂を知っていますか?」
その話をふった瞬間、男たちは肩を震わせる。当然彼は、それを見逃さなかった。
「……知っているようですね? というか、その怯え具合から察するに、少なからず関わっているように思えるのですが?」
──やはり、ここに来て正解だった。ここは、仕事を探す者たちが集う場所だ。日雇いだろうと誘拐だろうと、お金を貰えれば何だってする。そんな人たちの溜り場と言われている。……まさか人殺しの手伝いまでするとは、予想外だったけど。
事前に入手していた情報を手に、男たちを相手取った。
あくまでも情報を欲する怪しい存在として。すべてを知り尽くしたと見せかけ、逃げ道を塞いでいった。
もう一度、静かに尋ねる。
すると男たちは観念した様子で話し始めた。
「お、俺らも詳しくは知らねー。数ヵ月前、食堂の店主がここに来たんだ。そのときに……港に異国からの品が届くから、それを受け取ってくれ。そう、言われたんだ」
「……なるほど。では、それの中身は見ましたか?」
淡々と質問する全 紫釉のひとみは朱く、男たちを怯えさせる。
男のひとりが強く首をふり、見てないと答えた。
「中身を見ちまったら、何されるかわからねー。だからそういうのは、見ないようにしてるんだ。ただ……」
男たちは小刀をしまい、全 紫釉と真向かう。顔を真っ青にさせながらガタガタと震えた。
「か、嗅いだことがないような匂いがしたんだ。苦いような……変わった匂いだった」
「……っ!?」
──変わった匂い? それが何なのか……見当もつかない。
「他に気づいたことはありますか?」
「ど、どうだろうな? 俺は言われるがままに袋を運んだだけだし。お前らはどうだ?」
他の男たちは何もわからないようで、全員が首を傾げている。
瞬間、見計らったかのように、物陰から老人が現れた。杖をついて歩く老人は、袖から薄汚れた布を取り出す。
「わしは運んではおらんでの。力仕事は若いもんの仕事じゃて。じゃがワシは、ちぃとばかし悪戯が好きなんじゃ」
全 紫釉を物珍しそうに見ては、布を開いていった。そこには黄色い楕円形の粒がひとつある。
彼は膝を曲げ、大きな瞳で布の上にある物を凝視する。触ってみれば表面は固く、殻のようだった。
唐辛子のように鼻をつつく辛い匂いも、お菓子のような甘い香りもしない。男たちが言うように、苦いような香りがしていた。
「…………」
「こやつらの運んでおった袋から、ちぃとばかり拝借したんじゃ。たくさんあったでの。ひとつやふたつなくなったところで、わかりゃせんじゃろうと思うてな」
片目を瞑り、お茶目に微笑んだ。
「ふふ。おじいさんは手癖、悪いですね?」
軽口をたたきながら、楕円形のそれを注視する。
──黄色い楕円形のもの。苦いような匂い……これは間違いない。カカオだ。
確信を持ちながら眉をよせる。戸惑っている男たちを見ながら、もっと詳しく知りたいと口述した。
「あなた方は、言われてこれを店まで運んだんですか?」
「あ、ああ」
彼らは一様に頷く。そして男たちは、あることを口にした。
「店に持ちこんだのは、結構な数の袋だった。何でも、新しい商品に使うらしい」
「……なるほど。でもそれだと、女性の死亡はどうなるんです?」
男たちは互いの顔を見合せ、肩をすくめてしまう。どうやら彼らはこれ以上の情報は持っていないようで、早々と解散してしまった。
全 紫釉も、これ以上ここにいたところで情報は得られないと気づき、踵を返す。
ふと、女たちが彼に目をつけ、艶めいた声で呼んでいた。けれど全 紫釉は耳を貸すどころか、見向きもしない。
しばらくすると地区の入り口付近までやってきて、ふうーと深呼吸した。その場にしゃがみ、大きな瞳に少しばかりの焦りを混ぜる。
「……き、緊張した。私、上手く聞き取りできたかな?」
──爛清のように、誰とでも気さくに話せるわけじゃない。むしろ、人見知りすらしてしまう。そんな私がこんなふうに、堂々と話を聞くなんて……
これも、爛 梓豪という人の影響なのだろうか。そう、考えてしまった。
黒髪の青年の笑顔を思い浮かべていく。屈託なく笑い、誰とでも仲良く話す。見知らぬ人ですら笑顔にしてしまう、不思議な魅力のある青年、それが爛 梓豪だった。
──別に、彼を真似しようなんて思ってない。だって私にはできないから。彼の明るくて無邪気なあの笑顔……
トクッ……ン。
「…………?」
そのときだった。全 紫釉は胸の中で、爛 梓豪に対する不思議な高鳴りを覚える。
小首を傾げて、華服の上から心臓に手を当てた。
「どうしよう。風邪、ひいたかも」
火照ってしまった頬や、いつもより激しい鼓動。手汗もすごく、どうしようもないほどに混乱してしまう。
「こ、困った。ここ最近は元気だったから、油断してたかも」
途方に暮れながら、落ち着かない鼓動を何とか正常に戻そうとした。
そのとき──
「…………若」
光の当たらない物陰から声が聞こえてくる。声は嗄れていて、老人のようだった。
その声を耳にした彼は、直前までの胸の高鳴りを忘れて腰を立たせる。
無表情に近い、感情のない瞳になり、声がした方を眺めた。
「あまり、無茶はなさらぬよう。お父君が、ご心配なさいますゆえ」
「…………わかっています」
銀の髪がさらりと、黒い布からはみ出す。それを気にすることなく、無言で拳を強く握った。