祠と鬼園《グゥイエン》
意識を失い、呼吸すら危うい。そんな状態の全 紫釉に、爛 梓豪は何度も唇を合わせた。
もちろんそれは、邪な気持ちなどではない。全 紫釉の息を戻すための行為だった。
「阿釉、阿釉!」
適度に力を入れて心臓を押さえる。人工呼吸とそれを繰り返した。
すると……
「……うっ」
「あ、阿釉!?」
げほっ、ごほっと、全 紫釉は飲んでしまった水を吐く。
弱々しくはあるけれど息をしていて、爛 梓豪はホッと胸を撫で下ろした。腰を抜かしてしまい、その場に座りこむ。はあーと盛大なため息を溢し、冷や汗を拭った。
「よかったぁ。……ん?」
そのとき、橋 鈴藤が医者を連れて戻ってくる。
白い漢服に身を包んだ初老の男だ。片手に箱を持っていて、急いで中身を開く。
「……な、なあ。阿釉は、無事だよな!? あんたに任せれば大丈夫なんだよな!?」
「当たり前です。何があっても、この方を死なせるわけにはいきませぬ!」
老人とは思えないほどの迫力で、爛 梓豪の戸惑いを一喝した。
爛 梓豪は医者の物言いに、多少の引っかかりを覚える。けれど今は大切な人の命の方を優先すべきだと、質問を思いとどまった。
「……水をたくさん飲んでしまったようですが、命に危険はないようですね。今日明日は、ゆっくり休んでおけばいいでしょう」
「本当か!?」
「ええ。あなた様の人命救助処置が的確でしたから」
そう言われた彼は、その場に大の字になる。はははと笑いながら、ふうーと、軽く深呼吸をした。
「朝昼晩のご飯の後に、この薬を飲ませてあげてください。それでは」
医者は彼に薬を渡して、頭を下げて仕事場へと戻っていく。
それを見送る彼は、橋 鈴藤にお礼を伝えた。
「いいえ。人の命がかかっているんだもの。お礼を言われることではないわ」
「……はは。そう、言ってもらえると助かるよ。それにしても……」
全 紫釉を凝視する。そして池へと視線を移した。
「あの祠は、何だったんだ? あれのせいで、阿釉はこんな状態になっちゃってるんだし……」
起き上がり、濡れていない自分の上着を全 紫釉の体へと被せる。水で張りついた銀髪を退かしてあげながら、柔らかい肌に触れた。
「……ねえ阿清、そのことなんだけど……」
「うん?」
橋 鈴藤は腰を下ろす。袖の中から布を取り出し、全 紫釉の体についている水をできる限り拭いてあげた。
やがてそれが終わり、爛 梓豪へと向き直る。
「小さい頃に、老師から聞いたことがあるの。この池には、村の怨念を鎮めるための祠があるんだって」
「怨念? それに、村って……」
──阿藤の聞き間違えじゃないのか? ここは町だし、怨念が犇めいているなんて話、聞いたことがない。
橋 鈴藤に再度尋ねてみた。けれど彼女は、それ以上のことは知らない様子。首を左右にふっている。
「ここは鬼園だ。村じゃなく、町でもある。阿藤が聞き間違え……って、阿藤?」
橋 鈴藤が突然、踵を返した。そのことに多少の戸惑いを見せ、どこに行くんだと引き留めてみる。すると...…
「ふたりとも、びしょ濡れよ? 私、着替えもらってくるわ」
そう、優しい声で微笑み、どこかへと行ってしまった。
彼女の姿が見えなくなるまで目で追いかけ、うーんと頬を掻く。
「……気を使わせてちゃったかな? ……ん?」
瞬間、全 紫釉の長いまつ毛が震えた。そして両目がゆっくりと開かれていく。
「阿釉、大丈夫か!?」
「……爛清? あれ? 私は、な、にを……」
爛 梓豪が手を貸し、全 紫釉の体を起こさせた。
どうやら全 紫釉の脳は回っていないようで、ぼーとしている。
「阿釉、覚えてないのか? 池の中にある変な祠の前で、意識を失ってたんだぞ?」
「…………あの祠は、変な祠ではありません」
ふらつく体を起こし、彼に肩を貸してと頼んだ。
爛 梓豪は迷いなく肩を貸し、東屋まで進む。そしてふたりは身を寄せ合うように椅子に腰かけ、チロチロと鳴く鳥の声を聞いた。
「私の知る限りあの祠は、怨念を鎮める物で間違いないはずです」
トロンとした瞳でありながら、声はハッキリとしている。
爛 梓豪は肩をすくませた。それでも知りたい欲求に勝てなかったため、それとなく問う。
「阿藤が聞いた話は正しかったってことか? でもそうなると、何の村だ? そもそも、ここは村じゃないし」
うーんと、腕を組んで悩んだ。
「そう、ですね。今は、違います」
「うん? その言い方だと、前は村……あっ! まさか……」
全 紫釉は軽く頷く。垂れている銀髪を耳にかけ、淡々と語った。
「そうです。ここは元々、とある村だったんです。その上に……村を基盤として、鬼園という町が出来たんです」
「……えっと。そうなると、何であの祠が必要になるわけ? 村が滅んだ後に違う町が出来るのって、珍しくないだろ?」
全 紫釉は一瞬だけ黙りこんでしまう。顔を伏せ、両手を膝の上でギュッと握っていた。
「確かに、珍しくはありません。でもあの祠……いいえ。その村自体が、特殊なんです」
「特殊?」
彼のおうむ返しに、全 紫釉は頷く。そして顔をあげ、目を合わせてきた。
「【枌洋】という村を、ご存知ですか?」
「……んん? えっと確か……疫病が蔓延して、一夜で滅んだ村。じゃ、なかったか?」
顎に手を当てて考える。視線をあっちへこっちへと動かし、最後に美しい人を直視した。
全 紫釉は感情を消したような表情をしている。じっと彼を見つめ、うんともすんとも言わなかった。
「……まさか」
そんな美しい人の反応に気づかないほど、彼は鈍くはない。次第に笑みが消えていき、驚愕の瞳へと変わった。
「この町は昔、枌洋の村だったって言うのか!?」
勢いよく立ち上がる。
濡れた髪からポタリ、ポタリと、水が落ちていった。それすら気にならないほどに、彼の中では衝撃的な答えとなっている。
一方で全 紫釉は、冷静そのものだった。彼の戸惑いには、黙って頷くだけ。表情ひとつ変えずに、美しい見目を顕にする。
「歴史では、疫病が広まって一夜で壊滅となっています。けれど、本当はそうではないんです」
座ってくださいと、彼の華服の袖を軽く摘んだ。
爛 梓豪はおとなしく座り、美しい人の瞳を注視する。
「……あの村が一夜で滅んだのは、間違いではありません。ただ、疫病などではなくある事件に巻きこまれ、村人全員が異形の化物……殭屍へと成り果てたからだと聞きます」
「殭屍だって!? あれは、仙人ですら倒すのが困難な妖怪って話だろ!?」
「正確には、妖怪ではありません。人間の成れの果て……人としての死を迎えることはおろか、死してもなおも、酷使し続けられてしまう存在です」
淡々と語る唇は、少しばかり青ざめていた。
爛 梓豪は思ってもみなかった名に、驚愕を隠せなくなってしまう。
「これは、父上から聞いた話なのですが……」
少しだけ、いいにくそうにしていた。もじもじとしながら、視線を泳がせている。
「枌洋の村の事件のとき、冥界の王とその妻。そして黄と黒族、私の叔父上でもある爛 春犂。彼らは当事者だったそうです」
「本当か!?」
「はい」
全 紫釉の頷きからは、偽りを感じなかった。
爛 梓豪はその言葉を信じ、黙って話に耳を傾ける。
「……そして当時、村人を殭屍へと変えた人物がいたそうです」
「…………」
爛 梓豪はもう何も驚かないぞという覚悟で、美しい人の話を聞き続けた。
「その人は、自らをこう名乗っていたそうです」
薄い唇が微かに震えている。長く、光を通すほどの薄い色の髪が、静かに揺れた。
「銀妃と──」




