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池の中

 全 紫釉(チュアン シユ)は池の中を泳いでいた。頭につけていた布と枝を外し、ポイッと捨てる。


 ──結構、広いな。それに、思った以上に深い。


 透明とまではいかないけれど、前が見える程度にはきれいな水のよう。泳ぐ鯉たちに囲まれながら足元を見た。

 池のはずなのに珊瑚や貝といった、海の生き物が生息している。魚は鯉以外にはいないものの、それでも池と呼ぶには少しばかり不思議な場所となっていた。


 ──この竹、必要なかったな。


 即席で作った竹筒を、そっと手放す。


 ──何となく、雰囲気みたいな感じで作ったけど……よく考えたら、私は術で自分の周りを守ることできるんだよね。


 そう考える彼の周囲は薄い膜のようなものに覆われていた。透明なそれは、魚との一定の距離を保っている。


 ──それよりも。爛清(バクチン)がいる場所の近くまで行かないと。


 盗み聞きなど趣味ではなかった。けれど好きな相手がお見合いすると聞かされた瞬間、全 紫釉(チュアン シユ)の脳裏を過ったのは……


 ──私を忘れてしまわないだろうか。お見合いして婚約が決まったら、私のことなどどうでもよくなってしまうんじゃないか? ……いいや。それ以前に、爛清(バクチン)を取られたくない。私だけの彼でいてほしいんだ。


 独占欲という名の、胸を締めけるような苦しみだった。考えただけで、胃がキリキリと痛む。彼の笑顔、そして優しさ。それらのすべてが常に、自分以外に向けられる。

 そんなこと、我慢できるはずがなかった。


 ──好きになった以上、立ち止まるのは嫌だ。爛清(バクチン)に嫌われるのも嫌だけど、誰かに取られるのは……


 もっと嫌だ。


 瞳をギュッときつく閉じる。目尻に涙を浮かべた。


 ──はあ。私は、いつからこんなに嫉妬深くなってしまったのだろう? ……ん? あれ?

  

 涙を拭きながら、苦く笑む。ふとした瞬間、前方に石でできた祠を見つけた。

 とても小さく、それなりに古びている。祠は淡い光を放っていた。その光は、消えてはついてを繰り返している。


『……祠? なぜ、こんなところに?』


 水中で立ち止まった。

 興味が涌き、祠の周囲をうろうろとする。手を伸ばして触ってみれば、ひんやりとした冷たさがあった。


『何でしょう、これ? ……それに、この配置(・・)。何か違和感がありますね』


 祠は屋根、扉、そして奉る神の像。これらが揃っていた。けれど何かがおかしいなと、小首を傾げながら観察していく。


『うーん。水の中にあるということ自体、おかしいことなんですけどね』


 禿(とく)という(くに)では、神を奉ることは基本だ。奉る神によって恩恵も違えば、効能だって違う。

 神者(しんじゃ)という神を奉る者たちが多ければ多いほど、その神は力を強く発揮できるとされていた。


『この祠が、水の神なら別にここにあっても不思議ではないけど……あっ!』


 腕を組みながら考え、そして配置というものの違和感にたどり着く。


『そうか。この祠、奉る神の名が記されていないない』


 本来なら祠には、名を記した看板があるはずだった。けれどこれにはそれがなく、配置として不自然なかたちになっている。


『見た目からして、かなり昔のものなんでしょうね。多分、爛清(バクチン)が生まれるよりも前……下手をすると、この町ができるよりも前の可能性がありますね』


 ──藻が被っているということは、掃除すらされていないのだろう。それを考えると、少なくとも、私たち世代より前に置かれたことになる。


 再度、祠に触れてみた。そのとき、祠は強い光を放つ。


『……っ!?』


 目を開けていられないほどの光だ。瞬刻、全 紫釉(チュアン シユ)自身に変化が訪れる。

 走ってもいないのに呼吸が荒くなり、空気を吸うことが難しくなっていった。


『……まずい!』


 足元、そして背中から、焼けつくような熱さが生まれた。それは全身に行き渡る。


 ドクッ……ンッ!


『……うっ!』 


 心臓を貫かれるような激痛が走った。瞬間、彼の背中に、蒼い花のようなものが浮かびあがる。それは秒を待たずして、全 紫釉(チュアン シユ)の全身よりも大きく膨らんだ。

 

 ──とまれ、とまれ! 暴走するな。お願いだから、言うことを聞いて!


 苦痛にまみれた汗を額から流す。


 池の中を泳ぐ鯉たちが異変に気づき、慌てて彼から離れていった。珊瑚は色をなくし、貝は殻の中に閉じこもって小刻みに揺れる。


 それでも池の中の生物にごめんねと、心の中で謝ることが精一杯だった。


『…………っ!』


 そのとき、花が祠に吸われていく。花びらがバラバラになり、一枚一枚が祠へと吸いこまれていった。


 その光景を目の当たりにし、両目を見開く。


『…………まさかこの祠、【霊限(れいげん)の扉】の……っ!?』


 体を覆っていた膜が、パンッと音を鳴らして爆ぜた。同時に空気がなくなり、全 紫釉(チュアン シユ)は息苦しさを覚える。両手で口を押さえるけれど、息が続くはずもなかった。

 そして息ができなくなり、意識を失ってしまう──






 祠が蒼白く光る。

 その祠の前で、全 紫釉(チュアン シユ)は意識を失うように眠っていた。

 後ろの景色が見えるほどに透明な蒼い花に包まれながら、仰向けで浮いている。


『…………』 


 しばらくして、ふっと目を覚ました。けれど瞳には光がなく、虚ろだった。


『み、つ、け、た』


 誰の声か。そう疑いたくなるような、とても低い声が、全 紫釉(チュアン シユ)から放たれた。


 すると、蒼い花は音もなく消えていく。そして全 紫釉(チュアン シユ)は再び意識を失い、池の底に沈んでいった──


 ──私は、何をしているのだろうか。ああ、そうか……これは罰だ。大好きな爛清(バクチン)、あなたを信じることができなかった。そんな私への……


 目尻に涙が伝う。指一本すら動かすことができずに、ただ、深く沈んでいった──



「──阿釉(アーユ)!」


 何かが水の中に入ってくる音とともに、慌てた声が響く。

 そして暖かな手が、全 紫釉(チュアン シユ)を包んだ。長い黒髪が、不安そうな瞳が、全 紫釉(チュアン シユ)を見つめている。

 意識のない全 紫釉(チュアン シユ)を、黒髪を持つ人がギュッと抱きしめた。声には出さないけれど、瞳を悲痛なほどにしめつけている。


「…………」 


 ──ああ、幻を見るほどに、私は彼のことが好きなんだなぁ。この温もりも、きっと幻なんだろう。


 一瞬だけ目を開けた。けれど意識そのものを保てないまま、瞳を閉じる。



 そして意識を失った全 紫釉(チュアン シユ)は黒髪の人に抱かれながら、地上へと昇っていった。

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