池は温かいです
爛 梓豪に連れられてやってきたのは、池の前だった。
そこでは黄族たちが兵に囲まれ、黒族の者たちが訝しげな目で見ている。
「……あのぉ。これは、どういう状況なんでしょう?」
爛 梓豪にたたき起こされた挙げ句、無理やり連れてこられた。その先には黄族の者たちを囲む黒族、そして数名の兵だった。
名もなき流派の者たちは苦笑いし、爛 梓豪の姿を見るなり駆けよってくる。
全 紫釉は彼を凝視した。
「こいつら、池の中にある銀銭を盗もうとしてたらしい」
「え? ……ああ。願掛けだかで、投げたあれですか? え? ても銀銭は、元々彼らの物ですよね? 何の問題もないのでは?」
爛 梓豪を見れる。彼は腕を組ながら首をふった。
「願掛けで銀銭を落とした人は、あいつらだけじゃねー。俺たちが関所に着く前にも、いろんな人が池に銀銭を落としたらしい」
「……あー……なるほど。つまりは、自分たち以外の銀銭も取ってしまったと」
全 紫釉が苦笑いすれば、彼もつられて肩をすくませてしまう。
複数人に囲まれて正座している黄族の者たちを凝視した。彼らの中には黄 珍光もいて、身を縮めながらどんよりとしている。えぐえぐっと、情けないぐらいに泣いてもいた。
そんな彼らは、体を縄でぐるぐる巻きにされている。
──黄族は成金の流派だって話だけど。これを見る限り、あながち、間違いじゃなさそうなんだよね。
銀の髪が夜風に揺れる。手で髪を押さえ、黄族たちを見下ろした。そして膝を曲げ、黄 珍光と目線の高さを合わせる。
「何で、こんなことしたんです?」
こてんと、小首を傾げた。
大きな瞳と薄い唇が動くたびに、彼らからはゴクッと唾を飲む音が聞こえてくる。
すると黄 珍光は、ぽつぽつと語りだした。
「……ぎ、銀銭が勿体ないって思って。ひとつでも回収できればって、思ったんスよ」
勿体ない精神が働いたのだろう。黄族は成金と言われているだけあり、どうにも銭にがめついようだ。
それを聞いた全 紫釉はもちろん、黒族や兵ですら、あきれてしまう。やれやれと、肩からため息をついた。
「えっと……願掛けのために投げ入れた銀銭を取り出してしまったら、叶うものも叶わないのでは?」
「…………あっ!」
黄色い漢服を着た者たちが全員で、驚きながら声をあげる。
「気づいてなかったんですね? ……はあー。ん?」
ふと、爛 梓豪の顔が真っ青になっていることに気づく。いったいどうしたのかと尋ねた。すると……
彼は体をわなわなさせながら、全 紫釉の両肩を強く掴んだ。
「ど、どうしよう阿釉! 俺、前に別の願掛け池に銀銭投げたけど、勿体ないと思って翌日に取り戻しちゃったよ!」
「……あなた、馬鹿ですよね?」
「ぐっはぁーー!」
大袈裟なまでに四つん這いになる。
全 紫釉はそんは彼を無視し、兵たちに頭を下げる。
「申し訳ありません。今回はこちらでしっかりと説教しますので、見なかったことにしてもらえないでしょうか?」
全 紫釉の礼儀正しさに、兵たちは困惑した。やがてその意見に了承した兵たちは渋々、持ち場へと戻って行く。
黄 珍光たちは紐を解かれ、自由の身となった。けれどまったく反省している様子はなく、銀銭を手にして笑っている。
ただひとり、黄 珍光だけは、銭を池へと戻した。がめつさが招いた出来事が、よほど堪えたのだろう。目尻に僅かな涙を浮かべては「もう、こんな罰当たりなことしないッス」と、反省していた。
ふと、隣を見れば、爛 梓豪も後悔の涙を流しながら何度も頷いている。
「……爛清、彼らが池から取り出した銀銭、集めてください」
「ん? おお、わかった」
彼の素直な対応にクスッと微笑したくなる気持ちを押さえ、全 紫釉は待った。数分後、集められた銀銭を手のひらへと置く。
──やはり、どれもがきれいになっている。そうなると、この池に落ちた粉。あれは小麦粉ではなく、もしかして……
「ひとつ確認なのですが、ここに落としたのは小麦粉という話でしたよね?」
「そうらしいな。それかどうかしたのか?」
「…………その小麦粉、少しわけてもらうことできないのでしょうか?」
しばし考え、実物を見たいのだと伝える。
すると爛 梓豪はにんまりと、口をにやけさせた。華服の袖の中へと手を突っこみ、布を取り出す。
「阿釉のことだから、そう言うと思ってさ。さっき、わけてもらったんだ」
それを広げると、白い粉があった。
全 紫釉は彼の根回しのよさに感心しながら、そっと指につけてみる。さらさらとした、どこにでもある粉のような手触りだ。匂いはまったくしない。
「……さすがに舐めるのは、無理ですね」
「当たり前だ!」
驚いている彼をよそに、静かに頷いた。全員へと向き直り、眉を軽く緩ませる。
「銀銭がきれいになった理由がわかりました」
その言葉に、爛 梓豪たちは驚愕した。いったいどういうことなのかと、詰めよろうとする者もいる。けれどその都度、爛 梓豪が壁になってくれていた。
「阿釉、教えてくれよ。どういうことだ?」
全 紫釉を背に、他の者たちに睨みを利かせる。
さながら番犬のような行動をする彼の背中を見つめ、全 紫釉は透き通る声で答えた。
「これは、小麦粉ではありません。重曹という粉です」
「じゅ……?」
彼が振り向けば、全 紫釉は池を指差す。
それにつられた者たちが皆、池を注視した。
ひとりひとりが提灯を持っているおかげが、周囲は見ることができる。提灯の灯りがうっすらと宙に浮くように、淡く照らしていた。
池の方に灯りを向ければ、昼間とは違ったくらい闇が広がっている。それでも蓮は咲いたまに、ゆらゆらと幹を伸ばしていた。
「重曹とは、銀などをきれいに磨く力があります。物によっては、色が変わったりするようですが……」
手のひらの上に乗るいくつかの銀銭を、コロコロと転がして遊ぶ。唯一、この場で提灯を持たない全 紫釉だったが夜のせいなのか、妙に瞳の色が濃い。
深い深紅色に染まった瞳で、銀銭に視線を置いた。
「小麦粉と重曹を見分けることは、結構難しいと思います。ましてや知識がないとなると尚更、小麦粉との区別はつきにくいかと」
友中関で起きた事件の発端は小麦粉だ。粉を池に落としたことが始まりで、銀銭の願掛けとなっている。
「このさい、粉を落とした以降の事件の順番は重要ではありません。粉の正体が重曹で、結果として落とした銀銭がきれいになった。それが不思議な出来事とされ、願掛けというものになっていった」
おそらく、そんなところだろうと推測した。順番はどうであれ、いくつもの偶然が重なった結果、銀銭にたどり着く。
全 紫釉は、そう、皆に伝えた。
誰もがほうけ、全 紫釉の言葉に耳を傾けている。いいや。言い返せるだけの何かを持っていないのだろう。
辻褄とまではいかないけれど、口を挟めるだけの確かなものがなかったからだ。彼ら、あるいは彼女たちは、全 紫釉の言葉を聞きながら、なるほどなと、納得しつつある。
「さすがは阿釉だ! 俺じゃあ、まったくわからなかったぜ……おっと。となると残るは、泡と蓮か」
全 紫釉の肩に腕を回し、ニコニコと笑った。
「ああ。泡のことでしたら、多分それはお湯のせいだと思いますよ?」
「お湯?」
爛 梓豪へ、指を入れてみてと頼む。彼は肩から腕を離し、池へと向かった。そして言われたとおりに指を入れてみる。すると……
「あれ? ほんのり、温かいような……」
「その泡は、地下からお湯が湧いている証拠です。多分近いうちに、池の水はお湯に代わると思います」
「お湯に? ……へえ。それも自然現象のひとつってやつ? すっげぇー!」
そう言いながら濡れていない方の手で、全 紫釉の髪の一部を摘まんだ。そして何を思ったのか、髪を器用に三つ編みにし始める。
そんな彼の行動に慣れてしまっている全 紫釉は、黙認しながら頷いた。けれど彼の腕を軽く掴み、少しいいですかと耳元で囁く。彼を連れてひと気のない、建物の裏手へと向かった。