ひとつは解明できました
全 紫釉は、茶杯いっぱいに水を注いだ。溢れそうになるぐらいに注ぐけれど……
「…………へ? こ、零れてない?」
爛 梓豪は四つん這いになりながら、興味深く茶杯を眺める。上からのぞき、横からも。けれど静かにつつくと、少しだけ溢れた。
「んー? どうなってるんだ?」
腕を組ながら胡座を搔く。隣に黄 珍光を座らせ、あーでもないこーでもないと論を並べていった。
それは黄と黒族の者、それ以外の人たちにも言えること。彼らは思いつく限りのことを口にしてた。
「…………なあ阿釉、これは、どういうことなんだ?」
誰よりも早く音をあげた爛 梓豪が、這いずるように全 紫釉へとよる。頬をピッタリとつけて、甘えてきた。
「妖怪の仕業でも、何でもありません。これは、ただの自然現象のひとつです」
彼の近すぎる距離には慣れたもので、全 紫釉は口元を緩ませる。
「表面張力という言葉をご存じですか?」
「……ひょ、ひょう……あっ! わかった。俺がいつも叫ぶときに言って……」
「ああ、そういうのはいいので」
直後、爛 梓豪は笑顔から渋い表情に変わった。かと思えば部屋の隅で膝を抱え、いじけてしまう。
すると、つねに敵対していたはずの黄と黒族の者たちが、爛 梓豪の肩に手を置いた。まるで犬猿の仲など嘘だったかのように、爛 梓豪を中心に人々が集まっていく。
やがて全 紫釉以外の者たちが皆、彼とともに笑顔になっていた。
「…………」
──爛清は、本当に友だちを作る天才だ。それに、爛清は本当に見てて飽きない。彼がいるだけで、場が一気に明るくなる。ああ、やっぱり私は……
爛 梓豪という青年のことが好き。
改めて実感した。
誰にも知られることのない、誰も見ていないところで、ふふっとはにかむ。
そして髪を耳にかけ、彼の名を呼んだ。
爛 梓豪は表情をぱあーと明るくさせ、皆を引き連れてやってくる。
「気はすみましたか?」
「おう!」
どうやら一連のやり取りは、彼らにとっては当たり前のことのよう。何事もなかったかのように、隣どおしに座った。
周囲の者たちは呆気にとられてしまう。なかにはため息をついて「結局、痴話喧嘩かよ!」と、脱力する者もいた。
「……そんなことよりもお話の続き、いいですか?」
中性的な声音を響かせる。
並々に盛られた茶杯を指差した。
「このように、山盛りに盛られた水であっても溢れない現象を、表面張力と言います」
【表面張力】
液体や個体が、表面を圧縮しようと働く。
例えるならば、水とともに生きる水馬。あの微生物の脚は、水面の上で制止するようにできている。それが表面張力でもあった。
「異國ではその性質を用いて、水面上を歩く術があると聞きます」
「水面を歩くって……水馬みたいなこと、できるのか?」
「わかりません。それこそ、噂でしかありませんから。葉っぱによくついている水滴。あれも、表面張力でできてますよ」
茶杯に盛られている水に指の先をそっと入れる。瞬間、水は茶杯の外へと溢れていった。
「こうなる原理まではわかりませんが、何からの力を加えると表面張力はその効力を失うようです」
──表面張力については、あまり詳しくはない。正直これで合っているのかは不安だ。だけど小麦粉の件は、それしか考えられないし。
続いて小麦粉について話した。
池に落とした小麦粉が、中心だけを残して輪を作った。それはいったいどういうことなのか。
少しばかり肩をすくませながら、大きくため息をつく。
「小麦粉は落ちても沈みません。水面上に浮かぶだけです。それも表面張力のひとつですが……そこに何らかの力を加えていけば、小麦粉は中心に大きな輪を作ります」
懐から布を取り出し、ゆっくりと広げた。そこには白い粉がある。先ほどまで使っていた茶杯に、その粉を流しこんだ。
すると粉は一纏めになりながら浮く。
全 紫釉は粉の中心をちょっとだけつついた。瞬間、粉は指から逃げるように輪を作っていく。
これには、その場にいる誰もが驚きの声をあげた。
「阿釉、凄いじゃないか! 半分以上……ぶっちゃけ、ほとんどわかんなかったけど。小麦粉については、ひょ……何とかってやつで納得できたぞ!」
全 紫釉の肩を掴み、うんうんと頷きながら喜ぶ。
けれど、説明をした当の本人の全 紫釉は難しい顔をしていた。
──正直な話、私も表面張力というものについて詳しく知らない。専門家じゃないし。でも、説明つくのがこれぐらいしか……
意を決して、胸の内を明かそうとする。けれどこの場にいる者たちの喜びに満ちた表情を見てしまい、言い出せなくなってしまった。
困惑を眉に乗せ、苦く微笑む。
「いやぁー。謎はたくさん出てくるのに、答えがひとつもなくてさ。どうしたもんかって思ってたんだよ。阿釉のおかげで、ひとつ解消できた」
ありがとうと、無邪気に笑った。
「……あくまでも仮説でしありませんよ? それに、他のものはどうするんですか?」
「……うっ!」
皆、喜びに浸っていたのだが全 紫釉のまっとうな意見に、誰もが固まってしまう。それは爛 梓豪も同じなようで、表情が笑顔から困惑へと移っていった。
「そう、なんだよなぁ。聞きこみとかしても、たいした情報得られてないし」
残っているのは、みっつとなっている。
池の底から突然出てきた泡に加え、銀銭が磨かれて帰ってきたこと。
このふたつは、解明すらできていなかったのだ。
爛 梓豪はお手上げだとその場で胡座を掻き、口を尖らせる。
全 紫釉がそんな彼と向かい合うように座り、ふるふると首をふった。
「爛清、そのふたつについてですが、蓮が生息していることに関係があるように思います」
「うん? どういうことだ?」
爛 梓豪は、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くする。
黄 珍光や、他の者たち。彼や彼女たちは、興味津々に全 紫釉の話を聞いた。腰を下ろし丁寧に正座をする者もいれば、爛 梓豪のように胡座を掻く人もいる。
黄と黒族関係なく、全 紫釉の声に耳を傾け始めていた。
たくさんの視線を受けた全 紫釉だったが、堂々とした姿勢で口述をする。
「前提として、蓮が汚れた水でなければ生息できない。これは覆すことは不可能です。なのにあのような、底が見えるほどに透明できれいな水の中で生きるというのは、まずあり得ません」
他のものを調べるにしても何もでてこない以上、まったく新しい切り口から行くしかなかった。
全 紫釉はまっすぐ背筋を伸ばし、透き通る声を部屋中に轟かせる。
「私たちは、何を調べなくてはいけないのか。そもそも、それが必要なことなのか。その線引きはあってもいいと思います」
すべてを調べるには、時間が足りない。そう、はっきりと伝えた。
「だからこそ、一番おかしいと思われる蓮の生息について、調べるべきな気がしてならないんです」
「…………」
黄 珍光たちだけではない。爛 梓豪までもが、黙ってしまった。
全 紫釉はこの場に流れる緊張が混ざる空気に、不安と焦りを覚えていく。膝の上に置いている手汗を隠し、ただ、時間がすぎるのを待っていた。