池の謎
池の底から噴き出すのは泡だ。量はそれほどないけれど、近づくのを躊躇うほどには泡まみれになっている。
「……うっわぁ。何だ、これ」
爛 梓豪は、信じられないものを目にしながらほうけた。
黄と黒族の者たちは慌てて池から離れていく。
「これは……本当に予想外です。食用の粉が輪を作ったということの説明はできますが、この泡は意味がわかりませんね」
全 紫釉が被っている黒い衣を取った。そこから現れた銀髪をさらりと流す。
池を注視し、ふうーと息を吐いた。
──最初に聞いたあれは、自然現象のひとつとしての説明はつく。ただ、私は今回の事件はそれが原因だと思っていた。だけど……
顎をくいっとする。視線を池に向け続け、銀銭がたくさん中に入っていることを尋ねた。
「あー! それは、俺も気になってた。何でこんなに?」
彼は仲良くなったばかりの黄 珍光へと問う。
黄 珍光は、はははと苦笑いになった。言いにくそうにしながら、同族の者たちを横目に視線を送る。
「……もしかしてこれをやったのは、あなたのお仲間たちでしょうか?」
全 紫釉の丁寧だけど壁のある言葉遣いに、黄 珍光はたじろいだ。
誰もが黄族の者たちを凝視する。彼らはいたたまれなくなったのか、バツが悪そうに視線を逸らした。
「私も爛清も、先ほどまでこの場にいませんでした。事情がわからないとなると、困るのですが?」
美しい顔に笑みが乗る。けれどその瞳は、何一つとして笑ってはいなかった。
その笑顔に薄ら寒さを覚えたのは、爛 梓豪だけではない。黄 珍光はもちろん、他の者たちすらも身震いしてしまった。
「阿釉、怖い! 怖いから!」
慣れた彼ですら、この有り様だ。
初めてそれを体験する黄 珍光にとっては、涙もののよう。爛 梓豪の後ろに隠れてしまった。
「……はあ。私のことはどうでもいいと思いますけど? それよりも、教えてもらえません?」
いい加減、話を先に進めたい。淡々とした口調で、そう呟いた。
すると黄 珍光がそっと手を挙げる。爛 梓豪の後ろから顔を出し、何度も深呼吸をした。そして彼に、ぼそぼそと耳打ちする。
「…………え? そんな願掛けなんてあんの!?」
「願掛け?」
──こんな閑静な関所で願掛け、ですか? 聞いたことがない。
「その願掛けがこの銀銭と、どう関係しているのでしょう?」
こてんと、小首を傾げた。銀の髪がふわりと、おとなしく揺れる。
そんな全 紫釉の姿に、黄 珍光は目を丸くした。やがて盾にしていた彼から離れ、全 紫釉の前に立つ。
「少し前から、この関所で流行った願掛けッス。この池に銀銭を投げて、一日沈まなければ願いが叶うそうッスよ?」
「……ありきたりではありますね」
──やっぱり、聞いたことがない。先月、叔父上と一緒にこの関所に来たときは、そんな願掛けすらなかった。
「……だいたいはわかりました。正直に申しますと、私は先月にここへ訪れています。けれどそのときは、このような願掛けなど伝わってはいませんでした」
「え? そうなんッスか!?」
「ええ」
池の中をのぞいてみる。
先ほどまで出ていた泡は鳴りを潜め、とても静かだ。池の底で光る銀銭をひとつ手に取り、それを太陽の光に翳す。
──銀銭自体は普通だ。どこにでもあるやつだけど……妙にきれいだな。
硝子のように、全 紫釉の顔を映していた。
「この銀銭……元から、このようにきれいだったのでしょうか?」
銀銭を黄 珍光へと渡す。
受け取った黄 珍光は銀銭をじっと見つめ、首を左右にふった。
「まさか。こんなにきれいじゃなかったスよ。そもそも、銭なんて使っちゃう物ッスからね。きれいに磨く必要すら、ないッスよ?」
「そう、ですね……」
──そうなると……やっぱり、この池のおかげできれいになったっということか。
再び池をのぞく。そっと指を入れ、くるくるとその場で回してみた。
「……少し、熱いですね」
池というからには冷たい。そう、予想していた。にも関わらず、生温さがあることに驚いてしまう。
指を抜き、爛 梓豪の華服の袖で拭いた。当然彼からは「おいこら!」と、文句が零れてくる。
「爛清、それから皆さん。この池で起きた事件が多すぎるようですので、一旦整理してみませんか?」
彼の苦情を無視し、その場にいる同士へと提案した。
□ □ □ ■ ■ ■
関所の二階に部屋を借り、全 紫釉たちは情報の整理に取りかかった。
長い巻物を広げ、全 紫釉は達筆に字を連ねていく。
「今、この関所……あの池で起きている事案は以下のとおりです」
・小麦粉を池に落としてしまう。その粉が中心だけ避けるように輪を作った。
・銀銭がきれいになった。
・池の底から泡が噴き出した。
そこまで書いて、他にもないかと尋ねる。すると女修業者が手を挙げ、恐る恐る伝えていった。
「落ちた蓮の実を食べた魚が、すぐに死んだという話を聞きました」
「蓮の実、ですか……」
筆をとめる。顎に手を当てて、思考の海へと自らを落としていった。
──そもそもな話、蓮があること自体がおかしい。あの花は確か、ここにある池のように透き通った水では生息できなかったはず。それとも、私の記憶違いなのだろうか?
すっと立ち上がる。自分で書いた文字を凝視し、あることを告げた。
「前提として、あの透明な池に蓮の花が生息していること自体が謎です」
包み隠さず話す。
すると爛 梓豪が待ったをかけてきた。
「阿釉、別に謎でも何でもないんじゃないか? 蓮なんてどこにでもあるし……」
「いいえ。蓮は生息地が限られているんです」
はっきりと口にする。
爛 梓豪をはじめとした同士たちに動揺が走った。それでも全 紫釉は蓮について、淡々と述べていく。
「蓮はある程度汚れた水……沼などを好みます。池だったとしても、底が見えるほどに透明な場所では生息できません。これは、地下水を吸い上げて生きているからだとも言われているそうです」
「…………」
全 紫釉の説明は、彼らを黙らせるのにはじゅうぶんなよう。彼らは隣同士で顔を見合せては驚愕をしていた。
けれどその知識に不満を持つ者もいるようで……全 紫釉を睨んでは、ひそひそとしていた。
──ああ、やっぱりだ。いつも稀有な目で見られてしまう。
見た目から始まり、豊富な知識。前者は気味悪がられ、後者は疎まれる。
全 紫釉はつねに、人々からそういった視線を浴びて生きてきた。慣れていたとしても、やはり心にくるものがあるため、一歩後ろの場所しか安心できない。
顔を伏せ、黒い衣を被ってしまおう。そんな気持ちから、心の殻代わりの衣へと手を伸ばした。
そのとき──
「……へぇ。そうだったのか。あっ! そういえば、皆、聞いてくれよー。お師匠様が前に【蓮は沼地の方がよく育つ】って言ってたな。で、納得いかなかった俺は、お師匠様が植えた蓮をきれいな池に植えなおしたんだよな。そうしたら、何てことをしてくれたんだ! って、お尻たたき百回の刑に処されちゃってさぁー」
わっはっはっと、明るい声で笑い話をする。
どうやら、全 紫釉を孤立させまいとしているようだ。
現に他の者たちは、話のネタを全 紫釉から彼へと移していた。
爛 梓豪を見れば片目を瞑り、任せろと言っているような笑顔を浮かべている。
全 紫釉の肩に腕を回し、仲良し加減を見せつけた。
「…………っ!?」
──爛清、ありがとうございます。
彼の機転にホッと胸を撫で下ろす。泣きたくなる気持ちを堪え、胸の奥にある温かさに身を任せていった。
「大丈夫だよ阿釉」
ボソッと。全 紫釉にしか届かない小声で話す。
「自信を持て。俺は、お前の言葉を信じてるから。絶対に、裏切らないからさ」
白い歯を見せ、全 紫釉が被ろとした黒い衣をそっと剥がしていった。
殻の代わりになっていた黒い衣は、彼の手の中にすべて収まる。
「爛清……」
熱くなっていく目頭を擦った。顔をあげ、同士と向き合う。
そして、茶杯と水を持ってきてほしいと頼んだ。
「いくつかの謎。それらの中にひとつだけ、今、証明できるものがあります」
彼の勇気と優しさを受け取り、全 紫釉は茶杯と水を使って、ある実験を始めた。




